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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
32/72

雨は去って-2

 オリヴィエはリカルドのベッドの上、眠れずに黄ばんだ天井を眺めていた。耳の奥で鳴り響く耳鳴りは、換気扇のカラカラという音を遠くに籠らせる。

 体を覆う白いシーツには、古いタバコの匂いが染み込み、リカルドの存在をこれでもかと主張している。

 むせかえるほどのタバコの匂いが、今のオリヴィエには安心感を与えるものとなった。

 目の前の空っぽになったマグカップの隣には、カターニアで買ったピスタチオペーストの缶が置いてある。あの日、転がり落ちたはずの缶。少し端が凹んで不恰好になっている。


──諦めて帰るか、俺に頭下げてシチリアに残るか。


 鋭く刺すような雨、その冷たさの中微かに感じた背中の温もり。彼は自分よりずっと背の高い人だけど、それよりも頼もしく、包み込むように感じた。

 シチリアへ辿り着くまで、シエナでも、ナポリでも、何かに怯えながら逃げ続けた。雨の路地裏で震えた時も、凍てつくような空き家で凍えた夜も、ずっと一人だった。誰も、自分のことなど見つけない。

 でも、彼だけは自分を見つけてくれた。

 オリヴィエはシーツを握りしめ、瞳を熱っぽく揺らした。


「僕、ここにいていいんだ」


 シーツに顔を埋め、古いタバコの匂いを嗅ぐ。そこにリカルドがいるようで、震える手で小さく握り直した。

 だが、まだ下がり切らない熱と頭痛に、オリヴィエは肩を強張らせる。額に手を当ててみるが、熱い掌では意味がない。


「熱い……でも、何か冷たいものが触れたような……リカルドさんかな?」


 いやいや、そんなまさか。と内心で否定しながらも、その冷たさを確かめるよう、額に手を当てたまま再び天井を見つめた。

 その時、スタジオの奥から扉の軋む音がして、オリヴィエは思わず目を閉じた。

 遠くからワークブーツの重い音が近付いてくる。

 部屋の衝立を開け放つ音と共に、タバコと微かなエスプレッソの香りが部屋に流れ込んできた。足音はゆっくりとベッドに近付き、やがてオリヴィエの目の前で止まった。固く閉じた瞼を開きたい衝動を抑え、シーツの中で、オリヴィエの鼓動が少し早まる。

 すると、額にひんやりと冷たい何かが触れる。それが、リカルドの大きな手だと気付くのに時間は掛からなかった。


「熱いな」


 と呟いて、その感触が離れそうなのを、オリヴィエは思わず引き留めてしまった。


「起きてたのかよ」

「熱いんです。もう少しだけ……」

「はぁ?」


 少し困惑の色を見せたリカルドだったが、小さくため息をついて再び額に触れた。右の掌が熱を帯びてくると、リカルドはまだ冷たい左手に切り替えた。すると、オリヴィエは弱々しくも彼の手をしっかりと掴み、そのまま自身の首元へと誘導した。

 細く、白い首。だがその下には熱が籠っているのか、ほんのりと赤くなっている。緩く結われた髪が枕に広がり、うなじがこちらを誘うように覗いている。

 リカルドは一瞬躊躇ったが、やがて素直に応じ、掌で熱を吸い取るようその細い首に指先を絡めた。指の下で、オリヴィエの拍動が伝わる。少し絞めれば、すぐにでも折れてしまいそうな首。


「ん……」


 冷たさに身じろぎ、オリヴィエが小さな声を出す。

 あの日に触れたエレナの残された体温、首を掴んで笑うハージムの目が過ぎり、リカルドは思わず手を離した。夢の中の過去が、現実に手を伸ばす感覚。鼓動が早まり、呼吸が乱れるのを必死に抑える。

 リカルドは数歩下がり、やがて名残惜しそうなオリヴィエの頬を、ピシャッと叩いた。鼓動が、オリヴィエに伝わらないように。


「痛っ」

「気色悪ぃ声出すな。ふざけてねぇでさっさと寝ろ」

「冷たくて、気持ちよかったから……」

「やめろ。そんな趣味はねぇ」


 口を尖らせるオリヴィエに背を向け、リカルドは震えを隠すようにタバコに火をつけた。



 翌朝、オリヴィエが目覚めると部屋はオリーブとチーズの匂いで満ちていた。

 体を起こすが、熱はない。少し体は重いが、昨日のような怠さは消えていた。奥で響き続けていた耳鳴りは消え、遠くの波音と海鳥の声がはっきりと聞こえる。

 空気を肺に取り込むように、一度伸びをして見渡す。部屋のあちこちに相変わらず散らかった空き缶、隅には洗濯物が洗われずに山になっている。

 やがて、キッチンからリカルドが白いボールを手に戻ってきた。表面からは湯気が立ち上り、オリーブとチーズの優しい香りが鼻をくすぐる。

 少し溶けかけたチーズが乗った「リーゾ・イン・ビアンコ」。純白のリゾットの上で、オリーブオイルの雫が陽光に反射して、エメラルド色の小さな星のように輝いている。

 その純白さは、散らかった部屋の中であまりにも不釣り合いで、だからこそオリヴィエには救いのように見えた。


 そのまま食欲を誘う香りに引き寄せられ、オリヴィエはスプーンで掬い、口に運んでいく。鼻を抜ける新鮮な匂いと、リゾットに絡みつくチーズが喉を通り抜ける。オリヴィエは一瞬で翡翠の瞳を輝かせた。


「美味しい……! リカルドさん、料理出来る、ですね!」

「こんなもん料理の内に入らねぇよ」


 ぶっきらぼうに吐き捨てたが、やがて照れ隠しのようにタバコを取り出した。

 タバコの火が燃え、ちりちりと音を立て、指に挟むと微かに灰が落ちる。その苦い匂いも、葉の燃える小さな音も、散っていく灰も、全てがリカルドの存在を感じさせ、シチリアにいてもいいと肯定してくれるように思えた。


「あの……本当に僕、ここにいていい、ですか?」


 確かめるように声を出す。


「とりあえず二週間だ」

「え?」


 リカルドは灰色の煙を吐き出し、そばにあった椅子を引き寄せてどっしりと座った。困惑するオリヴィエの瞳をじっと見つめる。


「二週間はスタジオから出るな。それまでに、お前の「居場所」を俺が用意してやる」


 窓から潮風が吹き、未だ困惑するオリヴィエの乱れた薄金色の髪を揺らした。頬を撫でた冷たい風が、熱で火照った体を冷ましていく。

 こうして、二人の窮屈で奇妙な共同生活が始まった。

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