デイジーの願い-1
二週間ぶりのシチリアの風は冷たさを帯びていた。十月の終わり、潮風は漁師の怒鳴り声と共に、微かなオリーブの匂いを運んでいる。
扉を開けると視界が真っ白に弾けた。灼熱の太陽が雲間から差し込み、室内に慣れきった網膜を焼くようだった。ゆっくりと輪郭を捉え始める。窓枠という額縁に収まっていた海は、外に出れば逃げ場がないほどにずっと大きかった。
そんなこと当たり前だけど。と内心で苦笑しながらも、砂利道を踏み締めるたびオリヴィエの足取りは軽くなっていた。
肩に掛けた麻袋の中には、リカルドからもらった「居場所」が静かに収まっている。時折、その紙の感触を確かめながら、路地裏へ向かった。
昼間の市場は、陽射しが石畳を黄色く染め、露店に並ぶトマトの赤や野菜の緑が眩しく映える。氷の上で跳ねる魚の鱗、まな板を叩く乾いた音。
「新鮮なトンノだよ!」
「傷んだ野菜くらい一ユーロでいいだろ!」
魚屋の店主の怒号のような呼び声も、野菜を値切る老婆の言い争う声も、すべてが波音と溶け合ってオリヴィエの薄金色の髪を優しく撫でた。
数ヶ月前と何も変わっていない喧騒。騒々しくも愛おしい日常。オリヴィエは一肺いっぱいに空気を取り込むと、潮と埃の匂いが胸を満たす。自分がこの景色の一部になれたのだという実感が、熱い塊となって喉の奥を迫り上げてくる。その時、後ろから大きな手が、バシンッと背中を叩いた。
「久しぶりだな、ガキ!」
「あ、マリオさん」
振り返ると、日に焼けた赤い顔と、白髪混じりの顎髭で豪快に笑っている。服からは相変わらず魚の生臭い匂いが漂っている。
手を引かれ、強引にスタジオへ連れて行かれた日のことを思い出し少し警戒するが、今朝のリカルドの横顔が頭に過ぎる。目を伏せ、麻袋に入れた紙の感触を確かめるようにそっと触れる。
「あの……マリオさん。僕の、身分証のこと……」
「俺は紙を持ってっただけだ。だが……」
マリオはオリヴィエの言葉を遮るように、豪快に笑って肩を叩いた。
「師匠には、感謝しとけ」
その手の重みに、オリヴィエは言葉を飲み込んだ。
この薄い紙切れ一枚を巡って、リカルドとマリオの間でどんなやり取りがったのか、想像することしかできない。だが、底知れない影を前に、この薄氷の上で平穏を装うリカルドのぶっきらぼうな足取りを思うと、胸が熱く締め付けられた。「はい」と短く返した声は、潮風に溶けて消えた。
マリオもそれ以上余計な追求はしなかった。たただ眉を上げ、活気に満ちた市場の喧騒に目を向けて、奥を指差す。
「マルコの店に行ってみたらどうだ? ガキどもが心配してたぞ」
指し示されたのは、噴水の先にあるクリーム色の建物だ。その中にある石造りの古い露店、|マッチェライオ・ディ・ルカ《ルカの肉屋》と書かれた錆びた看板が見える。
「ソフィアも、心配してたかな」
「そりゃあな。毎日顔合わせてた奴が、二週間も消えりゃ誰だって騒ぐ。……とりあえず行ってみろよ。もう心配することは何もない、だろ?」
マリオの問いかけに、オリヴィエは一瞬躊躇うように目を伏せた。心配することはない、だが、あの紙の束を置く「湿った音」が頭から離れない。今はマリオの言葉を信じるしかなかった。オリヴィエは顔を上げ、石造りの店へと向かう。
店へと近付くにつれ、肉が焼ける香ばしい匂いに、ローズマリーと胡椒の刺激臭と生々しい血の匂いが混じり始めた。カウンター横の網の上では、串焼きの肉から滴る脂がパチパチと弾けている。まな板の上には無造作に転がる剥かれた兎の足を見て、オリヴィエは喉の奥から苦いものが迫り上がるのを堪えた。
奥ではマルコの父、ルカが四角い包丁を手に鮮やかな色の肉を捌き、辺りに血が滲む。飛び散る血の赤が、リカルドの左腕にある光を吸い込むほどの黒とは対照的に、残酷なほど明るく見えた。
「Salve、久しぶり」
「おう! いらっしゃ……oi! オリヴィエじゃねぇか!」
ルカのエプロンは相変わらずキツそうに張っている。彼は包丁を置き、血の滲んだエプロンを片手でパンっと叩いた。
「おい、マルコ! 出てこい!」
「……何だよ、親父……おわ! オリヴィエ!」
心底面倒臭そうに扉から出てきたマルコは、オリヴィエの顔を見るなり目を見開いた。寄れたTシャツと寝癖を手で簡単に整えると、カウンターを乗り越えんばかりに飛び出してきた。
「久しぶり! 風邪は大丈夫なのか? 長かったから死んだのかと思った」
「うん。もう、大丈夫」
麻袋越しに、あの紙のざらざらとした感触を指でなぞる。二週間長引いた風邪という嘘、身分証の真実。その境界線で、自分の指先だけが冷たい。
「随分長引いたんだな。ソフィアなんて見舞いに行くって飛び出してったと思ったら、恥ずかしくなって戻って来たり。……行ったり来たり、騒がしいやつだぜ」
寝起きでもマルコの口はよく回るな、と感心しつつ、真っ直ぐなソフィアの好意に少し罪悪感を覚えた。
「そっか。心配かけちゃった……ソフィアは? 今どこ?」
「会わなかったか? 今日こそは見舞いに行くってさっき飛び出してったぞ」
「帰りに会えるだろ」と一言言うと、網から引ったくった串焼きをオリヴィエの口へ強引に押し付けた。オリヴィエは思わず口に頬張る。溢れるほどの熱い肉汁と、強いローズマリーの香り。直後、ルカの拳骨がマルコの頭に落ちた。涙目で頭を抑えるマルコと、唾を飛ばしながら怒鳴りつけるルカ、その騒がしささえも懐かしく感じる。
オリヴィエは争いに巻き込まれないよう、口いっぱいに肉を頬張りながら「ciau」と手を振り、その場を後にした。




