76 命とゴミ
「先輩、だぁ?」
俺の眼前で女を踏み付けている四級掃除屋が、不可解そうな顔をする。それはそうだろう、この戦場と化した東部居住区で、俺のような下っ端の雑魚が唐突に背後に現れたのだ。理解不能に決まっている。
「えぇっと、そうですね……こんなこと言うと驚くかもしれませんが、実は俺ちょっとした事故に巻き込まれて、空間転移して来たんですよ。いや、本当に。人が居るところに転移できて助かった」
「あ? その制服、六級掃除屋か? お前みたいなカスがなんで生き延びてる」
「運が良かったので。それよりお願いします、ここが東部居住区の何番地かだけでも教えてください。そしたら俺は行きますから」
「C地区の二百六番地だ」
意外にも、掃除屋の男は素直に情報を提供してくれる。彼の雰囲気からして格下には強く当たるタイプだと思ったのだが。
「ありがとうございます。じゃあ、俺はこれで」
「──ぅ、ぁ……! ま、って……!」
……消え入りそうな、しかし確固たる意志に満ちた声が聞こえた、女の声だった。恐らくはあの男に顔を踏まれて地面にへばりついている女性が喋ったのだろう。それは彼女の無様な格好からは想像もつかないほどに、強い命への渇望と、凛とした覚悟を感じさせる声色だった。
俺は一度は立ち去ろうとした足を止めて、また四級掃除屋の男に向き直る。
「もう一つ質問いいですか?」
「好きにしろ。手早くな」
「先輩は死んだ人間についてどう思います?」
「そんなの、どうも思わねぇよ、死んだ奴はただの生肉だ。強いて言うなら……金の匂いを感じるってくらいか」
──彼の考えはまさしく基本的なもので、口を挟む余地がないくらい正しいものだった。死んだ人間はただの肉であり、そこに感情を持つ理由など何も無い。死体を見つけた者は、ただ機械的に持ち物を剥ぎ取り、当然の権利のように死肉を解体し、然るべき相手に売りつけるのだ。
迷宮において人の死体は、ありふれたショボい換金アイテムに過ぎない。
「俺も同じ考えです。人間は死んだ瞬間にゴミクズに変わる。でもだからこそ命は、何よりも大切にするべきだと思うんですよ」
「……何が言いたい?」
「先輩は、生きる事を諦めてますよね。そこで倒れてる女の人とは違って」
「なんだって?」
男は驚いた顔で言葉を詰まらせて、自分の足元を見やる。そこには依然として、浅い呼吸を繰り返すボロ雑巾のような女が転がっているばかりだ。それを確認した彼はどこか安心したように軽薄な笑みを浮かばると、俺の方に視線を戻した。
「この女が、生きようとしてるって? どこに目ぇつけてんだ。この有様を見れば分かるだろ、こいつはな、とっくに人生に絶望してるんだよ。一度は自殺だって図ってるんだぜ」
「今は違うみたいですけどね。事情が変わったんじゃないですか?」
「変わるものか。こいつの首筋を見ろ、ここには他人の命令に絶対服従するっていうクソ厄介な呪刻があるんだぜ? それでもまだ人生を捨てないでいられると思うか?」
「人生に希望が無くても生きたいって思うのが人間じゃないですか」
「……………………そうかぁ?」
やはり、この四級掃除屋の男は変わっている。最初に彼の目を見た瞬間から俺には分かっていた。彼はきっと、仲間を裏切る事に躊躇が無いタイプの人種だ。そして我欲の為にはハイリスクな選択肢を平然と取れる男だ。それくらいに欲深い目をしている。
欲が深いというのは逆に言えば希望に満ちているという事でもある。希望は多ければ多いほど人生を豊かにする。しかし希望を摂取しすぎた人間はそれに慣れ、それを失うことを恐れるようにもなる。彼はその典型だった。誰よりも欲に忠実だったために、街を包んだ事件のどさくさに紛れて自由に振る舞えた。自分の生命や使命よりも欲を優先し、そうしているうちに逃げるタイミングすらも失い、今更になって希望が尽きたことを悟った。
"ここから生き延びる"という望みが叶わないと分かった瞬間に、彼はやっと欲を捨てられた。多数の邪魔な欲求と共に、生きたいという根本的な欲すらも捨て去ったのだ。
「先輩、あなたは変わってますよ。他の掃除屋よりも倫理観に欠けていて、責任感が薄弱で、帰属意識がまるで無い。だからこそ今まで成功して来たんでしょう。でも今は逆にその性格が自分の首に枷をつけている。余りにも自由すぎるせいで、諦めも良すぎるんですよ」
「……だったらなんだ? 俺が生きるのを諦めていて、この女が生きたがってたとして。それでお前にどんな関係がある?」
「言ったでしょう、人間は死んだらゴミになるんですよ。自分の死を受け入れるって事はゴミになるって事です……ゴミが、生きてる人間の邪魔をするのは駄目でしょ」
──男が刀を中段に構える。
「そぉか、やっぱお前は俺の敵だったか。ンなら、ゴミになるのがどっちか分からせてやるよ」
「えぇっと、そうですね。こんなこと言うと驚くかもしれませんが……俺、少なくともあなたには勝てるつもりでいますよ」
俺はフィオナの引き金を、落ち着いた動作で引いた。




