5. 問題は目的ではなく、定義の独占である
中国民族団結法を考える上で、最も重要なのは、目的そのものだけを見て判断しないことである。
民族間の対立を防ぐ。
民族差別をなくす。
社会を安定させる。
国家の分裂を防ぐ。
人々に共同体意識を持たせる。
これらの目的だけを並べれば、一見すると正しく見える。
多民族国家において、民族間の対立を放置することは危険である。
差別や憎悪が拡大すれば、社会不安につながる。
暴力的な分離独立運動や民族間の衝突が起きれば、一般市民が被害を受ける。
国家として、一定の秩序を守ろうとすること自体は理解できる。
だから、この問題を考える時に、「民族団結という目的そのものが悪い」と言ってしまうのは正確ではない。
本当に問題なのは、目的ではない。
問題は、定義の独占である。
誰が団結を定義するのか。
誰が分裂を定義するのか。
誰が友好を定義するのか。
誰が秩序を定義するのか。
誰が正しい歴史観を決めるのか。
誰が正しい民族観を決めるのか。
誰が正しい国家観を決めるのか。
ここを見なければならない。
もし、団結の意味を市民同士が対話の中で作るなら、そこには一定の健全性がある。
異なる民族、異なる文化、異なる立場の人々が、互いの違いを認めながら、どうすれば同じ社会の中で共存できるのかを話し合う。
差別をなくすために、少数派の声を聞く。
社会秩序を守るために、権力側にも制限をかける。
国家の一体性を考えながらも、地域や民族の固有性を尊重する。
このような形なら、民族団結は対等な調整に近づく。
しかし、国家権力が一方的に団結の意味を決めるなら、話はまったく変わる。
国家が「これが団結である」と決める。
国家が「これに反するものは分裂である」と決める。
国家が「この歴史認識が正しい」と決める。
国家が「この民族観が正しい」と決める。
国家が「この共同体意識を持て」と決める。
国家が「これを批判する者は秩序を乱す」と決める。
この時、団結は対話によって作られるものではなくなる。
それは、上から与えられる正解になる。
そして、上から与えられた正解に従うことが団結と呼ばれ、それに異議を唱えることが分裂と呼ばれるようになる。
ここに危険がある。
民族団結という言葉が危険なのは、団結そのものが悪いからではない。
団結の定義を国家権力が独占することで、異論や少数派の声を排除できるようになるからである。
たとえば、ある少数民族が自分たちの言語を守りたいと主張したとする。
それが本来なら、文化保護の問題として扱われるべきである。
言語は単なる会話の道具ではない。
歴史、文化、記憶、価値観、共同体の感覚を支えるものである。
少数民族が自分たちの言語を守ろうとすることは、それ自体で直ちに国家分裂を意味するわけではない。
しかし、国家が「共通言語による一体化こそが団結である」と定義していれば、少数民族語を重視する主張は「団結を弱める行為」と見なされる可能性がある。
また、ある地域の人々が、自分たちの歴史的被害を語ったとする。
それが本来なら、歴史認識の問題として議論されるべきである。
過去に何があったのか。
誰が被害を受けたのか。
どのような政策が行われたのか。
何を反省すべきなのか。
これらを語ることは、社会にとって必要な検証である。
しかし、国家が「国家の統一的な歴史観を守ることが団結である」と定義していれば、不都合な歴史を語ることは「分裂を煽る行為」と扱われる可能性がある。
さらに、人権侵害を批判する場合も同じである。
少数民族への強制的な同化、宗教活動への制限、文化的自由への圧力、政治的弾圧などがあった場合、それを批判することは本来、自由な言論や人権擁護の範囲である。
しかし、国家が「民族政策への批判は民族団結を破壊する」と定義すれば、批判者は社会を乱す者として扱われる。
ここで起きているのは、目的の問題ではない。
定義の問題である。
民族差別をなくすことは必要である。
民族間の暴力的対立を防ぐことも必要である。
社会の安定を守ることも必要である。
しかし、それらの目的を理由にして、国家が「正しい民族」「正しい文化」「正しい歴史」「正しい共同体意識」を一方的に決めるなら、制度の性質は変わる。
それは差別防止ではなく、思想統制に近づく。
それは社会安定ではなく、異論の排除に近づく。
それは民族団結ではなく、国家への服従に近づく。
定義を独占する権力は、反対意見を犯罪化しやすい。
なぜなら、反対意見をそのまま「反対意見」として扱う必要がなくなるからである。
政府批判を「秩序破壊」と呼べる。
文化保護を「分裂主義」と呼べる。
歴史研究を「国家への攻撃」と呼べる。
人権擁護を「外国勢力との連携」と呼べる。
台湾や香港の自由を論じることを「国家統一への挑戦」と呼べる。
ウイグルやチベットの問題を語ることを「民族団結への破壊」と呼べる。
言葉を置き換えることで、正当な議論が危険思想に見せかけられる。
これは非常に強力な支配技術である。
なぜなら、人々は言葉の印象に引っ張られるからである。
「政府批判」と聞けば、ただの意見表明に見える。
しかし「秩序破壊」と呼ばれれば、危険に見える。
「文化保護」と聞けば、正当な主張に見える。
しかし「分裂主義」と呼ばれれば、国家への敵対に見える。
「人権批判」と聞けば、必要な告発に見える。
しかし「外国勢力による干渉」と呼ばれれば、陰謀のように見える。
「台湾の自己決定」と聞けば、政治的議論に見える。
しかし「祖国分裂」と呼ばれれば、許されない行為のように見える。
このように、権力が定義を握ると、現実そのものの見え方が変えられる。
何が善で、何が悪か。
何が正当な批判で、何が秩序破壊か。
何が文化保護で、何が分裂主義か。
何が友好で、何が敵対か。
その境界線を権力が一方的に引く。
これが定義の独占である。
定義の独占が危険なのは、それが目に見えにくいからである。
暴力で黙らせれば、人々は支配だと気づきやすい。
逮捕や弾圧があれば、そこに権力の強制が見える。
しかし、定義の独占はもっと静かに進む。
言葉の意味が変えられる。
正しいとされる価値観が固定される。
批判すべき対象が「危険」と呼ばれる。
守るべき少数派が「分裂要因」と呼ばれる。
疑問を持つ人間が「団結を乱す者」と呼ばれる。
その結果、人々は自分で考える前に、国家が用意した分類で物事を見るようになる。
これは、単なる法律の問題ではない。
認識の支配である。
人間は、自分の使う言葉によって世界を理解する。
だから、言葉の定義を握られると、判断の枠組みそのものを握られる。
ある行為を「自由な議論」と見るのか。
それとも「国家への挑戦」と見るのか。
ある主張を「文化的権利」と見るのか。
それとも「分裂主義」と見るのか。
ある批判を「人権擁護」と見るのか。
それとも「外国勢力の攻撃」と見るのか。
その分類を国家が独占すれば、人々の善悪判断も国家に誘導される。
ここで、社会秩序と善悪の混同が起きる。
国家にとって都合のよい秩序が、善であるかのように扱われる。
国家にとって都合の悪い批判が、悪であるかのように扱われる。
権力への従順が、団結として称賛される。
権力への異議申し立てが、分裂として非難される。
しかし、本来、社会秩序と善悪は同じではない。
国家の秩序を守ることが、常に善であるとは限らない。
国家の秩序に異議を唱えることが、常に悪であるとは限らない。
もし国家の秩序そのものが不当であれば、それに従うことが悪に近づく場合もある。
逆に、不当な秩序に異議を唱えることが、善に近づく場合もある。
だからこそ、国家が「団結」を定義する時には、必ず疑う必要がある。
その団結は、本当に人々を守るためのものなのか。
それとも、国家に都合のよい秩序を守るためのものなのか。
その分裂認定は、本当に暴力や憎悪を防ぐためのものなのか。
それとも、国家に不都合な少数派の声を消すためのものなのか。
その友好は、本当に対等な関係を作るためのものなのか。
それとも、相手に沈黙や従属を求めるためのものなのか。
問題は、目的ではなく、定義の独占である。
目的が「民族団結」であっても、定義を独占する者が国家権力であるなら、その法律は慎重に見なければならない。
国家が民族団結を定義する。
国家が民族分裂を定義する。
国家が正しい歴史認識を定義する。
国家が正しい共同体意識を定義する。
国家が正しい言論と危険な言論を定義する。
この構造がある限り、法律は権力濫用の危険を持つ。
もちろん、国家が一切定義を持ってはいけないというわけではない。
法律には一定の定義が必要である。
暴力、脅迫、差別、煽動、犯罪行為などを規制するには、ある程度の基準が必要になる。
国家が社会秩序を守るために、危険な行為を定義すること自体は避けられない。
しかし、その定義はできる限り明確でなければならない。
恣意的に広げられないようにしなければならない。
政府批判や学問研究や文化保護まで巻き込まないようにしなければならない。
権力者に都合の悪い声を封じるために使われないようにしなければならない。
つまり、問題は定義の存在そのものではない。
問題は、曖昧な定義を国家権力が独占し、その解釈を自由に広げられることである。
「民族団結を破壊する行為」
「民族分裂を作り出す行為」
「共同体意識に反する行為」
「国家統一を損なう行為」
これらの言葉は、範囲を限定しなければ非常に広く使える。
暴力的な分離独立運動を指すこともできる。
民族憎悪の扇動を指すこともできる。
一方で、政府批判、歴史研究、少数民族文化の保護運動、台湾や香港の自由に関する議論まで含めることもできる。
この曖昧さが危険なのである。
曖昧な言葉は、権力にとって便利である。
必要な時に広げられる。
都合のよい相手にだけ適用できる。
批判者を選別して処罰できる。
人々に自己検閲を促すことができる。
「どこまで言えば危険なのか分からない」
「何を言えば分裂と見なされるのか分からない」
「どの研究が問題視されるのか分からない」
「誰が標的になるのか分からない」
このような不確実性そのものが、人々を黙らせる。
明確な禁止よりも、曖昧な禁止の方が恐ろしい場合がある。
なぜなら、曖昧な禁止は、人々に自分で自分を制限させるからである。
言わない方がいい。
書かない方がいい。
研究しない方がいい。
関わらない方がいい。
触れない方が安全だ。
こうして、法律が直接処罰しなくても、社会の中に沈黙が広がっていく。
定義の独占は、処罰よりも前に、思考と発言を狭める。
だから、中国民族団結法を見る時に重要なのは、「民族団結」という目的の善悪だけではない。
その法律が、どのような定義を使っているのか。
その定義は明確なのか。
誰が解釈するのか。
誰が処罰対象を決めるのか。
異議申し立ては可能なのか。
少数派の声は守られるのか。
政府批判は許されるのか。
国外の言論にまで及ぶのか。
これらを見なければならない。
もし定義が曖昧であり、その解釈権を国家が握り、批判者や少数派に広く適用できるなら、その法律は非常に危険である。
表向きの目的がどれほど美しくても、定義の運用が権力側に偏れば、法律は支配装置になる。
中国民族団結法の問題は、まさにここにある。
民族団結という目的は、完全に否定されるべきものではない。
しかし、その団結の定義を中国共産党国家が独占し、国家に不都合な言論や民族的自己認識を「分裂」として処理できるなら、その法律は危険な性質を持つ。
団結を守ると言いながら、異論を消す。
友好を守ると言いながら、批判を封じる。
秩序を守ると言いながら、国家への服従を求める。
共同体を守ると言いながら、少数派の固有性を薄める。
このような構造があるなら、それは単なる民族融和法ではない。
それは、国家が定義を独占し、人々の認識と言論を管理する法律である。
だから本書では、中国民族団結法の問題を、目的の善悪だけで判断しない。
見るべきなのは、定義の支配である。
団結とは何かを国家が決める。
分裂とは何かを国家が決める。
友好とは何かを国家が決める。
秩序とは何かを国家が決める。
善良な市民とは何かを国家が決める。
危険な思想とは何かを国家が決める。
その時、人々は自分で考えているようで、すでに国家が用意した言葉の中で考えさせられている。
これが最も危険な点である。
支配は、常に暴力として現れるわけではない。
支配は、言葉の定義として現れることがある。
何が正しく、何が危険で、何が友好で、何が分裂なのか。
その基準を握る者が、人々の判断を握る。
だから、団結という言葉を聞いた時、私たちは必ず問わなければならない。
その団結は、誰が定義しているのか。
その定義に、少数派は参加できるのか。
その定義に、異議を唱える自由はあるのか。
その定義は、権力者にも制限をかけるのか。
それとも、権力者に都合のよい服従を作るだけなのか。
問題は、目的ではない。
目的は、いくらでも美しく語れる。
本当の問題は、その美しい目的を使って、誰が現実の意味を決めるのかである。
定義を独占した権力は、団結を服従に変え、友好を沈黙に変え、秩序を支配に変える。
だからこそ、中国民族団結法を見る時に、私たちは表向きの目的ではなく、その奥にある定義の独占を見なければならない。
そこにこそ、この法律の本質的な危険がある。




