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6. 中華民族共同体という統合装置

 

 中国民族団結法を理解する上で、避けて通れない言葉がある。


 それが、「中華民族共同体」である。


 この言葉は、一見すると穏やかに聞こえる。


 中国という国家の中にいる多くの民族が、互いに争わず、同じ共同体の一員として協力する。

 違いを超えて、同じ未来を目指す。

 民族間の対立を防ぎ、国家全体の安定と発展を守る。


 そのように説明されれば、「中華民族共同体」という言葉は、多民族国家における共存理念のようにも見える。


 しかし、この言葉は単なる共存理念ではない。


 むしろ、中国民族団結法の文脈では、各民族の違いを国家が定義する大きな共同体へ組み込むための統合装置として機能している。


 ここで重要なのは、「共同体」という言葉の性質である。


 共同体とは、本来、人々が何らかの共通性を持ち、互いにつながっている状態を指す。

 地域共同体、文化共同体、宗教共同体、民族共同体、国家共同体など、さまざまな形がある。


 共同体そのものが悪いわけではない。


 人間は完全に孤立して生きることはできない。

 社会には、一定の帰属意識や協力関係が必要である。

 同じ社会に暮らす人々が、最低限の共通意識を持つことも重要である。


 しかし、共同体には危険な面もある。


 それは、共同体の定義を権力が独占した時である。


「あなたはこの共同体の一員である」

「この共同体には、このような歴史がある」

「この共同体には、このような価値観がある」

「この共同体の一員なら、このように考えるべきである」

「この共同体に反する考えは、共同体を破壊するものである」


 このように、共同体の意味を国家が一方的に定義し始めると、共同体は人々をつなぐ場ではなく、人々を囲い込む枠になる。


「中華民族共同体」も、この危険を持っている。


 中国には、多くの民族が存在する。

 漢族だけでなく、ウイグル族、チベット族、モンゴル族、回族、チワン族、朝鮮族など、さまざまな民族が存在する。

 それぞれに歴史があり、言語があり、文化があり、宗教があり、地域的な記憶がある。


 本来、多民族国家における健全な共存とは、それらの違いを認めた上で、共通の社会制度の中で暮らすことである。


 違いを消すことではない。

 違いを国家にとって都合のよい形に作り替えることでもない。

 各民族の固有性を尊重しながら、差別や暴力を防ぎ、共通の公共秩序を作ることである。


 しかし、「中華民族共同体」という概念は、運用次第で別の方向へ進む。


 それは、複数の民族を並列的に尊重するのではなく、「中華民族」という大きな枠の中に統合する方向である。


 表面上は、各民族は中華民族の一部であるとされる。

 各民族は家族のように結びついているとされる。

 各民族は運命を共にするとされる。

 国家の発展、民族の復興、社会の安定を共有するとされる。


 この説明だけを聞けば、温かい共同体論のように見える。


 だが、問題は、そこに自発性と対等性があるのかである。


 各民族が自分たちの意思で、互いの違いを認めながら共同体を作るなら、それは共存に近い。

 しかし、国家が上から「あなたたちは中華民族共同体の一部である」と定義し、その意識を教育、法律、行政、報道、家庭、ネット空間にまで浸透させようとするなら、それは共存ではなく統合である。


 しかも、その統合は中立ではない。


 中心にあるのは、中国共産党が定義する国家観である。

 中国共産党が定義する歴史観である。

 中国共産党が定義する民族観である。

 中国共産党が定義する国家統一の論理である。


 つまり、「中華民族共同体」とは、単に多民族が仲良くするという言葉ではない。


 それは、各民族の自己認識を、国家が望む共同体意識へ再配置するための装置である。


 ここで、同化と共存の違いを整理する必要がある。


 共存とは、違いを認めることである。

 同化とは、違いを弱め、中心となる価値観へ近づけることである。


 共存は、少数派の固有性を守ろうとする。

 同化は、少数派の固有性を国家全体の中へ薄めようとする。


 共存は、複数の歴史や記憶が存在することを認める。

 同化は、国家が認める一つの歴史へ回収しようとする。


 共存は、少数民族が自分たちをどう理解するかを尊重する。

 同化は、国家が少数民族をどう位置づけるかを優先する。


 中華民族共同体という概念の問題は、ここにある。


 それが本当に共存のために使われるなら、問題は小さい。

 しかし、それが同化のために使われるなら、非常に危険である。


 なぜなら、同化はしばしば「差別ではない顔」をして現れるからである。


 少数民族を攻撃しているわけではない。

 少数民族を排除しているわけではない。

 少数民族も中華民族の一員だと言っている。

 各民族は家族のようなものだと言っている。

 共同発展を目指そうと言っている。


 だから、表面上は包摂に見える。


 しかし、その包摂が「あなたたちはあなたたちのままでよい」という意味ではなく、「あなたたちは国家が定義する中華民族の一部として振る舞え」という意味なら、それは本当の尊重ではない。


 それは、包摂の形をした同化である。


 この構造は、非常に見抜きにくい。


 なぜなら、排除よりも包摂の方が善良に見えるからである。


「お前たちは不要だ」と言われれば、人はすぐに警戒する。

 しかし、「あなたたちも私たちの家族だ」と言われれば、反発しにくい。


 だが、その「家族」の中で、誰が家長なのか。

 誰がルールを決めるのか。

 誰の歴史が中心になるのか。

 誰の言語が標準になるのか。

 誰の文化が国家の顔になるのか。

 誰の政治的主張が許され、誰の主張が危険視されるのか。


 ここを見なければならない。


 もし「家族」と言いながら、実際には一方が他方に従う構造なら、それは対等な共同体ではない。


 それは、家族という言葉を使った上下関係である。


 中華民族共同体という言葉にも、同じ危険がある。


 各民族が同じ共同体の一員であるとされる。

 しかし、その共同体の中心には、中国国家と中国共産党の定義する秩序がある。

 各民族は、その秩序の中で位置づけられる。


 この時、少数民族の固有性は、国家秩序と衝突しない範囲でのみ認められることになる。


 文化は認められる。

 ただし、国家統一に反しない形で。


 言語は認められる。

 ただし、国家通用語の中心性を脅かさない範囲で。


 宗教は認められる。

 ただし、国家が認める管理の範囲で。


 歴史は語られる。

 ただし、中国国家の統一的な歴史観に反しない形で。


 民族的な誇りは認められる。

 ただし、中華民族共同体への帰属意識を弱めない範囲で。


 これが、統合装置としての中華民族共同体である。


 表面上は尊重している。

 しかし、中心は国家が握っている。


 ここで問題になるのは、少数民族の文化が完全に消されるかどうかだけではない。


 もっと重要なのは、その文化が誰の管理下に置かれるかである。


 たとえば、少数民族の歌や踊りや衣装が観光資源として紹介されることがある。

 伝統文化として保存されることもある。

 祭りや民俗行事が国家によって保護されることもある。


 これだけを見ると、少数民族文化は尊重されているように見える。


 しかし、文化が「展示されるもの」として残っても、その民族が自分たちの歴史や政治的立場を自由に語れないなら、それは十分な尊重ではない。


 文化が観光用に残ることと、民族の自己認識が尊重されることは違う。


 踊りや衣装が保存されても、言語教育が弱まれば、文化の根は弱る。

 伝統行事が紹介されても、歴史的被害を語れなければ、記憶は管理される。

 民族性が祝われても、政治的な異議申し立てが許されなければ、その民族性は国家に都合のよい範囲に切り取られる。


 ここに、同化政策の見えにくさがある。


 文化を完全に禁止する必要はない。

 国家に都合のよい形で残せばよい。

 民族の外見的な特徴は残しながら、内面の自己認識を国家の共同体意識へ組み込めばよい。


 この方が、露骨な弾圧よりも分かりにくい。


 だからこそ、中華民族共同体という言葉は慎重に見なければならない。


 それは、本当に各民族の対等な共存を意味しているのか。

 それとも、各民族を中国国家の統一的な物語へ組み込むための言葉なのか。


 この違いは大きい。


 国家にとって、統合は魅力的である。


 統合された社会は管理しやすい。

 共通の言語、共通の歴史観、共通の国家意識、共通の価値観があれば、政治的安定を作りやすい。

 少数民族がそれぞれ強い独自性を持ち、独自の歴史認識や政治的要求を持てば、国家にとっては管理が難しくなる。


 だから、国家はしばしば統合を望む。


 しかし、国家にとって管理しやすいことが、必ずしも人々にとって善であるとは限らない。


 人々は、管理しやすい存在になるために生きているわけではない。

 少数民族は、国家の統一物語を完成させる部品ではない。

 文化や言語や信仰は、国家の都合に合わせて配置される飾りではない。


 それぞれの民族には、自分たちの視点から世界を見る権利がある。


 もちろん、その権利が暴力や差別や無秩序を正当化するわけではない。

 民族の独自性を理由に、他者を攻撃したり、憎悪を煽ったり、暴力を肯定したりすることは認められない。


 しかし、それと民族の固有性を守ることは別である。


 民族文化を守ること。

 自分たちの歴史を語ること。

 言語を継承すること。

 信仰や生活習慣を保つこと。

 国家政策を批判すること。

 自分たちの置かれた状況を世界に伝えること。


 これらは、暴力的分裂活動とは別に考えなければならない。


 ところが、中華民族共同体という統合装置が強く働くと、この区別が曖昧になる。


 国家が望む共同体意識に合うものは、民族団結として称賛される。

 国家が望む共同体意識に合わないものは、分裂的な傾向として警戒される。


 この時、善悪の基準が国家秩序に従属する。


 国家統一に役立つ民族文化は善。

 国家統一に都合の悪い民族意識は悪。

 中華民族共同体を強める歴史観は正しい。

 それに疑問を投げかける歴史認識は危険。


 このような分類が生まれる。


 しかし、これは論理的には危険である。


 なぜなら、国家に都合がよいことと、倫理的に正しいことは同じではないからである。


 国家の統合に役立つからといって、その政策が正義であるとは限らない。

 国家に都合が悪いからといって、その批判が悪であるとは限らない。

 国家秩序を守る言説だからといって、それが人々の自由を守るとは限らない。


 ここでも、社会秩序と善悪を分ける必要がある。


 中国政府にとって、中華民族共同体は社会秩序を強める概念である。

 しかし、少数民族の立場から見れば、それは自己認識を国家に管理される装置になり得る。

 海外の研究者や論者の立場から見れば、それは中国政府批判を「民族団結の破壊」として処理する理論的根拠になり得る。


 つまり、中華民族共同体は、単なる理念ではない。


 それは、法律、教育、言語政策、歴史教育、報道、インターネット管理、家庭教育、国際発信と結びつき、人々の認識を統合する装置である。


 この装置の危険性は、強制だけにあるのではない。


 むしろ、日常的な教育や言葉の使い方を通じて、人々に「自分は中華民族共同体の一部である」と自然に思わせる点にある。


 人は、自分が繰り返し教えられた言葉で世界を見る。

 学校で教えられ、メディアで語られ、法律で定められ、家庭教育にまで組み込まれれば、その概念は単なる政治用語ではなく、常識のように扱われるようになる。


「各民族は中華民族共同体の一員である」

「中華民族は一つの家族である」

「国家統一は当然である」

「民族団結を乱す者は危険である」


 こうした言葉が常識化すれば、人々はそれに疑問を持ちにくくなる。


 ここに、統合装置としての強さがある。


 法律で罰する前に、教育で認識を作る。

 警察で取り締まる前に、社会の常識を作る。

 言論を禁止する前に、人々が自分で危険な言葉を避けるようにする。


 これは、露骨な弾圧よりも深い支配である。


 なぜなら、人々が自分の内側から、その秩序に従うようになるからである。


 中華民族共同体という言葉は、共存理念として使われるなら、必ずしも否定されるものではない。


 多民族国家に共通の市民意識が必要であることは事実である。

 民族差別を防ぎ、暴力的対立を避けるために、一定の共通基盤を作ることも必要である。


 しかし、その共同体意識が国家によって一方的に定義され、異論を許さず、少数民族の固有性を国家秩序に従属させるなら、それは危険である。


 問題は、共同体という言葉ではない。

 問題は、その共同体の中心に誰が座っているのかである。


 もし中心にあるのが、対等な相互尊重なら、それは共存に近い。

 もし中心にあるのが、国家権力による定義の独占なら、それは服従に近い。


 中華民族共同体という概念を見る時、私たちはこの違いを見なければならない。


 それは、多様な民族が共に生きるための器なのか。

 それとも、多様な民族を一つの国家物語へ押し込むための枠なのか。


 それは、違いを守るための共同体なのか。

 それとも、違いを管理するための共同体なのか。


 それは、少数民族が自分たちの声を持てる共同体なのか。

 それとも、国家が少数民族の声を代弁する共同体なのか。


 この問いを避けてはならない。


 中国民族団結法の核心は、「民族団結」という言葉だけでは見えない。

 その奥にある「中華民族共同体」という統合装置を見て、初めて全体像が見えてくる。


 団結は、違いを認める時に価値を持つ。

 しかし、団結が違いを国家の定義へ吸収するなら、それは同化になる。


 共同体は、人々を守る時に価値を持つ。

 しかし、共同体が人々を囲い込み、異論を封じるなら、それは支配になる。


 中華民族共同体という言葉の危険性は、まさにそこにある。


 それは、各民族を排除する言葉ではない。

 むしろ、各民族を包摂する言葉である。


 しかし、その包摂が対等な共存ではなく、国家が定義する秩序への統合であるなら、そこには服従の構造が生まれる。


 だから、この概念を読む時には、表面の温かさに騙されてはならない。


「家族」「共同体」「団結」「一体感」という言葉の裏で、誰が定義し、誰が従い、誰の声が消されるのかを見なければならない。


 中華民族共同体とは、単なる理念ではない。


 それは、中国民族団結法の中核にある統合装置であり、各民族の自己認識を国家が望む方向へ組み替えるための仕組みである。


 そして、その仕組みが対等性を欠いた時、共同体は共存の器ではなく、服従の枠になるのである。


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