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3. 友好とは何か――仲良くする事、従う事は違う

 

 友好とは、本来、対等な関係を前提にした言葉である。


 互いに争わない。

 互いを敵として扱わない。

 必要な時には協力する。

 違いがあっても、話し合いによって関係を保つ。

 相手の存在を一方的に否定しない。


 そのように考えれば、友好は人間社会にとって必要な価値である。


 国家同士であっても、民族同士であっても、個人同士であっても、無意味な敵対を避け、協力できる部分を探すことは重要である。


 争いよりも平和の方がよい。

 断絶よりも対話の方がよい。

 憎悪よりも相互理解の方がよい。


 この意味で、友好そのものを否定する必要はない。


 しかし、友好という言葉にも危険がある。


 それは、友好が「対等な関係」ではなく、「相手に従うこと」として使われる場合である。


 本来、友好とは、互いの違いを認めた上で関係を保つことである。

 しかし、片方がもう片方に対して、「こちらを批判しないなら友好だ」「こちらの価値観を認めるなら友好だ」「こちらの秩序に従うなら友好だ」と言い始めた時、その友好は対等な関係ではなくなる。


 それは、友好という名を借りた従属である。


 仲良くすることと、従うことは違う。


 仲良くするとは、相手と不必要に敵対しないことである。

 従うとは、相手の定義した秩序の下に入ることである。


 仲良くするとは、違いがあっても関係を維持することである。

 従うとは、違いを口に出さず、相手の望む形に合わせることである。


 仲良くするとは、対話によって関係を調整することである。

 従うとは、片方の命令や圧力に従って自分を抑えることである。


 この二つは、まったく別のものである。


 にもかかわらず、権力を持つ側はしばしば、この二つを混同させようとする。


「友好を大切にしよう」

「関係を壊すな」

「相手を刺激するな」

「余計な批判をするな」

「波風を立てるな」

「黙っていた方が平和だ」


 このような言葉は、一見すると穏当で、現実的で、平和を望む態度に見える。


 もちろん、外交や人間関係において、無意味に相手を挑発しないことは大切である。

 感情的に罵倒したり、根拠のない批判をしたり、相手の尊厳を不必要に傷つけたりする必要はない。


 しかし、問題はそこではない。


 正当な批判まで「友好を壊す行為」として封じるなら、それは平和ではない。

 不当な圧力に対する反論まで「関係悪化の原因」として扱うなら、それは調整ではない。

 相手の権力濫用を指摘することまで「敵対行為」と呼ぶなら、それは友好ではない。


 それは、沈黙の要求である。


 友好は、本来、批判を完全に消すものではない。


 むしろ、対等な友好には批判する余地が必要である。


 相手が間違っていると思えば、批判できる。

 相手の行動が危険だと思えば、指摘できる。

 相手の要求が不当だと思えば、拒否できる。

 相手と協力できる部分は協力し、受け入れられない部分は受け入れない。


 それが対等な関係である。


 批判できない友好は、友好ではなく服従に近い。

 拒否できない友好は、友好ではなく支配に近い。

 距離を置けない友好は、友好ではなく拘束に近い。


 本当に対等な友好であれば、「仲良くすること」と「何でも受け入れること」は区別される。


 ある国と経済的に協力することはできる。

 しかし、その国の政治的価値観まで受け入れる必要はない。


 ある国の文化を尊重することはできる。

 しかし、その国の政府批判を禁じられる必要はない。


 ある国の国民と友好的に接することはできる。

 しかし、その国の国家権力の主張に従う必要はない。


 ここを分けなければならない。


 中国民族団結法を考える上でも、この視点は重要である。


 中国政府がいう「友好」や「団結」は、しばしば国家統一、核心利益、中華民族共同体、社会安定と結びついて語られる。


 その文脈では、友好とは単に「仲良くすること」ではない。

 中国側が定義する国家秩序を傷つけないこと。

 台湾、香港、ウイグル、チベット、内モンゴルなどの問題について、中国政府の立場を否定しないこと。

 中国共産党が定義する歴史観や民族観に逆らわないこと。

 中国の国家統一観を乱さないこと。


 そうした条件付きの関係として、友好が語られやすい。


 もちろん、中国政府はそれを「国家主権を守るため」「民族団結を守るため」「社会の安定を守るため」と説明するだろう。


 国家が自国の主権や安全を守ろうとすること自体は、どの国にもある。

 暴力的な分離独立運動、テロ、民族憎悪の扇動、外国勢力による内政干渉などを警戒すること自体は、国家として理解できる部分もある。


 しかし、その範囲が不明確なまま広がれば、問題はまったく別のものになる。


 少数民族の文化保護を訴えること。

 歴史上の被害を語ること。

 人権侵害を批判すること。

 台湾の自己決定を論じること。

 香港の自由を論じること。

 ウイグルやチベットの問題を研究すること。

 中国政府の民族政策を批判すること。


 これらまで「友好を損なう」「民族団結を破壊する」「分裂を助長する」と扱われるなら、それは国家の安全保障を超えている。


 それは、他者の言論空間にまで自国の秩序を押し広げる行為である。


 友好とは、相手に自分の価値観を飲み込ませることではない。

 友好とは、相手の主権と自由を認めた上で、協力できる範囲を探すことである。


 もし「私たちと仲良くしたいなら、私たちの政治的主張に従え」と言うなら、それは友好ではない。


 もし「私たちを批判するなら、あなたは友好を壊している」と言うなら、それは友好ではない。


 もし「私たちの国家観を認めないなら、あなたは敵だ」と言うなら、それは友好ではない。


 それは、対等性を欠いた支配関係である。


 ここで注意すべきことがある。


 中国政府の秩序観を批判することと、中国人個人を敵視することは違う。


 中国人の中にも、中国政府の政策に賛成する人もいれば、疑問を持つ人もいる。

 海外に住む中国人の中にも、政府を支持する人もいれば、距離を置く人もいる。

 香港人、台湾人、ウイグル人、チベット人、モンゴル人など、それぞれの立場も異なる。


 したがって、批判対象を曖昧にして「中国人はこうだ」と一括りにしてしまえば、論理が崩れる。


 本書で問題にするのは、民族としての中国人ではない。

 問題にするのは、中国共産党国家が作る、対等性を欠いた友好の論理である。


 つまり、「仲良くする」と言いながら、実際には相手に中国側の秩序への配慮を求める構造である。


 この構造は、外から見ると非常に分かりにくい。


 なぜなら、表面には「平和」「友好」「協力」「発展」「相互理解」という言葉が並ぶからである。


 だが、その内側を見る必要がある。


 その友好は、対等な関係なのか。

 その友好は、批判する自由を含んでいるのか。

 その友好は、相手国の主権を尊重しているのか。

 その友好は、少数派の声を認めているのか。

 その友好は、中国政府に不都合な事実を語る自由を認めているのか。


 もし、それらが認められないなら、その友好は本来の友好ではない。


 それは、友好という名の管理である。

 友好という名の沈黙要求である。

 友好という名の従属である。


 たとえば、ある相手がこう言ったとする。


「私と仲良くしたいなら、私を批判してはいけない」

「私の過去の行動を問題にしてはいけない」

「私の家族や仲間について不都合な話をしてはいけない」

「私の言う正しさを認めなければならない」

「私に反対する人間とは付き合ってはいけない」


 このような関係を、普通は友好とは呼ばない。


 それは支配的な関係である。


 国家間でも同じである。


 ある国が、他国に対して、経済協力や外交関係を保つ代わりに、自国に不都合な歴史認識、人権問題、領土問題、少数民族問題への言及を控えさせようとするなら、それは対等な友好ではない。


 もちろん、国際関係には現実的な配慮がある。

 すべての問題を常に正面から批判すればよいというものではない。

 外交には順序もあり、交渉もあり、利益調整もある。


 しかし、現実的配慮と従属は違う。


 現実的配慮とは、自国の利益や国際環境を考えながら、発言や行動の方法を選ぶことである。

 従属とは、相手国の望む価値観に合わせて、自分たちの自由や判断基準を捨てることである。


 日本が中国と冷静に外交することは必要である。

 経済関係を持つことも、人的交流を続けることも、文化的交流を行うことも必要である。


 しかし、それは中国政府の政治的要求に従うこととは違う。


 日本国内で、中国の民族政策を批判する自由はある。

 台湾、香港、ウイグル、チベットについて議論する自由はある。

 中国政府の法律が日本国内の言論を直接支配することはできない。

 日本に住む人間が、中国共産党の定義する「友好」に従う義務はない。


 ここを曖昧にしてはいけない。


 友好は必要である。

 しかし、友好の名で自由を差し出してはならない。


 平和は必要である。

 しかし、平和の名で不正義を見ないふりしてはならない。


 秩序は必要である。

 しかし、秩序の名で批判を封じてはならない。


 仲良くすることと、従うことは違う。


 この区別を失った社会は、外部からの圧力に弱くなる。

 なぜなら、相手が「友好」を掲げるだけで、自分たちの自由な議論を制限してしまうからである。


「相手を刺激してはいけない」

「関係が悪くなるから黙っていよう」

「批判すると友好が壊れる」

「経済に影響があるから言わない方がいい」


 このような判断がすべて間違いだとは言わない。

 時には慎重な対応が必要な場面もある。


 しかし、それが常態化すれば、自分たちの社会の中に、相手国の顔色を基準にした自己検閲が生まれる。


 これが危険なのである。


 直接命令されなくても、人々が勝手に黙る。

 法律で禁じられていなくても、批判を避ける。

 本来は自由に議論できることでも、「関係悪化」を恐れて語らなくなる。


 その時、友好という言葉は、外部からの支配ではなく、内側からの沈黙を作る。


 だからこそ、友好という言葉は慎重に扱わなければならない。


 本来の友好は、相手の言いなりになることではない。

 本来の友好は、対等な立場で協力し、必要な批判も可能にする関係である。


 批判できるからこそ、対等である。

 拒否できるからこそ、自由である。

 距離を取れるからこそ、健全な関係でいられる。


 逆に、批判できない関係は友好ではない。

 拒否できない関係は協力ではない。

 距離を取れない関係は信頼ではない。


 それは、服従である。


 中国民族団結法を考える時、私たちはこの視点を忘れてはならない。


 中国政府が掲げる「団結」や「友好」が、本当に対等な共存を意味しているのか。

 それとも、中国側が定義する秩序に従うことを意味しているのか。


 ここを見極める必要がある。


 友好とは、相手に従うことではない。

 友好とは、相手を無条件に正しいと認めることでもない。

 友好とは、批判を捨てることでも、沈黙することでも、自由を差し出すことでもない。


 友好とは、違いを認めた上で、対等な立場で関係を築くことである。


 その対等性が失われた時、友好は友好ではなくなる。


 仲良くすることと、従うことは違う。


 この単純な区別を守ることが、国家間の関係においても、社会の自由を守る上でも、極めて重要なのである。


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