2. 団結とは本来何か――対等な協力と服従の違い
団結とは、本来、異なる者同士が共通の目的のために協力することである。
ここで重要なのは、「異なる者同士」という部分である。
まったく同じ考え方を持ち、同じ価値観を持ち、同じ立場にあり、同じ命令に従うだけなら、それは団結というより統制に近い。
団結とは、違いを消すことではない。
違いを持ったまま、協力できる関係を作ることである。
人間はそれぞれ違う。
考え方も違う。
価値観も違う。
歴史も違う。
文化も違う。
信仰も違う。
生活習慣も違う。
重視するものも違う。
民族や国家の問題になれば、その違いはさらに大きくなる。
ある集団には、その集団が歩んできた歴史がある。
ある民族には、その民族が受け継いできた言語がある。
ある地域には、その地域で生きてきた人々の文化がある。
ある共同体には、その共同体の中で守られてきた記憶がある。
本来の団結とは、それらの違いをすべて消し去り、ひとつの価値観に塗り替えることではない。
違いがあることを前提にしながら、それでも共通の利益や目的のために協力することである。
たとえば、災害が起きた時、人々は立場の違いを超えて助け合う。
政治的な意見が違っても、人命救助という目的のために協力することがある。
宗教や文化が違っても、地域の安全を守るために協力することがある。
この場合、団結とは「全員が同じ思想になること」ではない。
それぞれの違いを残したまま、必要な場面で協力することである。
だから、本来の団結には対等性が必要である。
対等性とは、全員がまったく同じ力を持つという意味ではない。
立場や役割の違いが存在しても、相手を一方的に支配対象として扱わないということである。
相手にも意見がある。
相手にも尊厳がある。
相手にも歴史がある。
相手にも文化がある。
相手にも拒否する権利がある。
それを認めた上で協力するからこそ、団結は団結であり続ける。
しかし、この対等性が失われると、団結は別のものへ変質する。
上に立つ側が、下に置かれた側へ向かって言う。
「団結しろ」
「同じ方向を向け」
「異論を言うな」
「全体のために従え」
「違いを強調するな」
「不満を口にするな」
「批判は分裂を生む」
「従わない者は秩序を乱す」
このような形になった時、それはもはや本来の団結ではない。
それは服従である。
団結と服従の違いは、表面だけを見ると分かりにくい。
どちらも、外から見れば人々が同じ方向へ動いているように見える。
どちらも、集団がまとまっているように見える。
どちらも、対立や混乱が少ないように見える。
しかし、その内側の構造はまったく違う。
団結は、納得によって成立する。
服従は、圧力によって成立する。
団結は、違いを認めた上で協力する。
服従は、違いを邪魔なものとして抑え込む。
団結は、対話を必要とする。
服従は、命令を必要とする。
団結は、互いの尊重によって維持される。
服従は、恐怖や不利益によって維持される。
団結は、参加者が主体である。
服従は、参加者が支配対象である。
ここを混同してはならない。
国家はしばしば、服従を団結と呼ぶ。
これは、中国に限った話ではない。
どの国家でも、どの組織でも、権力を持つ側は、自分に都合のよい統制を「団結」「協調」「秩序」「一体感」と呼びたがる。
なぜなら、その方が聞こえがよいからである。
「従え」と言えば反発される。
「黙れ」と言えば支配に見える。
「逆らうな」と言えば権力の都合が見える。
しかし、「団結しよう」と言えば正しく聞こえる。
「友好を守ろう」と言えば善良に聞こえる。
「秩序を大切にしよう」と言えば社会的に見える。
だからこそ、支配はしばしば美しい言葉をまとって現れる。
本来なら、団結とは人々を守るための言葉である。
だが、権力が定義を独占すると、団結は人々を縛る言葉になる。
ここで重要なのは、「誰が団結の意味を決めているのか」という視点である。
団結が、参加する人々の相互理解によって作られているなら、それは本来の団結に近い。
しかし、団結が、上位の権力によって一方的に定義されているなら、それは服従に近づく。
たとえば、ある国家が複数の民族を抱えているとする。
その国家が、各民族の言語、文化、歴史、信仰を尊重しながら、互いに差別せず、暴力的対立を避け、共通の社会制度の中で協力しようとするなら、それは民族団結と呼ぶに値する。
しかし、その国家が、特定の国家観や歴史観や民族観を唯一の正解として押しつけ、それに異議を唱える者を「分裂主義者」と呼ぶなら、それは団結ではない。
それは、国家が定義した共同体への服従である。
違いを認めた上で協力するのか。
違いを消して従わせるのか。
この違いが、団結と服従を分ける。
もちろん、どんな社会にも一定の共通ルールは必要である。
完全にバラバラな価値観のまま、何の共通基盤も持たずに社会を維持することは難しい。
法律、公共制度、基本的な安全保障、差別の禁止、暴力の抑制などは、どの社会にも必要である。
だから、「共通のルールを持つこと」自体が悪いわけではない。
問題は、共通ルールの名を借りて、どこまで個人や集団の内面に踏み込むのかである。
暴力を禁止することと、政府批判を禁止することは違う。
民族差別を防ぐことと、民族的自己認識を抑え込むことは違う。
社会秩序を守ることと、権力に都合の悪い歴史を語らせないことは違う。
共通語を学ばせることと、少数民族の言語を実質的に周辺化することは違う。
国家への協力を求めることと、国家への忠誠を内面にまで求めることは違う。
この境界線を越えた時、団結は危険なものになる。
団結は、外側から見れば美しい。
しかし、内側で何が起きているかを見なければならない。
人々は本当に納得しているのか。
異論を言う自由はあるのか。
少数派は自分たちの文化や歴史を語れるのか。
批判者は安全に批判できるのか。
国家に従わないことと、社会を破壊することが混同されていないか。
これらを確認しなければ、団結という言葉の正体は見えない。
本来の団結は、異論を消さない。
むしろ、異論があることを前提にする。
全員が同じ考えなら、わざわざ団結という言葉を使う必要はない。
違いがあるからこそ、団結が必要になる。
考えが違う。
文化が違う。
歴史認識が違う。
信仰が違う。
利益が違う。
立場が違う。
それでも、暴力ではなく対話を選ぶ。
排除ではなく調整を選ぶ。
支配ではなく協力を選ぶ。
それが団結である。
逆に、違いを認めず、ひとつの正解に従わせるだけなら、それは団結ではない。
たとえ表面上は平和に見えても、それは沈黙による安定かもしれない。
たとえ対立が少なく見えても、それは意見を言えないだけかもしれない。
たとえ全員が同じ方向を向いているように見えても、それは選択ではなく強制かもしれない。
真の団結と、強制された一体感は違う。
ここを見抜くためには、団結という言葉を聞いた時に、すぐに良いものだと判断してはいけない。
その団結には、対等性があるのか。
その団結には、異論を許す余地があるのか。
その団結には、少数派の尊重があるのか。
その団結には、自由意思があるのか。
その団結には、離れる自由や批判する自由があるのか。
これらが存在するなら、その団結は比較的健全である。
しかし、それらが存在しないなら、たとえどれほど美しい言葉で飾られていても、それは服従である可能性が高い。
中国民族団結法を考える上でも、この視点が必要になる。
この法律は、表面上は民族間の団結、社会の安定、国家の統一、民族差別の防止を掲げている。
それ自体は、言葉としては正しい。
しかし、問題は、その団結が対等な協力として設計されているのか、それとも国家が定義する共同体意識への服従として設計されているのかである。
少数民族は、自分たちの歴史を自由に語れるのか。
自分たちの言語を制度の中心に置けるのか。
自分たちの宗教や文化を国家に都合よく再定義されずに守れるのか。
台湾や香港や国外の人々は、中国政府の定義する「団結」に従う義務があるのか。
海外の研究者や論者は、中国の民族政策を批判しただけで「民族団結を破壊した」と扱われるのか。
ここを問わなければならない。
団結とは、本来、対等な協力である。
服従とは、上位者の定義に従わされることである。
この二つを混同すると、支配を平和と呼び、沈黙を友好と呼び、同化を団結と呼ぶことになる。
それは、言葉の誤用では済まない。
なぜなら、言葉の誤用が制度になると、人の自由を奪うからである。
団結という言葉は美しい。
しかし、美しい言葉であるからこそ、悪用された時の危険性は大きい。
本当に必要なのは、団結そのものを否定することではない。
団結という言葉が、対等な協力を意味しているのか、それとも一方的な服従を意味しているのかを見極めることである。
団結は、違いを認めた上で協力する時に価値を持つ。
違いを消し、異論を封じ、上位の権力に従わせるために使われるなら、それはもはや団結ではない。
それは、団結という名を借りた服従である。




