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1. なぜ「団結」は危険な言葉になり得るのか

 

「団結」という言葉を聞いて、最初から悪い印象を抱く人は少ないだろう。


 人と人が協力する。

 集団が対立を乗り越える。

 国や社会が一つにまとまる。

 互いの違いを認めながら、共通の目的に向かって進む。


 そのように考えれば、団結は本来、前向きな言葉である。


「友好」も同じである。


 国と国が争わず、互いを尊重し、協力関係を築く。

 民族や文化の違いを理由に対立するのではなく、平和的に付き合っていく。

 その意味では、友好もまた、本来は否定されるべき言葉ではない。


「秩序」もそうである。


 社会には秩序が必要である。

 もし秩序がなければ、暴力、混乱、略奪、無責任な自由が広がり、弱い立場の人間ほど被害を受けやすくなる。

 法律も、制度も、行政も、一定の社会秩序を守るために存在している。


 だから、団結も、友好も、秩序も、それ自体が悪いわけではない。


 問題は、その言葉を誰が定義するのかである。


 団結とは何か。

 友好とは何か。

 秩序とは何か。

 何をすれば団結を乱したことになるのか。

 何を言えば友好を傷つけたことになるのか。

 何を批判すれば秩序を破壊したことになるのか。


 これらの定義を、国家権力が一方的に独占した時、善良に見える言葉はまったく別の性質を帯び始める。


 団結は、異論を許さないための言葉になる。

 友好は、相手に沈黙を求めるための言葉になる。

 秩序は、権力に従わせるための言葉になる。


 本来、団結とは、違う者同士が対等な立場で協力することである。


 しかし、国家が「この考え方に従うことが団結である」と決めてしまえば、団結は協力ではなく服従に変わる。


 本来、友好とは、互いの違いを認めたうえで関係を築くことである。


 しかし、国家が「こちらを批判しないことが友好である」と決めてしまえば、友好は相互尊重ではなく沈黙の要求に変わる。


 本来、秩序とは、社会の安全と安定を守るための仕組みである。


 しかし、国家が「権力に不都合な言論は秩序を乱す」と決めてしまえば、秩序は社会を守るものではなく、権力を守るものに変わる。


 ここに、美しい言葉の危険性がある。


 悪い言葉で人を縛るのは難しい。

「支配します」「従わせます」「自由を奪います」と正面から言えば、多くの人は警戒する。


 だが、「団結しましょう」「友好を大切にしましょう」「秩序を守りましょう」と言われれば、反対しにくい。


 なぜなら、それらは一見すると正しい言葉だからである。


 誰が団結に反対するのか。

 誰が友好を拒むのか。

 誰が秩序を壊したいのか。


 そう問いかけられれば、多くの人は言葉に詰まる。


 しかし、本当に見るべきなのは、言葉の表面ではない。


 その団結は、対等な協力なのか。

 それとも、上から定義された服従なのか。


 その友好は、互いの違いを認める関係なのか。

 それとも、片方がもう片方に従う関係なのか。


 その秩序は、社会全体を守るためのものなのか。

 それとも、権力者に都合の悪い声を封じるためのものなのか。


 この区別を失った時、人は簡単に支配を正義と誤認する。


 本書で扱う中国民族団結法の問題も、まさにここにある。


 この法律を単純に「中国だから悪い」と論じるつもりはない。

 また、民族間の対立を防ぐことや、社会の安定を守ること自体を否定するつもりもない。


 多民族国家において、民族差別を防ぎ、民族間の衝突を避け、社会秩序を維持することは必要である。

 それ自体は、国家にとって重要な役割である。


 しかし、問題はその先にある。


 民族団結という言葉のもとで、何が団結とされるのか。

 何が分裂とされるのか。

 何が友好とされ、何が敵対とされるのか。

 誰がその基準を決めるのか。

 その基準に異議を唱えた者は、どのように扱われるのか。


 ここを見なければならない。


 もし国家が、自分に都合のよい歴史観、民族観、国家観を「団結」と呼び、それに異議を唱える者を「分裂」と呼ぶなら、それは本来の団結ではない。


 もし国家が、対等な議論ではなく、一方的な従属を「友好」と呼ぶなら、それは本来の友好ではない。


 もし国家が、社会全体の安定ではなく、権力の維持を「秩序」と呼ぶなら、それは本来の秩序ではない。


 それは、言葉を使った支配である。


 そして、この支配は非常に見抜きにくい。


 なぜなら、表面には善良な言葉が並んでいるからである。


 団結。

 友好。

 秩序。

 安定。

 平和。

 共同体。

 調和。


 どれも、単語だけを見れば悪いものではない。


 だが、政治において重要なのは、単語の美しさではない。

 その言葉が、どのような制度に変換されるのかである。


 美しい言葉が、自由を守るために使われることもある。

 一方で、美しい言葉が、自由を奪うために使われることもある。


 だからこそ、私たちは問い続けなければならない。


 その団結は、誰を守るのか。

 その友好は、誰に沈黙を求めるのか。

 その秩序は、誰に従属を強いるのか。

 その法律は、誰の自由を制限し、誰の権力を拡大するのか。


 本書の目的は、中国民族団結法を通して、この構造を論理的に分解することである。


 これは単なる中国批判の本ではない。


 もちろん、中国民族団結法の危険性は具体的に扱う。

 少数民族、台湾、香港、ウイグル、チベット、国外言論、国際法、主権、表現の自由といった問題にも触れることになる。


 しかし、本書の本質はそこだけではない。


 より大きな主題は、国家権力が「良い言葉」を使って、どのように人間を従わせるのかという問題である。


 人は、あからさまな暴力には警戒する。

 だが、正義の言葉をまとった支配には、気づくのが遅れる。


「皆のため」

「社会のため」

「秩序のため」

「平和のため」

「団結のため」


 そう言われた時、その言葉が本当に人々を守るものなのか、それとも権力に都合の悪いものを排除するためのものなのかを見極めなければならない。


 団結は、対等性を失えば服従になる。

 友好は、自由を失えば沈黙になる。

 秩序は、批判を失えば支配になる。


 この三つを混同してはならない。


 本書では、中国民族団結法を題材に、団結という言葉がどのように服従へ変質し得るのかを見ていく。


 そして最終的には、読者自身が美しい言葉に騙されず、制度の中身を見抜けるようになることを目指す。


 大切なのは、言葉を信じることではない。

 その言葉が、誰によって定義され、誰に向けられ、誰を縛り、誰を利するのかを見ることである。


 団結という言葉が危険なのは、団結そのものが悪いからではない。


 団結という美しい言葉が、対等な協力ではなく、一方的な服従を求めるために使われる時、そこに危険が生まれるのである。


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