第三十話 呪いの再会②
その時、セシリアを取り巻いていた禍々しい呪いが、音もなく反転した。
絡みつくように纏わりついていたそれは、まるで意思を持つかのように向きを変え、一斉にヴィクトリアへと襲いかかる。
見えないはずの呪いが、形を持ったかのように、黒く蠢いた。
逃げ場など、どこにもなかった。
ヴィクトリア自身が放ったそれは、容赦なく、正確に、彼女自身を喰らい尽くしていった。
セシリアは、ただ静かにそれを見つめていた。
表情一つ変えず、まるで、それが当然であるかのように。
セシリアは、ただ、この時のためだけに強くなったのだから。
幾度も剣を振るい、血を流し、魂を削るようにして積み重ねてきた全ては、この瞬間に繋がっている。
積み上げてきたのは、誇りでも、正義でもない。
ただ一つ、生まれ変わったリリィをこの手でねじ伏せるための力だった。
培われた強靭な魂は、もはや呪いに侵されることはない。
むしろそれを掴み、ねじ伏せ、意のままに操ることすら出来る。
受けた呪いをそのまま何倍にもして、リリィに返すために。
セシリアの唇がゆっくり歪む。微笑みなどという生易しいものではない。
それは、もっと醜く、冷たく、底が見えないほど深い憎悪だった。
心の奥底から、遠い記憶が浮かび上がる。
*
カトリーナは、幼い頃からリリィのことが羨ましかった。
何もかもが違う、同じ父親を持って生まれたはずの異母妹と、否応なく比べられるたびに、その想いは強くなっていった。
リリィは、誰からも愛されていた。
笑えば周囲が和み、泣けば誰かが慰め、望めばすぐに与えられる。
その全てが、当たり前であるかのように。
それに比べてカトリーナは、何も持たない。
母を亡くして以降ずっと、誰にも望まれず、誰にも愛されず、ただそこにいるだけの存在だった。
同じ血を引いているはずなのに、与えられるものはあまりにも違いすぎた。
それでもカトリーナは、ただ生きていられるならそれでいいと、そう思い込もうとしていた。
だが、リリィは、それすらも許さなかった。
突き飛ばされるのは日常で、持ち物は見つかれば奪われる。
気に入らないと言う理由だけで、カトリーナの尊厳を、リリィは何の躊躇もなく簡単に踏み躙ってくる。
何とかカトリーナが耐えられていたのは、亡き母に愛されていたというかすかな記憶が、唯一、彼女を支えていたからだった。
けれど、あの時。
母のたった一つの形見をあっけなく壊されたその瞬間、胸の奥で何かが、静かに崩れた。
初めてだった。
ここまで強く、誰かの事を、存在ごと消してしまいたいほどに憎んだのは。
その感情は、これまで感じたどんな痛みよりも深く、どんな悲しみよりも重く、確かにカトリーナの心の奥へと沈んでいった。
けれど、アレクサンダーと出会い、ルミナリア王国で過ごす日々の中でその感情は、少しずつ薄れていった。
彼と言葉を交わし、彼が守るこの国の人々のために祈り、誰かのために生きる時間に、カトリーナの傷ついた心は、少しずつ、けれど確かに、満たされていった。
そうしていつしか、リリィのことも、過去のことも、全てがどうでもいいことだと思うことが出来た。
カトリーナにとって、アレクサンダーこそが唯一で、全てだった。
この人のために、これからの人生を捧げたいと、本気でそう思った。
一度は、確かに、そう思えたのだ。
けれど、カトリーナはその死の間際の最期の時、沈みゆく意識の中で、気が付いてしまった。
まとわりつく、異様な気配。
冷たく、重く、粘つくような何かに。
それは、ただの死ではなかった。
これは呪いだと。それも、強烈な憎悪を孕んだ呪いだ。
その時カトリーナは理解した。
リリィの底のない憎しみによって自分は、殺されたのだと言うことを。
その時、カトリーナの胸の奥で、押し込めていたはずの感情が、一気に溢れ出した。
どうして、自分がここまでされなくてはいけないのか。
ようやく手に入れた大切なものを、ようやく、満たされた心を。
愛する唯一の王に捧げると決めた、人生を。
どうして、踏み躙られなければならないのか。
そしてカトリーナは、かつてないほどの憎悪の感情に呑み込まれながら死んでいった。
それがカトリーナの、本当の最期だった。
セシリアとして生まれ変わり、記憶を取り戻した時、最初に抱いた感情は、アレクサンダーの居ない世界に生まれ変わってしまった事への絶望だった。
アレクサンダーの居ない世界に生きることに、もはや何の価値も見出せなかった。
そして次にその心を襲ったのは、リリィへの深い憎悪だった。
その燻り続けたその感情は、前世抱いていたものよりも、深く大きいものになっていた。
いつまでも消えぬ火種のように、静かに、だが確実に胸の奥に、強く根を張っていた。
どうしようもない絶望感に苛まれた時、ふと、同時に、気が付いた。
死ぬ直前に、絡みついていた呪いの気配が、今もなお、身体の中にあることに。
それは、消えていない。
途切れていない。
まるで、どこか遠くと繋がっているかのように。
(……ああ、そうか)
それを理解した瞬間、心の奥底で、何かがどろりと蠢いた。
リリィもまた、この世に生まれ変わっている。
あの深い憎悪を抱えたまま、どこかで、生きている。
その事実が、思い出したく無かったと思うと同時に、どうしようもなく愉快でもあった。
それは、アレクサンダーの居ないこの世で生きなければいけない彼女にとって、一種の救いとも呼べるほどのものだった。
心の奥に潜むカトリーナが、低く静かに囁く。
そうか、リリィは既に、この世に生まれ変わっているのか。
だったら今度は必ず、私が、リリィに報いを与える。
あの女に、奪われる側の絶望を、思い知らせてやる。
ただ命を奪うだけでは足りない。
そんなものでは、この憎悪は到底満たされない。
苦しみ、絶望し、息も出来なくなるほどの恐怖の中で、何もかもを奪われて、それでもなお終わらない地獄を思い知らせてやる。
生まれ変わったことすら後悔するほどの絶望の果てで、ようやく終わりを迎えればいい。
そのためだけに、強くなってやる。
セシリアの瞳には、静かに、けれど底知れぬ決意の色が宿っていた。




