二十四話 晩餐会の夜に④
音楽が終わり、最後の一歩を踏み終えた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
軽く一礼を交わす。
ダンスが終わったのに、繋いだ手は未だ離されず、胸の鼓動は落ち着かないままだった。
その時、給仕の一人が静かに近づき、エドガーに何事かを耳打ちした。
エドガーはわずかに眉を寄せたが、すぐに表情を整える。
「……失礼。少し席を外す」
そう言った後、セシリアの方に向き直り、繋いでいた手に軽くキスを落とした。
そして、ゆっくりとその手が離れた。
「すぐ戻る」
名残惜しそうな視線を残しながら、彼はその場を離れていった。
残されたセシリアは、ほっと一息吐いた。
(……少し、落ち着けるところに行きたいわ)
高鳴る胸を抑えながら視線を彷徨わせると、会場の外へと続くバルコニーが目に入った。
そちらへ足を向け、バルコニーへと出る。
静かな空気の中で、ようやく高鳴りが落ち着き始めた、その時だった。
「……セシリア様で、いらっしゃいますわよね?」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、一人の女性だった。
緩やかなカーブを描いた淡い金髪に、海のように深い青い瞳を持つ整った顔立ちのその女性は、優雅な佇まいでスッと一礼をした。
その洗練された所作は、育ちの良さを物語っている。
一見すれば、セシリアよりもずっと年上にも見えるその女性。
けれどその印象はどこか曖昧で、年齢というものを感じさせず、どこか怪しげな気配を纏っていた。
「フランシス領の領主、ヴィクトリア・アシュフォードと申します」
(……フランシス)
その言葉に、胸の奥がわずかに軋んだ。
かつてそこは、フランシス王国という名の小さな国だった。
自分が、カトリーナとして生きていた国。
そして、遠くの昔に滅びた国だ。
「……セシリア・ヴァルモンドでございます」
セシリアは何事もないように、淡々と名乗り返す。
「噂で聞いた通り、とてもお美しい方ですのね」
ヴィクトリアは、にこやかな笑みを浮かべた。
だが、その奥には、ぞくりと背筋を撫でるような違和感が潜んでいる。
「それに、王女殿下の護衛を務めていらっしゃるとか」
「……ええ」
「騎士でありながら、こうして社交の場にも立たれるなんて……本当に器用でいらっしゃるのですね」
ヴィクトリアは、軽やかな声音で話す。
「私などには、とても真似できませんわ。剣を振るうなど、あまりに……」
一瞬、言葉を区切り、くすりと馬鹿にしたように笑った。
「似つかわしくありませんもの」
その場の空気が、わずかに張り詰めた。
ヴィクトリアは、まるで、見下す様に蔑んだ目で、セシリアを見ている。
いや、それだけではない、もっと、深い何か。
セシリアの胸の奥で、何かがざわつく。
ヴィクトリアが、わずかに顔を近づけた。
「先ほどのダンス、とても楽しそうでいらっしゃいましたわね」
「……」
不躾な視線で、ドレスを上から下まで見回す。
「アルヴェイン公爵様も、随分とご執心のご様子ね」
明らかに含みを込めた言い方に、セシリアの眉がぴくりと動く。
「けれど……」
ふ、と、笑みが深まる。
「少々、軽々しくはありませんこと?」
その一言に、セシリアの中の何かがプツリと切れた。
言い返そうと、口を開きかける。
けれど、それが言葉になるより先に、誰かが近づいてくる気配がした。
その気配に気づいたのか、ヴィクトリアは一瞬だけ目を細める。
そして何事もなかったかのように身を引いて、すぐにその場を後にした。
セシリアは、逃げる様に立ち去るヴィクトリアの背中を眺め、ただその場に立ち尽くしていた。
「セシリア!ここに居たのか」
現れたエドガーが、安堵の表情を浮かべながら近づいてくる。
だが、その様子を目にした瞬間、彼はハッと息を呑み、セシリアの肩に、そっと手を置いた。
「……どうした、何があった」
ただひたすらに彼女を案じる声だった。
セシリアは静かに首を横に振る。
「何もありません。……大丈夫ですから、手を離してください」
肩に添えられた手を外そうとするが、それは敵わなかった。
「すまないが、今は離せない」
抑えた声で、しかしきっぱりと告げられる。
「こんな状態のあなたを、離せる訳がないだろう」
その言葉で、セシリアはようやく自分の状態に気づいた。
胸の奥で、怒りとも苛立ちともつかない感情が、激しく燻っている。
言葉にできない激しい感情が全身に広がり、心を掻き乱す。
(……どうして彼女の言葉は、こんなにも私の心を乱すのだろう)
胸の奥の触れてはいけない場所を、無理やり抉られたような、そんな感覚に囚われる。
「……っ」
息が乱れたその瞬間、エドガーの逞しい腕が、そっと背に回った。
ふわりと、その腕の中に包み込まれる。
「……大丈夫だ」
荒れた感情を宥めるように、優しく守るような声音で静かにそう囁かれ、ゆっくりと背を撫でられる。
彼の心音と自分の心音だけが、静かに響く。
「言いたく無いのなら、無理には聞かない。……だがせめて、こうすることは、許してくれ」
穏やかな声でそう言われ、セシリアはそっと目を閉じた。
すると、まるで波が引くように、胸の奥のざわめきが静まっていき、乱れていた息もゆっくりと整っていった。
「……落ち着いたか?」
静かに囁かれた声に、セシリアは何も言えなかった。
ただ、じっとその顔を見つめる。
(……何で、この人はこんなにも安心するのだろう)
先ほどまであれほど荒れていた心が、嘘のように静かになっている。
そのことに気づいた瞬間、セシリアの心に、ふとひとつの感情が浮かび上がった。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
(……私……、この人のことが……、好き、なのかもしれない)
浮かんだその考えに、はっとして、否定するように視線を逸らした。
(……違う)
そんなはずがない。
そんなこと、あっていいはずがない。
(だって私には、アレクサンダー様が……)
胸の奥で、名前を呼ぶ。
(……認めたくない)
ぎゅっと、拳を握る。
この感情は、認めてはいけない。
認めてしまえば何かが、壊れてしまう気がした。
セシリアは、胸の奥に湧いてきてしまったその想いを、そっと押し込めたのだった。




