56、騎士を断頭する者たち(5)
昔から本当にどうしようもない時はバイラを抱かせてもらっていた。
帰郷してしばらく経つというのに、忙しさにかまけて会えずにいたが、彼女は僕を見てすぐに声をかけてくれる。それで弾けるように、なりふり構わずバイラに腕を伸ばす。久しぶりに触る柔らかな肢体は既に熱く、僕を待っていたのではないかと錯覚する。彼女の横顔を見れば美人とわかるだろう。額と鼻筋の稜線、口から首筋へ伸びる丸み。贔屓しては駄目だとわかっているのに、僕の弱った時がわかるのはいつも彼女だ。そんな時しか艶のある声は出さないし、体を預けてもくれない。だから、余計甘えてしまう。腕の中に閉じ込めて、バイラの背に顔を埋め、目を瞑る。太陽を吸い込んだ匂いは、僕の凝り固まった全てを弛緩させる。あとは頭を空っぽにすればいい。
「ねえ、嫌がってるわよ」
フリアが呆れるように言った。
「そんなはずはない」
顔を上げてバイラの覗き込む。クルンとした青い目の中央、縦長の瞳孔で僕と見つめ合う。ナゥと小さく鳴いて、鼻と鼻でキスをする。
「ほら」
僕はまた彼女の灰色の毛に顔を埋める。
「やるわね、この子。あなたが見たら表情が変わったわ。私にはシャーって言ったのに」
「人見知りするから」
父母の住む別邸の脇にある小屋でフリアは待っていた。互いの都合の良い時間を擦り合わせると日暮れに近くなり、イメルダお祖母様を送りに来た彼女は猫が見たいと言ったらしい。
ここは元々納戸であったが、僕が団長になる少し前、お祖母様が整理して猫を吸う……猫の住む家となった。城砦の館を当代の僕が使用するため、父母と弟は別邸へ移り、家で飼われていた猫たちもウルバノの咳を配慮して小屋へ引越したのだ。
中に仕舞われていた調度品は館に移すか他に譲るか、兄のアンドレに頼み競りに出したという。そのオークションのカタログで骨董品のコトヴィアを見付けたというから、愛猫家だった祖父や、その遺志を汲む祖母、そしてバイラたちに感謝している。
部屋はシンプルで、テーブルと三脚の椅子、備え付けの空の棚以外は、毛布や革のボールしかない。石壁には爪研ぎ用の板が取り付けてあり、入り口の戸には猫用の小さな扉を作ってある。
室内に目立つ汚れがないのは「小屋の掃除をしましょうか」と申し出る騎士が幾人かいたおかげだ。僕が街に居なかった半年で当番制になったらしい。ジーリレに負けず劣らず厳しい指導を得意とする、強面のロルダンが取りまとめをしている報告を受けた。仲間を疑うのは恥ずべき事だが、ロルダンたちは僕を出し抜こうとしているのではないかと頭によぎった。しかしバイラや他の三匹のためなのだ。住み込みで家事の手伝いをするローザたちの負担も減る。そしてバイラが僕を忘れるなどあり得ない。だが、するんと彼女は去っていく。
見れば、別邸から来たローザがテーブルの上で茹でた肉を皿に盛っている。
「あら、ご飯には勝てないのね」
「……猫も体が資本だ」
フリアとローザは笑った。バイラはローザの足に擦り寄り、目を細めて甘ったるい声を出す。
フリアはバイラが近付くと、腰元のポーチを軽く触って中の栗鼠を確認した。僕が猫を抱く前の話では、朝から昼までジェンのポケットからせっせと餌や藁をポーチへ運び、午後からずっと寝ているらしい。昨日の午後こそ寝ていて欲しかったのだが、栗鼠も無理矢理に巣箱から出されて苛立っていたのだろう。
ローザが小屋から出て、バイラが食事を始めると、他の三匹の猫が帰宅する。リリカとミエルとメディアスは僕を一瞥して、皿に直行する。まあ……元気そうで何よりだ。
「野良猫が鶏を襲った事があるから苦手だったけど、こうやって仲良さそうに食事しているのを見ると可愛いわね。川に落ちたのはどの子?」
「鍛冶屋にいるよ。温めて欲しいと駆け込んだら、そのまま居着いたんだ。……バルジャン家はどうだった? よく眠れた?」
「ええ、言いたい事を言ったら、すっきりしてよく眠れたわ。あなたは疲れているみたいね」
「これは……怒り疲れたんだ」
話の流れで、フリアへキリルの予測を説明する。母の流刑の話は初耳だったようで、驚いていた。それ以外は時折猫を目で追いながら、静かに頷く程度だった。
「わりと大変みたいね」
「でも展望が開けたんだ。僕は必ずやり遂げるよ」
「……あなたはまた怪我をしたりするのかしら」
「たぶん」
嘘や強がりを言おうか迷った。でも帝国を害する敵ならば、無傷は難しい。
部屋が薄暗くなり、バイラたちがじゃれあいながら、猫用の扉から外へ出て行く。
フリアは空っぽになった部屋をじっと見ていた。僕の怪我の心配をしているのか、身勝手な父……と僕に対して怒りがあるのか。
「昨晩、君が言った通りだと思う。僕も父も君の要望を聞かずに、君の人生を引っ掻き回している」
金色の瞳がじっと僕を見る。バイラより美しい瞳なんて無いと思っていた頃にはもう戻れない。だから、その瞳が悲しみで歪むのは耐えられない。
「昨日と願いが変わったのなら、いつでも言って欲しい。僕は君を優先する」
フリアは首を振った。
「変わらないわ。私はあのコトヴィアの願いを叶えるの」
……コトヴィアの願いを叶える?
また不思議な言い方だ。昨日も「空を飛ぶなら、空が見たい」と言っていた。空を見たいと願っているのがフリアなら、飛べば眼前の地表は遠のき、空を感じられるはずだ。
壊れたコトヴィアに思いを馳せているのだろうか。しかし飛空機の要望を聞き取るなど、どれだけ優れた商人でもできない。
僕の考察はフリアが壁に背を預けるのをやめて終わった。彼女は扉に歩き出す。
「私、出立までバルジャン家に泊まるから、そろそろ行かなきゃ」
今日も? 夕飯を共にしようと誘うつもりだったのに。
「どうして泊まるんだ? 館だと眠れない?」
「私は館でいいんだけど、息子が大それた事をするかもしれないって、昨日の帰りの船でウィル様が仰ったのよ。だからジェンも引き留めるの。まあ、予想は大当たりだから、泊まろうと思うの」
ぐっと奥歯を噛む。確かに昨日、歯止めが効かずに会いに行ってしまったが、父に見透かされた提案というのが気に食わない。しかし彼女が決めた事だ。
「……わかった。送らせてくれ。夕飯も向こうで食べるのか?」
「もちろん。ジェシカとジュリアが得意料理を出してくれるのよ。送るのは西門まででいいわ。そこでジェンと待ち合わせしているから」
僕もバルジャン家に入り込んでしまおうか。しかし、今日は学校全体で模擬野営の訓練がある。その食事に顔を出さねば。谷にいるなら、当代として外せない行事だ。フリアも興味があるかと思って、誘う手筈だったのだが……。
しばらく溜息を噛んで森を歩いていると、彼女はポツリと言う。
「……私は、この街に居着いていいのかしら」
「そんなのいいに決まってる」
フリアは僕を見ずに、ポーチの中のエスピラルを撫でた。
「ねえ、話って、さっきの事だけじゃないんでしょ?」
僕は聞かなくてはいけない事がある。それが滲み出ているのか。
「……うん。君の不思議な感覚について、もう少し知りたいんだ」
フリアは立ち止まった。木立から見える川に顔を向けている。言葉を選んでいるのか、じっと落葉が流される様子を眺めている。キリルの言う通りすでに彼女は僕の知らない事を知っているようだ。




