50、騎士と清算の難しい過去(19)
手にした写真に折り目が付いてしまう。テーブルに戻して、フリアに背を向ける。僕の腕が斬られれば良かったのだ。両腕とも今無くなってしまえばいい。
「……夜なんだから、男を部屋に入れるなよ」
後ろでゴトっと音がした。フリアがスパナを持ったのだろう。
「何言ってるのよ。あなた、クエルボに乗る前に誓ったじゃない。たった三日前よ。それも忘れたの?」
返事ができない。肩が震えて、頬を肩で拭う。しばらくすると、またスパナがテーブルに戻される音がした。
「……本当に勝手な人。やっぱり私たち破談するのね」
「……別れたくない」
「でも父親が私の事を引き取りたいって言い出したんでしょう? ウィル様に帰りの船で聞いたわ。断りきれないって謝罪された」
顔を見て話すくらいしなくては。何度か息を吐いて、フリアに向き直る。
「……君は帝国に行きたい?」
「一発殴りたいから、父に会いたいわ」
「その後、どこに住みたい? 希望があるなら、マーロウ卿を譲歩させる努力はできると思う。コトヴィアの機体も必ず君と同じ場所に移すよ」
「……あなたはどうするの?」
また返事ができない。じっとフリアと見つめ合う。
「質問を変えるわ。あなたの奥さんは誰になるの?」
「君しかいない……。死ぬまで君が好きだよ」
自然と溢れたが、彼女は首を振る。
「はっきり言ってよ。私は思い出になって、他の人を娶るのね?」
他の誰かを妻にするなんて想像できない。でも……、たぶんそうなる。口が裂けても彼女の前では認めたくない。
「……離れても、会いに行っていい?」
そう口にすると、足が動いてしまう。テーブルに沿って歩くと、フリアから香油の匂いがした。一歩手前、まだスパナは握られない。僕と見つめ合ったまま、彼女は動かない。やがて姫のように抱える前の距離になる。
「……どうして殴らないんだよ?」
僕の吐息はフリアに当たっている。でも彼女は何も言わない。ただ金色の瞳が僕を見上げている。グローブを外し、テーブルに放っても何も起こらない。唾を飲み込む音が聞こえてしまっているだろう。ドクドク波打つ胸の音もわかるかもしれない。マントを後ろに払って、華奢な肩に手を伸ばすと、彼女は目を閉じた。僕は顔を傾ける。
「あんたが構えているから、殴らないのよ」
ドンと鳩尾に衝撃を受け、膝が床に突きそうになる。咽込むと、フリアは殴った拳で僕の胸ぐらを掴んだ。彼女の眉間はギチギチに皺が寄っている。
「ねえ、何でそうなるの?」
フリアの威圧は千本の鉄串を投げ付けられたようで、後退したくなる。しかしぐっと襟を掴む細い腕が許さない。
「会いに行ってもいいかなんて、駄目に決まってるでしょ! バッカじゃないの!」
ビリっと部屋が震えるような怒声だった。胸ぐらを乱暴に離され、テーブルにぶつかる。籠の中の栗鼠がキュウと鳴く。
「帰りの船で、ウィル様も年に数回はあなたに会えるよう交渉しても良いって仰ってたわ。恩人に対して口が悪くなるけど、正直言って親子共々馬鹿よ! 私の人生を引っ掻き回した挙句、また知らない土地に放り込んで、時々来る泣き虫な男の慰め物にするつもり? そんなの絶対に嫌!」
彼女の目がじわりと潤む。わなわなと肩を震わせる。でも金の瞳は暖炉の小さな炎を微かに映し、僕を睨みつける。
「私には私の人生があるの。たとえ糞親父の血が流れてようと、人から蔑ろにされようと、あんたたちから無碍にされても……あのコトヴィアを空に飛ばす事だけは譲れない。出逢ってしまったんだもの。もう忘れられない。諦められない。私が住みたいのはこの谷よ! この谷なら私の手でできるもの! もう決めてるから、何とかしてよ! あのコトヴィアは必ず空へ戻すんだから!」
フリアは早口に言った。頭に巻いたスカーフを取って目尻を拭う。
僕は一言一句胸に刻み込んだ。でも……。
「……もう一度、言って欲しい」
襟のよれた僕の言葉は拒否されるかと思った。しかし彼女は息を落ち着けたあと、唇を開く。
「この谷に住むわ。この街がいいの。ウィル様には叔父さんたちの事で感謝しなくてはならない。けれど、ここに住むためなら、私にした無礼で相殺して謙虚さは忘れる。技術は素晴らしいし、水は美しいし、人は良くしてくれる。夫は選べないけれど、隠れて愛人をつくってこの街に住むわ」
「……まさか、最後の条件を飲まないと住んでくれないのか?」
僕の震えた声に、ふっとフリアは吹き出した。
「冗談が通じなくなったら、あなた終わりよ?」
彼女は金色の瞳を細め、薄い唇から可愛らしい歯を溢し、悪戯に笑う。それだけでさっきまでの下劣な感情が流される。足掻く力の無かった胸が熱くなる。
「……僕もその願いを叶えたい。最後まで、諦めたくない」
そうだ。まだ終わっていない。今日以上に傷付くのが嫌だから、目を背けたのだ。フリアが目の前にいるのに、自分から道を閉ざそうとした。ズタズタになっても、みっともなく喚いても、切り開けるなら道を探さねば。フリアを守る誓いは既に騎士たちの前で宣言した。僕がまず諦めるなど、恥でしかない。
「君とコトヴィアのために、僕は戦う」
「じゃあ、私はあなたに協力する。ウィル様の指示には表面的には従うけれど、あなたの言う事を優先する。約束するわ」
すっとフリアが右手を出した。
「騎士って夫婦で約束を立てる時、こうするんでしょう? ……私が昔、あなたにしたみたいに」
「うん……」
さっきまで賊だった僕をまた騎士に戻した彼女に片膝を突く。白い手を軽く包み、口元を近付けてキスの真似をする。
「あら、唇は付けないのがマナー?」
「いや、夫婦なら付けると思うけど……」
「じゃあ、ちゃんとして。さっきはちゃっかりキスしようとしていたのに、おかしいでしょ。約束なのよ?」
「すまなかった……」
部屋が暗くて良かった。顔がぼうぼうと赤くなっているだろう。フリアの手を取り直す。冷たく、細い手に唇を軽く付ける。
「あなたの手って、とても温かいのね」
立ち上がると、今度はフリアの両手が僕の右手を包んだ。約束を結ぶために、彼女の小さな唇が僕の手の甲に触れる。
「どれだけ振り回すつもりか知らないけれど、そろそろ落ち着いて図面を引きたいわ」
テーブルのグローブを渡される。マントのポケットに突っ込む。彼女の言う通り、手が火照っている。
「製図台は裏のネジで図面台の角度が変えられる。夜分に失礼した。おやすみ……」
僕は窓に手をかけ、屋根へ出る。風が頬を打つのが心地良い。
ダニエルに日程を聞く前に、工房長の家に行こう。まだワイン片手に歌っているだろう。冬用の新しい衣服や彼女のロングケープがどうなったか確認せねば。
「裏のネジはあなたが見えるように渡してくれた時にわかったわ。そういうさりげない説明をするところ、わりと好きよ。おやすみ」
ポケットは船でも縫い付けられるから、糸を多めに持って行……好き?
「……へっ?」
振り返ると、すでに窓板は閉じていた。
好き……とは、好きで良いのだろうか? 僕の感じる好きで、合っているのだろうか。いや、待て、落ち着け。フリアの言った文言をよく考えろ。説明が好ましいという意味だ。つまり、あなたの説明は好ましいものである……だから好き。いや、だから好きなんて、そんなの言って——
「あ、わっ……!」
いつのまにか体は屋根の傾斜を滑っていたらしく、僕は道無き空へ落ちた。




