44、騎士と清算の難しい過去(13)
ジェンはクレーンの頭頂部へするすると登り、僕が吊られる縄を引き上げる。やがて釣られた魚のようにクレーンの背に横たわり、銀の瞳に覗き込まれる。
「縄は切りますか?」
それは手洗いを心配してだろう。帰りの船で済ませてあるので、解くように指示をする。
「怪我はどうだ?」
灯りが少ないのでわかりにくいが、ジェンの鼻はジーリレに蹴られ赤黒い。
「問題ありません。愚弟をしばいたら、谷に帰って来た実感が湧きましたわ」
彼女はワイヤーを手繰り、笑っている。縄との結び目を髪から抜いたかんざしでほぐしながら言う。
「少しお話ししましたが、奥方は人懐こいですね。人見知りしないところが、べステ様にそっくりかと」
「違う。フリアは物怖じしたくないんだよ。人見知りはする」
「……お好きなんですね」
「もちろん」
拘束が解けると、二人で港へ着地する。強張った身体をほぐし、ジェンは縄を片付ける。
「あなたは他を知ろうとしないだけですよ。良い言い方をすれば、一途と言いますけれど」
昔、ジーリレに似たような事を言われたが伏せておく。それよりも目を合わせない彼女の口元に嘲笑を感じる。はじめてされた。
しかし僕は手順を間違え、僕の倫理観をフリアに擦り付けて共にいる状況だ。数日前は気付かなかったが、僕は暴力的に当然の事として攫った。一連の行動を知っているのなら、嘲笑されても仕方ない。
「僕はフリアを好いている。まだ二年も満たない。他を見る余裕があるなら、フリアを口説きたい」
「一度、全て手に入れたら気がお済みになると?」
「違う。三年後の彼女も魅力的だろうから、気持ちは変わらないと思う。さらに好きになる可能性の方が高い。それと、三年後は彼女も好きでいてくれると嬉しい。僕は彼女に好かれるっていうのを味わってみたい。それを毎日、死ぬまで」
自分でも驚くくらい、つらつらと出て来た。これがフリアの前だとこめかみが痺れて「僕のことを好きになって欲しい」くらいしか出て来ないのだろう。嫌になる。
「そんなお言葉……」
ジェンを見上げると目を見開いて、口を抑えていた。
「あなたが私へ仰る騎士以外のことは、集めた猫のヒゲを見ろとか、馬の立髪に編み込みがしたいから教えろとか、ミレイアに贈るアクセサリーを買っておけとか……それくらいでしたのに」
早口に語られることに、僕は顔が赤くなるのを感じた。
「か、買っておけとは言ってないぞ。選んで欲しいと頼んだんだ」
「どちらも同じですわ」
ジェンは肩をすくめ、また縄を8の字に巻いていく。
僕はこれ以上この話題を続けたくない。
「フリアは夕食を食べたか?」
「ええ、半人前ですが」
「君が作ったのか?」
「まさか。サラと妹たちですよ」
「サラにバルジャン家の味付けにするように言ったから、ジーリレと仲が悪くなったんだっけ?」
少し意地悪な事を言ってしまう。ジェンは僕の気安さにふふと笑った。
「そうですね。父は北の国で駐在ですから、うちはお祖母様が家長です。祖母に合わせて作るように言いました。家の在り方としては普通です。夫婦だけの食事にどんな料理を出しても文句は言いませんよ。でもあの馬鹿は料理もできねえのに文句垂れんな、と言って大喧嘩です。半年前、ちょうどお互い谷を出る直前でしたね。あれからまともに口を効かず、今日に至ります」
「君とサラは? 今日、話したか?」
「団欒の場ではなく、愚弟のいないところで、レモンケーキを通してですけれど」
それはジェンの好物だ。家族以外に振る舞うな、と製菓店のダラスがサラに懇願した料理だ。
「……家族が結婚をすると、関係が変わる事があるんだな」
「もちろん。お相手が家族として馴染むまで時間はかかりますので、些細な事は生じるかと」
些細か、と僕は今日一日を振り返って笑う。
「フリア様はこのままバルジャン家にお泊まりになられても構いませんよ。二人の妹と大いに盛り上がっておりますし、今は土産の香油を垂らした風呂にみんなで入っています」
「……勝手に谷から連れて行くつもりか?」
「いいえ。お約束します。あなたの愛するお気持ちはわかりましたから」
ジェンは僕の服のヨレを直してくれた後、エスピラルの付けた爪痕をそっと掌で覆った。それからフリアが指輪で付けた右頬の傷跡をなぞる。
ジーリレと同じく背の高い彼女を見上げる。銀色の瞳が自分に何を重ねているのかはわかる。僕の叔母であり、彼女の亡き母だ。ジェンは面影を探す眼差しのまま、僕の右頬にキスを落として軽く祈った。
「ジーリレからも言われたでしょうが、避けてください」
「肋骨にヒビも入れられたんだ」
「……それは何の自慢でしょう」
「朝食を共にする招待状だった」
ジェンはくすくすと笑う。
「それでも、私は剣を放ったガスパルさんの気持ちが痛いほどわかります。お怪我は無い方が好ましいです」
「じゃあ怪我の予防として、僕の結婚が駄目になる理由を教えてくれないか?」
「……政治屋が出てくる話ですので、努努、油断なさらずとしか」
政治は親父殿と兄の領分だ。僕はまだ一端も関わっておらず、直接聞くしかない。
ジェンの答えに頷き、背を向けて要塞へ歩き出す。彼女の囁く声は夜風に紛れて聴こえた。
「……団長、政治屋の名はロレンス・マーロウ卿です」
ドクっと心臓が跳ねた。
その名は知っている。フリアの父ジルド・グローデルを連れて、この国で駐在武官をしていた元帝国軍人である。




