41、騎士と清算の難しい過去(10)
思うところは多々あるが、一難は去ったようだ。それはジーリレも同じだろう。地面に落ちたマントの泥を払い、濡れたグローブを外している。
「不甲斐ないところを見せた。すまない……」
僕の言葉に、彼は銀髪が張り付いた額を拭いながらヘーゼルの瞳を細めた。
「地下牢で殴るつもりでした」
彼の笑みで口元を引き締めると、ジーリレにハンカチを出す。しかし手で遮り、遠慮された。
「一枚しか無いのなら、彼女へ渡す分がないと後悔しますよ」
「……ありがとう」
くぐもった声であることに気付き、口元の布を引き下げる。ジーリレはしゃがみ、ブーツの靴紐を緩めた。
「終わってみれば言えることですが、先代は俺やガスパルさんを試していたように感じます。もちろん、フリアさんもですけど。たぶん親心ってやつですよ」
「親心? あれが?」
「代替わりで、俺の忠義はあなたに変わりました。しかし先代に仕えていた過去の方がまだ長い。特に自分とガスパルさんは目に掛けてもらいましたし、そんな悪ガキ共の様子を見たかったのでは?」
ダニエルの言葉を思い出す。試すのが好きという親父殿の性分は若い騎士にもわかっているのか。
ジーリレはブーツの中の水を捨てると、靴下も脱いで裸足で立ち上がる。
「あと栗鼠に殺意を抱くのはどうかと。フリアさんに大変嫌われますよ?」
「栗鼠に勝てば問題ない。布陣を完璧に迎え撃てばいい」
そう軽口を言ってみると、彼はふっと笑う。
「ならば次戦も仰る通りにお仕えします。今はその調子で彼女とお話しして来たらどうです? 俺は命令を無視したガスパルさんと話して来ます。出迎えの面々の為に、日が暮れる前に港へ着きましょう」
そう言ったジーリレが小屋に向かうと、僕は身なりを整える。飛び出たシャツをズボンに入れ直し、マントの土埃を叩き、剣を拾ってホルダーに留める。頬をグローブの甲でほぐしながら、角牛たちに口笛を吹くフリアを思い出した。わずかに残っていた戦意や殺意が洗い流される。
足を彼女へ踏み出すと、隣のジェンが膝を曲げて挨拶をくれた。ジーリレと同じくまだ濡れている。
「フリア……大丈夫?」
彼女の華奢な背に声をかけるが、振り返らない。また僕は選択を間違えたのかもしれないと不安になる。横に立つと、栗鼠を撫でる手を止めた。
「あなたの忠告を聞かずに船に乗ったのは私よ。気にしないで」
フリアは片時も栗鼠から目を離さずに言った。飛空艇で無視され続けた日々を思い出して、他にかけられる言葉を探すがすぐに見つからない。あたふたとする僕を見て、ジェンが申し訳なさそうに言う。
「フリア様、先代の船に乗りませんか? エスピラルの餌も寝床も置いたままなので、できればこちらに乗って頂けると、先ほどの説明をより細かにできます」
来た船で帰ろう、と言おうとした。しかしそれよりも早く、フリアはジェンの提案を承諾する。その顔は眉が垂れて、地面を睨み、口をキュっと結んで……涙を堪えているのだ。ゴランフィルで僕を助けて看病してくれた時の顔だ。金色の瞳を潤ませて、人の痛みを思う顔。
「僕は怪我を……脱臼したけれど、平気だ。他の騎士も、みんな怪我は起こり得ることとして、享受している。マリーザだって同じだ。騎士として、ここに覚悟が無い者はいない。君は何一つ悪くない。僕と親父殿に責任があるんだ。僕に怒ってもいいんだよ」
「でも私……勝負の邪魔もしたわ」
「いや、君はマリーザを思って止めたんだ。あの時止めてくれなかったら、酷い事になっていたかもしれない」
フリアは僕を見て、じわりと目に涙を溜めた。たぶんマリーザを思って。ハンカチを手渡す。それで涙を吸った後、彼女は僕へ一歩近付いた。
「マリーザが向こうの船に乗ったから、私もあちらの船に乗りたいの。……エヴァン、肩は大丈夫?」
僕はこくこくと頷く。ロクに見つかる前に、いや、見つかっても彼女を抱えて飛ぶけれど。
「あの時、私が見苦しく泣いてたから驚いたの?」
「時が止まるくらい驚いた。でも見苦しくなんてない。君は何をしても、見苦しくなんてないよ」
そこらの子供でも言える言葉しか出ない。なんて歯痒いのだ。彼女と見つめ合うと、カッと血流が勢いを増して語彙が流れてしまう。そうか……。だからダムが必要なのだ。僕は頭にダムを造らねばならない。
そうは思っても、一朝一夕には完成しない。僕の目は白い頬の涙が流れた跡に吸い込まれ、そこへキスがしたいと思う。強く抱きしめて、まだ話をしていたい。もしかしたら少しは気の利いた言葉が掬えるかもしれない。
しかしフリアがさらに身を寄せてくる。行きのときは何ともなかったのに、顔や頭がさらに熱くなる。行動に不備が出る前に、急いで土で汚れたグローブを外してポケットにねじ込み、彼女背にそっと手を回した。
フリアが僕を見つめたまま首に腕を巻き付ける。ふわりと石鹸の匂いがして、グゴォと邪魔が入る。
「あら、エスピラル。どうしたの?」
栗鼠は彼女の肩の上で尻尾を上げて振り、低い声を出している。……十中八九、僕への威嚇だ。ふざけるな、やめてくれ、雄なんだろ、察してくれ。
「ジェンなら平気かしら?」
フリアはふいと僕から離れ、ジェンに体を寄せた。栗鼠はすんと大人しくなる。
「……は?」
なんて意地の悪い栗鼠だ……。まさか、僕が先ほど殺意を抱いたことに気付いているのか?
「あの、一角栗鼠は人にはなかなか懐きません。私はエスピラルの世話をしておりましたので、多少は信頼を得ているのです」
ジェンは僕を宥めるように言った。それならまず僕が完膚なきまでに世話をしたいのだが。
「じゃあ初対面で私にくっ付くのは何故かしら?」
「相性の問題かと。動物に特別好かれる方がいると、聞いた事があります」
ジェンはにこやかに間髪入れずそれらしいこと述べた。本当はイグナシオのトニエ家の特異性だと知っているのだろう。
僕は諦めきれずにフリアに近付く。ゴォオオオと栗鼠は喉を鳴らす。悪いが、構っていられない。
「すぐに飛ぶから」
そう言って彼女の背に触れると、栗鼠は僕の左の顔面にびたんと飛び付いた。タカタカと爪を立てて頭に登り、髪をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
「ああ、お顔に爪痕が!」
ジェンは悲壮な叫びをあげ、慌てて栗鼠を捕まえようとした。栗鼠はスルッと避け、またフリアの首元に戻って高く鳴く。
……何が、ココキュだ。フリアが笑っていなければ、銅のコインを投げていたぞ。
それからジェンがフリアを抱き上げて親父殿の船に戻って行った。僕は後ろを振り向きたくなくて、髪の毛に手櫛を通しながら、しばらく船を眺める。どうせ小屋の前でジーリレやガスパルやディバ、ロクもやり合った他の騎士も、緩む唇を歯で縛り僕を見ているのだ。
新たな課題が積まれて、舌打ちとため息を我慢できなかった。




