40、騎士と清算の難しい過去(9)
「駄目だ! フリア、行かないで、待ってくれ!」
僕の意思を汲み取ったマリーザは倒れ込み、震える手を伸ばしフリアのスカートの裾を持った。フリアは一瞬、苦しそうな顔をしたが、マリーザから裾を取り上げる。
「……あの方は叔母さんたちの世話をしてくれたの」
誰に向けるでもなく、フリアは言った。涙の跡が残る横顔は凛として、船が来る前の何か言いたげだった唇を思い出す。僕ができなかったことを、首都にいる親父殿が手を尽くしてくれた。でも治療の金を出したのは僕だ。そう叫ぼうか迷った。何の解決にもならないことを考えている間に、フリアは父が手を伸ばせば囚われる距離で向かい合う。
「マリーザに……解毒薬を、お願いします」
父は虚を突かれたような顔をした。僕も彼女の無垢に驚く。
「何故、そんな願いをする?」
そう親父殿が言うと、後ろ姿のフリアは肩を強張らせた。
「ウィ……ウィル様は怒るエヴァンすら、毒など使わないと断言される方ですが……、お認め頂いていない……面倒な荷物には容赦しないと思います」
彼女は俯きそうだった顔をぐっと上げる。
「私はゴランフィルの出で、マヌエル・ドーラン氏を知っています。彼はつまらないハッタリなどしません。たとえ面倒な荷物でも手を抜きません。相手に永劫舐められる事のない対処をします。ウィル様も同じ雰囲気をお持ちです。ですから、マリーザを使って私を追い詰めるなど厭わないと思いました」
彼女は深く膝を折った。手に胸を当て、頭を垂れる。
「どうか、マリーザの手当てをお願いします」
……僕の発する殺気と同じだ。騎士たちは皆フリアを見ていると思う。
彼女の声や仕草は世界に過去、何千、何万と繰り返された命乞いである。しかし姿形の美しさからとは言い切れない、剣を振り下ろす者を躊躇わせる何かがあった。まるでみんな角が生えているかのように、静寂と彼女への注目に徹する。
親父殿もしばらく沈黙のままフリアを見ていた。
「……ほう、なるほど」
親父殿はそう呟いた後、豪快に笑った。それは家でよく聞く、僕やウルバノが何があったのか駆け寄る笑い方だ。
「これが息子の妻という存在か。興味深い!」
そう言うと、デッキの欄干に鉤縄を投げた。ガチャンと固定されると、ピンと縄を張る。
「ロク、降りて来い!」
ロクはすぐさま欄干を乗り越えると、張られたワイヤーにフックを引っ掛けて滑ってくる。薄い体を親父殿が片手で受け止めると、彼は走りながらラベルの無い小瓶をポケットから取り出した。マリーザの隣に荒々しく座り、薬剤を注射器へ充填させ、彼女の腕を捲り打つ。それから長い前髪をかき上げ汗を拭い、大きなため息を吐いた。まさか、本当に……。
「弛緩剤や麻酔に似せたタチの悪い毒だが、ロクが精製したものだ。心配はない」
親父殿は僕らに聞かせるように声を響かせた。信じられない。しかし、父はさも当然のように続ける。
「フリア殿、愚息は君を連れ去り、俺は結婚を認めていない。親と子で誠勝手な振る舞いをしている。君が怒り、話もできない態度を取られても致し方ない。しかし、それでは俺の仕事に支障が出る。なれば乱暴で無礼で容赦無い方法を取り、君に協力を得るつもりであった。先に君が言ったように、俺は君を認めていないからである」
親父殿は帽子を取り、胸に当てる。
「俺の思惑を話せば、マリーザが卒倒して泡でも吹けば、さすがの愚息も動きが鈍る。君はそこらの街娘と同じく震えて傍観し、扱い易く怖がってくれる。そうなれば、我が掌の上だ。しかし、君の振る舞いで己の軽率さを恥じている」
父もフリアと同様、頭を垂れる。
「淑女であろうとする貴殿への無礼な振る舞い、そして失言を謝る。電報ではかねがね言葉を交わしているが、俺がウィルフレディオ・コジャトだ。初対面に紳士を欠いたこと、今一度詫びさせてくれ」
フリアは静かに息を吐いた後、改めて両膝を曲げた。
「ウィル様。首都の叔父夫婦への手厚いもてなしを感謝致します。……加えて、日頃べステ様に気にかけて頂いております。ご夫妻のお気遣いには言葉では足りません」
親父殿はすっと体を伸ばした。思案の間、帽子のツバをいじる。
「……べステが話に出てくるのは脅しかね? 誰かの入れ知恵に感じるのだが」
「いえ、感謝でございます」
そう言ってフリアは後ろを振り返った。強張った顔が見る先には、ロクに支えられた凍て殺すような眼差しのマリーザがいる。父と幼馴染と言えど、許せる範囲ではないのだろう。そんなマリーザから船の上か竈門の掃除の際に、もしもの時は母の名を出せと、フリアは助言を受けたのかもしれない。
「……なるほど」
親父殿は帽子のヨレを指で弾いた後、丁寧に髪を整えて被り直した。袖口の黒真珠のカフスを眺め、母さんの機嫌を予測している。
どう足掻いても無駄だと教えたい。港に出迎えがあると言ったが、夕飯の用意もないだろう。僕に味方してくれているからだ。
父もわかっている。ため息を飲み込む為に、ハッと短く笑った。
「君とマリーザに免じて、両腕の使えない愚息の地下牢行きは取り消そう。この件をべステに黙っていてくれるのなら、容易い願いだな」
全てを察した親父殿だが、まるで悪びれない口調だ。
右後ろ、わざと唾を吐く音がする。叔女たるマリーザだ。地下牢行きは回避できたのだから、不敬だと言うべきだろう。しかし今は僕も唾を吐きたいし、母さんに親父殿から自白させてやると決意する。
それからロクが僕の横に座り、左右の肩をはめた。長い前髪の向こう、いつもは細い目をカッと開いている。
「安静ですよ、安静ですよ、無駄に動いたら駄目ですからね」
「わかった」
それを聞いたガスパルがほっと息を吐く。立ち上がった僕に気不味そうな視線を投げて離れる。ロクと共に鼻血を出して四つん這いになっているディバの処置や、昏倒させた騎士の様子を見て回り始めた。
フリアもちらちらと怪我人の様子を気にしている。小屋の壁にもたれかかったマリーザが微笑むと強張っていた肩の力が少し抜けようだった。
この間にも続いていたバルジャンの姉弟の戦いはジェンが船へ飛び乗ったことで収束した。ジーリレがギリギリと歯を軋ませて、低い声で悪態を吐いているが、ジェンは無視をして船室への扉を開けた。
親父殿はそれを見届けると、口の端を上げる。
「フリア殿、口止め料と言っては何だがプレゼントがある。受け取って欲しい」
コココ、ココキュ。
木箱を持つジェンが戻って来ると高い音が耳に届き、頭の中で図鑑が開く。鳥の囀りのような鳴き声は恋の歌と書かれていた。人の未来を奪い去る、額に角がある小さな生き物だ……。
背筋が寒くなる。一歩先を間違えれば、手紙も出せない間柄の未来があると思い出す。
ジェンはまた降りようとするが、岸のジーリレと睨み合った。彼女は仕方ないとした様子で、マリーザの脇に着地して、さらに小屋の屋根によじ登る。箱からはガサガサと藁をかき分ける音。
「生後半年の雄だ。愚息よりはおとなしい。人にはほとんど懐かないが、さて、どうだろうか?」
父の面白がるような声音に、また怒りを感じる。
しかしジェンが箱を開けた。藁を散らしてぴゅっと茶色の塊が飛び出す。手のひらほどの栗鼠は後ろ足で屋根に立ち、前足で顔を洗うように額の丸い角を撫でた。小さな耳が左右に動いて、つぶらな黒い瞳はしっかりとフリアを捉える。
僕の妻だぞ、と叫びそうになる。騎士である者たちが、また動きを止める。
栗鼠は僕の心情を見事に無視する。人に飼われた半年の人生ではわからないのか、喉を鳴らしながら壁をつたって地面に着くと、足元を駆け抜けてフリアの胸に飛び込んだ。彼女は驚きながらも、そっと栗鼠に手を添え、額を見つめる。
「……あなたも角があるのね」
純真で、聡い彼女は栗鼠の額を指で撫でた。
栗鼠は尻尾をへたりと下げ、大人しくなる。そのまま角牛や羊のように眠るかと思いきや、若さ故か、力が漲ったのか、彼女の体を伝うように駆け出した。爪を服に掛けて、彼女の腹に媚びるように体を擦り付けながらココキュと鳴く。フリアの体をクルクルと周り、顎筋を通る時はもこもことした尾でくすぐり彼女を笑顔にした。
発情期にはまだ早いぞと思っていると、僕を見ていた親父殿に鼻で笑われる。
「フリア殿、どうだ? 栗鼠を飼ってみてはいかがかね?」
「……宜しいんですか?」
「だから見せている。名前をあげなさい」
「……螺旋。螺子のようにクルクル回るから、エスピラルにします。この子は冬眠をする動物ですか?」
「良い質問だ。一角栗鼠はしない。ただ春はよく眠る。寒かろうが、暖かろうが、餌が豊富にあろうが、死んだように一日の半分以上は眠る」
「それは……何故です?」
「まだわかっておらん。フリア殿が解明したら教えてくれんか」
命が芽吹く春が嫌いだという逸話はある。戦場で死人に群がり、成空碇になる骨を見付け出していた過去があるからだ。
「先代、あとは私にお任せを」
屋根からジェンが声をかけ、フリアの元へ飛ぶ。彼女らはお互いの挨拶を終えると、餌や世話の仕方を話し始めた。
親父殿はその様子をしばらく見てから、僕の元へ歩いて来る。同時にジーリレも水を滴らせて駆けて出した。僕は栗鼠への気持ちを蹴り飛ばす。
「お前も大変だな」
親父殿はそう言ってジーリレにハンカチを差し出した。
「先代が大変にしているのかと」
ジーリレは白いハンカチを受け取らず、親父殿はふんと鼻を鳴らし、僕に視線を向けた。
「話すことは栗鼠の行動で決まった。エヴァ、夜別邸に一人で来い」
僕にそう言うと、父は赤い裏地を見せ付けるようにマントを翻し、マリーザを抱えて船に戻って行った。




