39、騎士と清算の難しい過去(8)
——先代が本気ならば、すでに当代は地下牢でしょう。
昼になる前、城砦の詰め所でダニエルはそう言った。船に乗りたいと言わず、僕のことを団長と言わず、困り顔を隠さずに。
——この件は、一度谷に招き入れた奥方に対して無粋過ぎます。情に厚い先代らしくありません。あの方は試すのがお好きです。どうかそれを冷静にご判断ください。
もし先の発言——面倒な荷物——が試すのが好きで出たものなら、許すべきだろうか。初対面で紳士を忘れても、実父という存在で四十四年生き、東方諸国連合と強いパイプを築いて、ブバリア内海の海賊一味を滅し、政治屋を相手に主導を取られまいと奮闘していたら、敬うべきなのだろうか。労いを込めて、僕が笑って「ご冗談が過ぎます」と言うのを父が期待しているのか? ……ゾッとするのだが。
ダニエル……。冷静に判断して糞親父だったらどうするか、聞いておくべきだった。
そんな思考と体は切り離されている。怒りは比重が重く、肉体に流れ落ちて自動で動かす。腕は剣を振り、空気を鳴らしている。桟橋はガタガタと揺れ、左手の川面は剣を振るたび波紋が広がる。切先は相手の脇腹の感触。防戦の老獪な騎士の眼光は苛立ちを募らせ、姿勢を低くした。下から狙う素振りを見せる。僕が後ろに飛んで、攻撃を避ける事を誘っている。誰がのるか。小さく脚を折り曲げて鉄の踵で剣を受け、火花を散らしていなす。
小屋の前、今の位置ならば船から騎士が降りて来ても対処できる。フリアを守れる距離に引き付けておく。僕が桟橋で戦う意味を汲み取っているディバも位置を変えず、剣を構えている。
船で殺気に慣れた人影がちらと動いた。ガスパルはまだ林の中だ。ジーリレは水中で取っ組み合いだろう。左腕に巻き付けた鞭を解す。その間、片手で剣を構えると、父は加減なく踏み込んで来た。避ける一択だ。重苦しい太刀筋は当たらずとも空気の塊が服を撫でる。やがて左手に鞭のグリップを得、船から飛び降りた騎士の足を目掛けて放つ。手前の騎士二人を死角にし、一番奥の者を狙い足首を絡め取る。そのまま引いて林に放ると、意識のない騎士を両肩に担いで現れたガスパルに後は任せる。残りの二人は鞭の戻りが間に合わない。
「ジーリレ! 手伝え!」
昔から、六つ上の従兄弟は僕の声にすぐに応えてくれる。彼は水中から勢いよく這い上がった。同じく川面に出たジェンの鼻先を足蹴にし、小屋へ向かう残りの二人の騎士に濡れたマントを放って相手取る。
ゆっくりと岸に上がって息を整えるジェンもマントを外して身軽になるが、ガスパルが手隙になるのはあと数秒。どちらに副団長を任せるか迷った二人が負けるとは思えない。父以外の騎士を掌握できるのは固い。
「……首都でも訓練できる場が必要だな」
それは父自身のことを言っているのだろうか。身体が明らかに固く、足も重い。半年前なら鞭を解き、他の者に割く時間で二回は殺されていた。
それでも僕より背は高く、体の厚みは倍近い。まともに一撃くらえば勝負を決する危険がある。鞭を腰に戻して、剣を両手で握りしめる。
「そんなに好いているなら、谷のどこかに隠しておけば良いものを」
それは冗談か。そんなこと意味がない。姿を眩ませてフリアを隠したとしても、親父殿の一声で簡単に見つかるだろう。マリーザもガスパルもディバも、街にいるテオやディエゴたちも、あくまで抗議の意味で僕に協力してくれているだけだ。
本当にフリアが谷とって危険ならば、僕は皆に説得される。地下牢に入っても、決して助けてはくれない。
だからこそ、今、卓を挟んだ話し合いに持って行かなくてはならない。それまでの事だ。これが私情の縺れで、我儘であることは重々承知だ。しかし捨てねばならないことに譲れない人がいる限り、親へ殺気を向けようが、なりふり構っていられない。
剣を振ると、親父殿はまた防戦の構えを見せる。先ほどの剣戟で得た経験を屠る算段に変える。背後は取れる。大丈夫。体のなまりは演技とは思えない。局面の優勢はこちらにある。
そこで船のデッキに人の気配。まさか他に戦える騎士が?
「せ、先代、あと五分ですよ!」
声は医者のロクだ。顔の白いヒョロリとした青年。
何が五分。毒の話をまだしているのか? いくら何でも仲間に毒を盛るなどあり得ない。ゴランフィルでフリアを調査するとき、僕の顔に毒を塗って腫らして潜入させたが、状況が違う。ブラフに決まっている。
よそごとを考えれば当然敵は踏み込んでくる。鈍い音、重い太刀を受け止める。
「やると決めたことをやり抜くのが仕事だ。それ以外は戯事に過ぎん」
親父殿は剣を擦りながら、何か投げ付けた。胡桃ほどの石ころ。籠手で弾き返すが、狙いは僕じゃない。後方、しまった、マリーザだ。体に当たったのか、彼女は短く呻く。次いで男物のブーツがジャリっと地面を鳴らす音。
「奥方、動かないで!」
「ディバ、離して! ねえ、マリーザ! 無事なのっ⁉︎」
「フリア、落ち着け!」
父の剣を避けながら声を張ると、ディバのマントからフリアが半身を出していた。目が合うと、瞬間、頭が真っ白になる。
小さな赤い唇は戦慄き、形の良い眉は歪んで、金色の双眸は充血し、白い頬に雫が溢れて落ちている。
……泣いていると知っていた。しかしフリアを見ながら、身体が落ちていく。飛空艇で泣きながら僕に懇願する彼女が重なって、右肩に父の踵が落とされたことに全く反応できなかった。砂利混じりの土の上で体がバウンドする。自分の体なのに、他人事のようだ。
僕は甘いのか。たぶん、いや絶対にジーリレに怒鳴られるくらい不甲斐ない。
でも、好きな人がぐちゃぐちゃに泣いていて、それを見て傷付くのを抑えられない。誰が、何歳で、どうやって生きたら、好きな人の泣き顔を見ても冷静に耐えられるのだ? 平気な奴はいつも泣かせているのか? いや、問題はそこじゃない。僕は彼女が傷付く感触を知っている。狭い船室で無理矢理に誇りを捨てさせる文言を言わせた。その後悔は僕の頭の最果てまで斬撃を残した。だから、こんなに悲しくなるのに、どうやって——
「戦え! エルディヴァン!」
ジーリレの声に体が勝手に反応し、起き上がる。右手を剣に伸ばすが拾えない。脱臼だ。親父殿がマントを掴もうとするのを転がり逃げながら、左手でスリング用の鎖に繋がれた鉄球を出す。
「お願い! マリーザを助けて!」
フリアが僕に出した要望で、父に投げた鎖玉は生まれたての蝶のように頼りなく父の剣を撫でる。巻きつきもせず、こつんと音を出しただけ。
ジーリレがまた何か叫んだけれど、僕の耳は彼女の声がこだまする。胸ぐらに大きな手が伸びてきて、まだ怒りを残した父の顔が近付く。今度は左肩に力が降る。親父殿の重い剣の柄頭だ。ズグンとまた骨が外れる感覚。地面に臀部から叩き付けられる。
「目的が頭からすっぽ抜けるとは。負けでいいのだな?」
煽る言葉に足だけで起き上がる。壁にぶつかって、肩を嵌めねば。しかし走ろうとした足は地を蹴れず、体が浮いた。後ろに引き寄せられる。うなじの襟ぐりを容赦なく、引っ張られて転ばされる。正面の親父殿ではない。僕を覗き込むのはガスパルだ。……何故?
「彼女を守れ! 君も戦え!」
その指示にガスパルは無言で首を振る。僕の足に座って、マントを剥ぎ、右肩の手当を始めた。確かに右は何度目かの脱臼だが、僕はそんなに柔じゃない。
「頼むよ! ガスパル! 彼女を優先してくれ!」
ドゴッと鈍い音がする。ジーリレの相手を放棄したジェンがディバを剣で薙ぎ払い小屋の壁に吹き飛ばした。そのまま彼女はフリアに手を伸ばす。しかし布の巻かれた剣が二人の間を割く。ジーリレが追い付いて、姉弟の剣戟が再開された。フリアは顔を歪め足が止まったが、スカートの裾を握り締めてマリーザに駆け寄った。
「消化試合はバルジャン家に任せるか。エヴァ、手当を受けておけ。勝負の最中に腑抜けたお前の負けだ。認めんか」
「敗北の強要は不敬かと存じます!」
ガスパルが眉間に皺を寄せて語気を荒げる。父は剣を腰元に収め、肩をすくめた。
「ガスパル、斬新な冗談か? 負けの一旦を担って何を言っている。さて、歩けるのなら自身で来てもらいたいのだが」
さっと鳩尾が冷える。
ガスパルはぎりと奥歯を噛み、いつもの穏やかさとは程遠い顔でまた無言だ。体を起こそうとしても、僕を抑え込む。
最近、覚え慣れたフリアの足音が、親父殿に向かっている。




