32、騎士と清算の難しい過去(1)
フリアの母親ルシア・トニエは勉学ができた才女だった。それはゴランフィルをまとめるマヌエル・ドーランが高等学校への進学を薦めるほどで、彼が金を工面し、将来はゴランフィルで教師をする約束の元、ルシアは首都へ渡った。
彼女の学生生活は、武器商売以外は寂れた故郷と、高名な家の子供が通っている学校の雰囲気、その二つが相乗して孤立したものだった。その隙間を埋めたのが、フリアの父ジルド・クローデルである。
ジルドは帝国駐在武官が住まう家の下働きで、十四歳から奉公しており、二十でフットマンとして武官と共にこの国の首都へ来ていた。ルシアが上京する半年前のことである。
彼女が十六の年から始まった五年間の学校生活で、ジルドにいつ出会ったかは定かではない。しかし売女と呼ばれ始めたのは十八の頃だ。それでも彼女は首席で学校を卒業し、ゴランフィルに戻り、万能な教師として働き始める。
マヌエルは念願であった学校を開校して、曜日でクラスを分けて子供たちを通わせた。悪阻と出産で一年目は中断するが、胸を患い死ぬまでの約十年間、隣の街から噂を聞き付けて子供を学校に通わせる者がいるほど、優れた指導力を発揮し、教師の後進を育成することにも尽力した。
ジルドはルシアの卒業より数週間後、武官の交代と共に帝国へ戻った。しかし一通も手紙を送らず、この国の言葉を習得したのを良いことに、帝国で輸入品を扱う商会の通訳となり、商会長の娘と結婚し娘を二人もうけた。
僕は握った拳を解いて振る。調査書の端がヨレてしまった。読むのは二度目だが、やはり最後のページは不愉快になる。
詰所は夜になってもまだ騒がしい。隣室からジーリレの声が聞こえた。宴の中止を知らせる電報は送り終えたが、バルクガラから仕入れた石炭がくるのは変わりない。姉君の旦那殿に自国の商人を手配して捌いてもらう手順を、こちらで組まなくてはならない。
団長室で招待客へ向けた詫び状を書く手が止まり、フリアに関する調査書を開いたが、現状が良くなる手立ては浮かばず溜息が出る。調査書を棚に戻し、書きかけの手紙にまた取り掛かった。決まった文言を書けばいい。定型の文章だ。しかし悔しくて仕方ない。
詰所に入る前に、館の食堂でフリアへ説明したが、首を傾げて理由を聞かれた。僕は大切な仕事の予定が入ってしまったと言うしかなかった。
——ふうん、そうなの。
素っ気なくて、別に構わないといった態度で、サラが慌てて春の方が暖かくて宜しいですよ、と言った。
謝罪の言葉は聞いてくれたが、どれだけ彼女を振り回しているのか、誰かに指摘されなくてもわかる。
彼女を騎士の谷に置けない。
おそらくフリアの出自でわかったことがあるのだ。でも離れたくない。それは無理だ。彼女が帝国の諜者だとしても躊躇う。いや、むしろ諜者ならば地下牢に入れて置いておけるか……。
頭を振って馬鹿なことを考えるのをやめる。手紙を書かなくてはならない。ペンを動かさなくては。しかし遅々として進まず、フリアが思い浮かぶ。
——ママは死ぬまで信じてたわ。あなただけに教えてあげる。私は七歳で糞親父だってわかった。でもママが言う愛の言葉はどんな歌詞よりも素晴らしかったから、私も愛してるフリをしたわ。
ふと、思い出した言葉は不思議だった。
今別れたら、僕はジルトと天と地ほどの差ができる。フリアにとって、僕は二度と顔を見たく無い存在になるだろう。しかしジルドは違う。事情を知る誰もが、七歳のフリアでさえ糞親父だと思ったのに、なぜルシア殿は信じて待っていたのだろうか。その熱意はフリアが帝国の文字を学者並みに読めたり、かなり流暢な会話ができることで証明されている。
そもそもルシア殿はマヌエルの見込んだ才女だ。その傑物が馬鹿な男で孤独を埋めるような人物なのだろうか。
それにジルドとは本当にクズなのだろうか。いや、クズなのは変わりない。書きかけの手紙を見下ろす。戦時下でもないし、検閲も大して引かれていない。他国でも手紙くらい送れる。
それではっとする。手紙も送れない、送るべきじゃないと思っていたら……。
寒気がする。まるで僕の一つの未来のようだ。ジルドはのっきぴきならない事情がわかり、泣く泣く彼女と別離を選んでいたら、なんて。
最後の調査書は帝国に潜入していたダニエルが記したものだ。隣の部屋から彼を呼び付ける。机の前の応接用の椅子を薦めると、ジーリレも入って来た。
「俺も聞いておきたいのですが」
「もちろん、かまわない」
「それから、宴の中止の理由を触りだけでも聞かせてもらえませんか?」
ジーリレは椅子に座りながら言った。目に不安の色がある。
「婚約者だった少佐殿は関係ないのですよね?」
「あれは小物です。妻の親父さんが突いてやったらすぐ黙りましたよ」
ダニエルが自慢するように言った。
マリーザの父親はサウセダ家の家長にして、二十年前から谷を離れて新聞社の編集長まで登り詰めた敏腕な騎士だ。
少佐の実家が新興の政治屋であることを利用して、息子の婚約者が攫われた理由を、ギャングの女と三角関係かと囃し立て取材をすると、スキャンダルを嫌う相手方はすぐに諦めるよう少佐を説得した。それから大して動きはない。
「じゃあ、どうして中止するのですか?」
「詳しくはまだ言えない。僕も知らないんだ。でも僕はフリアと別れるつもりはない」
「そうですか……。いくらか安心しました」
「副団長はずっとイライラされてましたからねえ」
そうダニエルが茶化すと、ジーリレは頭を掻く。




