26、騎士の心は嵐のように(10)
クエルボはなだらかに高度を取り、空へ舞った。フリアの足が小刻みに動いている。足だけで踊っているのだろう。眼下に広がる街や紅葉の森を辺りを見て、北東の向きで顔を止めた。
「ねえ、あそこに春みたいな草原があるわ。どうして?」
「あの牧草地帯は地熱があって、雪が積もらないんだ」
「ちねつ、って何?」
「地面が少し温かいんだ」
「もしかして、温かな池があるところ? サラが去年、一か月くらい行ったって聞いたわ」
「うん……」
街の者は夏祭に合わせて、皆で式を挙げる。その中の夫婦で、希望があれば冬季放牧の手伝いに行くことができる。
各自の幕屋は離して建て、地面は冬でも温かい。夜の仕事はほとんどなく、娯楽は本やボードゲームくらいで、いつでも入れる温泉がある。
それが湯治や休息以外でどんな意味があるのかは、ジーリレでわかった。結婚当初、彼は厳格な夫のようにサラに接し、彼女も外で彼を見かけても話しかけるのを躊躇っていた。それが帰って来たらベタベタになった。昼食を持ってくるサラにキスを落としたところを見て、彼らの間にあった見えない膜が全て洗い流されたか、沸き出る湯に彼らを狂わす成分でもあったか、あの湯は接着成分があるかもしれない、なんて友人たちと密かに盛り上がったくらいだ。
……僕もいつか利用したい。
しかし今年は無理だ。考えなくてもそれはわかっている。日程的にも結婚の宴を挙げれば、雪が降る前に首都に向かう。親父殿の船で戻り、春までは戻れない。フリアも帯同して、叔母夫婦と会う時間を設けた。……しかし次の休みが取れたら、出掛けることはできる。興味があるのなら、遠出の約束を交わせるだろうか。
「あの温かな池を見てみたい?」
「……え? なんて言ったの?」
聞き返されると、何となく恥ずかしくなった。あの場所へ誘うことは、風呂に一緒に入ろうと言っているようなものだ。
「いや、何でもない」
「さっそく帰ることになるかと思ったわ。行き先には気を付けてよ」
「……牛を見に行くよ。わざと聞き返したのか?」
「もちろん。それにサラから話は聞いてるんだからね」
「い、池を見るだけだよ」
「見たら入りたくなるから嫌よ」
「じゃあ、いつか行きたくなったら教えて欲しい」
「そんな日が来るのかしら」
とフリアは呟いた。気の利いたことを言えずに黙っていると、彼女は採掘をしている土地や、湖の養鴨場についての質問する。
やがて広い平原が眼下に広がり、マッシュルームを育てる農家や、田畑が見えてくる。
「ねえ、もしかしてあの奥の広い場所が牧草地?」
「うん。着陸のときは話さない方がいい。バウンドするから」
彼女は頷く。それから牧場の家まで伸びる道を目指し、高度を徐々に下げて行く。到着予定時刻を朝電信したので、玄関で手を振る数人の姿が見えた。旋回して、安全かどうか確かめていると、フリアが言う。
「ねえ、着陸で失敗したことはある? 正直に言って」
彼女は鋭い。僕はフリアより少し身長が高いくらいで、体はまだ鍛えている段階だ。普通ならクエルボのような型の飛行機なんて操縦しない。でも団長として乗れるようにならなくてはいけない。
「去年、はじめて一人で乗ったとき、着陸で前輪が跳ね上がって、後ろに一回転したことがある」
「え? それでよく助かったわね」
彼女の声は驚いているようだった。
「体に固定するベルトはグリップのボタンで外れるんだ」
「どういうこと? ベルトが外れれば大丈夫なわけ?」
「だって避ければ良いだろ?」
ベルトが固定されたままなら、そのまま地面に叩き付けられるが、繋がってなければ脇へ逃げ出せばいい。
「……あなたが稀代の騎士って言われているの、少しわかったわ」
「それは褒めてる?」
「あなたの共感性に八割呆れてる」
二割は褒めてもらっているのか……? 聞きたいけれど、着陸だ。
「後輪が地面に付いたら、僕は立ち上がる。その時君はマントの中に隠れてしまう。でもバーは変わらず離さないで」
「わかったわ」
すごいな、と感心する。あんな失敗を聞いたのに声が落ち着いている。
「もう話しては駄目だよ」
さらに下降し、牧場の木の柵と機体を平行に調整する。踏み固められた地面が近付く。機首を上げて二つの後輪を付けると、立ち上がって前輪にトラクションをかける。ゆっくりとブレーキをかけ、柵の向こうで牧畜犬が並走し始めると、僕は座り、彼女の頭がひょこっとマントから出た。
「悔しいけど、上手……」
僕は褒められて嬉しくて笑った。
「ありがとう。でも、なんで悔しいの?」
「よくわからないわ。あなたって不器用ばかりだと思ってたから」
見直された。頭がじんわりと温かくなる。それで思い付いたのは城砦の訓練所に見学に来ないか、という誘い文句だった。鉄串を的に投げて文字を描いたり、鞭で瓶の蓋を開けることを見せれる。しかし頭の中でジーリレとダニエルが首を横に振る。想像の彼らは奥方もやってみたいと仰るに決まっています、と難色を示す。デートにも不向きだろう。いや、彼女は喜ぶか。……これは要検討だ。
さらに速度を落として進み、オテロ一族が住む家の前で止まると、家長のトマスが門扉をくぐって出て来た。
フリアがベルトを外すと、僕は手を差し伸べる。その手を彼女に見られて、はっとする。いつもの癖で自然と出してしまった。でも補助席は立ち上がりにくい。マントを引っ張ってもいいと提案しようとしたが、グローブをはめた手がグッと握られた。
「ありがとう。え、まだ浮いているみたい。地面に足が付いているのに、おかしな感覚ね」
「……気を付けて」
僕は彼女の手を握って、トマスの前までエスコートする。彼に山奥まで後退の命令を出したくなる。ワン、と人懐こい牧畜犬のカネラが柵を飛び越え、僕らの周りを飛び跳ねる。尻尾をぶんぶんと振っているのを見て、人に尾が生えてなくてよかったと思った。




