24、騎士の心は嵐のように(8)
その日、一番恥ずかしかった失敗は、グライダーの箱を上下逆に背負ったことだ。空で下部に付いているハンドルを引っ張ろうとして、やっと気付いた。さっと背負い直したが、そういうことを見せるのはまだ危険だとジーリレに注意された。
詰所の食堂で夜半の見回りに出る騎士たちと夕食を取り、館に戻る。
深呼吸をしてからフリアのいる部屋をノックして名乗ると、少しだけ扉が開いた。彼女は髪をすでに下ろしている。怪訝な顔をされたので、考えていた世間話を省いて、手短に僕が導き出した最適と思われる問いをぶつけてみる。
「明日の昼食の予定は? できれば共にしたいんだが」
「各自で食べればいいと思ったけど。牛舎って川向こうよね?」
今日一日でつくられた大量の期待が昇華されていく。幻聴でも聞き間違いでもなかったのだ。僕は外でする仕事の時のように、首に巻いた布で口元を隠す。
「うん。冬用の牛舎だけど、数匹の牛がいるよ」
「他の牛は?」
「今は離れた所で放牧している」
「冬用って言ったけれど、みんな別の場所に放牧に行くんじゃないの?」
「それは一部の山羊と全部の羊だ。昼の鐘が終わる頃、部屋に迎えに行く。飯は僕が用意する」
「わかったわ。ねえ、今から仕事なの?」
「詰所で夜直がある。じゃあ、また明日」
それは嘘ではない。見張りの騎士の妻が産気付いた知らせがあり、急遽穴が出たのだ。詰所で夜直のジーリレがその時間の見張りを受け持つ間、僕が待機する。
詰所のエントランスでカウンターで座っていると、扉が開いた。マリーザから軽い無視をされているダニエルだ。本の件は謝罪を厚く済ませているので、夜の挨拶を交わす。彼は口を隠している僕を見て、首を傾げる。
「寒いので?」
「いや……」
それで、彼はピンときたらしい。
「じゃあ、里では外してください。外での仕事みたいで、不吉ですよ」
観念して、唇を噛んでも上がってしまう口元を出す。
「どうしたんです?」
「明日、昼の休みに二人で牛舎に行く。仕事はしたから、一時間余計に休みをもらう」
ほお、とダニエルは感嘆した。
「それはいいですね。しかし放牧場の方がいいのでは? 俺たちもそこらにはよく行きましたよ。秋なら近くに小さな滝があるでしょう? 湯を沸かして、茶を飲むのにちょうどいいんです」
「歩いて行ったか?」
「まさか、女の足だと一日はかかりますよ」
「クエルボか……」
二人乗りの小型飛空機だ。後ろに銃撃用の座席があるが、それは進行方向の逆を向くし、何かあった時に操縦席からすぐに対処できない。従って彼女を乗せるなら、操縦席に二人で跨り、後ろから抱くようにする。それはさすがに嫌がるのではないか。
「奥方は大喜びでしょうな。コトヴィアが好きなんですから」
「でも、さすがに時間が足りない。それは今度にするよ」
「……確かにそうですな」
そう言ってダニエルはカウンターの上の配備表をパラパラとめくった。
「明後日、休みを貰えませんか。学校も休みだし、家族に釣りに行こうと思いまして。休みを交換するのは自分でやりますから」
その日はダニエルが担当する会合はないし、大掛かりな訓練もない。
「わかった」
「じゃあ、ちょっと見張りに聞いて回って帰りますね」
青いインクへペン先を付けると、配備表に変更を記す。
ダニエルが帰ると、しばらくして見張りが終わったディエゴが配備に変更の要望を出した。僕はそれを記す。彼は軽やかな就寝の挨拶をして出て行く。
次いで、エリンケが見張りの交代に来た。彼も休みの変更を希望し、また配備表に書き込む。
三十分経つと、マノロが見張りの当番でやって来た。また配備表に記す。マノロと交代したルーカスも休みを変えて欲しいと言い、詰所を去って行く。
そうやって二時間経つと、配備表は青いインクの変更希望でいっぱいになった。僕はそれを読み解き、静かにダニエルに感謝をする。
最後、ジーリレが見張から戻って来た。何を言うのかはわかる。
「君をマテフの休みと入れ替えるんだろ?」
先を読んでそう言うとジーリレは飄々と肩をすくめた。
「仰っていることはよくわかりませんが、四日後の休みを五日後の午前と、八日後の夜に分けて頂けるなら、文句は無いですね」
「……そうなると、僕は急に明日の午後に休みを得られる」
「そうなんですか。まあ、休める時に休むのも仕事のうちですよ」
僕は椅子から立ち上がって、下げた首の布を引き上げる。
「……気を遣わなくていいのに」
「いえ、変更はよくあることではないかと」
「……クエルボを見てくる」
「一号機なら、さっきダニエルさんが帰りに見たくて仕方ないって言ってましたけど。たぶん明日、エンリケさんも見たくてたまらなくなるでしょうね。いや、ほんとに不思議ですけど」
ジーリレは肩をすくめる。エンリケは飛空機の整備が出来る騎士だ。僕はそれなら大丈夫か、と詰所の扉に向かう。しかしムズムズと胸が騒いで、踵を返す。
「……明日の昼飯は何がいいと思う?」
「暖かなスープの材料を見繕えば宜しいかと。ご一緒に作ったらどうです?」
「……最良の案だ」
僕は彼女の家で世話になった時、出してくれたスープを必死で思い出す。夏の野菜のスープだった。瓶詰めでも可能だろうか。朝、サラに確認しなくては。
それから何を持って行ったか、ジーリレに事細かに聞く。鍋、カラトリー、敷布、コップ、やかん、炭、オイル、火付の道具。学校で行った野営の準備と似ているのに、全く違う感覚だ。
「……落ち着かない」
「どうしてですか?」
「……嬉しくて。みんな、こんな気持ちを知っているんだな」
変更の線で迷路のようになった配備表をそっとなぞると、ジーリレは微笑んだ。
「団長、まだまだ色々ありますよ」
それに頷くと、就寝の挨拶をして詰所から出る。風が強く吹きつけた。ゴランフィルとは違う気候であることを思い出す。冬用のマントを出そう。クエルボに乗る時に彼女を包めば、幾分暖かいはずだ。
月は綺麗な三日月で、空気に湿り気はない。明日は晴れて欲しいと願ったのは久しぶりだった。




