15、騎士と鼻折りの花嫁(15)
夕陽が差し込む館の自室で、ジーリレを誘ってチェスを打ちながら、先ほどのことを話す。彼は軽く説教をし、諭すように言った。
「たとえ怒るにしても、カミロが四つでも、その場合は不敬だと言うべきです。あなたがそう感じたのなら、それを伝えなければならない」
盤上で切り裂かれていく自陣にトドメを刺すかのように扉がノックされる。
「フリア様がいらっしゃいました」
「俺が出てから通せ」
僕を差し置いてジーリレが言い、席を立つ。不敬だぞ、と何とか言うと彼に強く肩を掴まれる。
「エルディヴァン、友人として言う。君が勇気を出さなければ何も進まない。君が彼女をどうしたいのか、伝えてみるんだ」
「……それで、駄目だったら?」
上目で見るジーリレは微笑んだ。見たことのない顔だ。
「叔母夫妻の元へ返せばいい」
「君は……サラと別れることになる」
「自分で決めたことくらい守れるよ。俺は君の友人を、副団長を辞めるつもりはないよ」
ジーリレが部屋から出ると、彼とサラの足音は遠くなっていった。僕はせめて彼女と距離を取っておこうと、ベランダの前に行く。
彼女が箱を廊下に置く音が聞こえ、ノックが鳴った。どうぞ、と言うとフリアは二歩だけ僕の部屋に入って来る。
「帰りに見せたかったのは、コトヴィアのこと?」
もう忘れて欲しかった。教えたくない。骨董品の飛空艇は修理が必要だ。
黙っていると、彼女はあからさまなため息を吐いた。
「私、あんたに友人がいるとは思わなかったわ。最初、取り巻きだと思ったけど、違うのはわかった。あんたがファグネルさんと話しているとき、みんな口説き文句は何だったのか一斉に聞いてきたの。ほんと下世話だけど、あんたに興味があって、だからそれが苦手だとみんな知っていて、押し倒されただけって言ったら、とにかく心配された」
僕はそれを恥辱に感じて、奥歯を噛む。
「ねえ、何か言ったら?」
石造りの広い部屋が彼女の声を反響させる。無視が解かれたというのに、僕は何も言えない。目を合わせることもやめてしまう。
「何よ、みんなが言うほど大したことないじゃない」
かっと頭が熱くなる。ソファとテーブルを飛び越え、彼女の目の前に立つと、小さな頭を抱え、細い腰に腕を巻き付け、口付けをする。飛んだ際につま先に当たったチェスの駒がカラカラと落ちる。僕に閉じ込められたフリアはもがく。やがて横腹にドンと工具がめり込んだ。顔を離すと、三発の拳が鼻に当たる。彼女の拳がまた腫れるだろう。なんでグローブを取ってるんだよ、と叫んでしまう。
「あんたのせいで殴ってるんでしょ!」
「それでもグローブをして殴れよ! 君は職人のくせに自分から手を痛めて、恥ずかしくないのか!」
支離滅裂だ。僕だって仕事でもないのにジーリレを殴って拳が赤い。ディバのグローブなんてして欲しくない。でも彼女の手が擦りむけて赤くなるのは嫌だ。
ぴたりと彼女は止まり、金色の瞳が僕を見る。
「……僕は触れたぞ」
飛空艇での言葉を思い返し、恐怖する。でも覚えていてくれ、と思った。
「あんたが死んで欲しいのなら、絶対に死んでやらない」
「……絶対に死んで欲しくない」
「じゃあ、死んで欲しいって叫んでみなさいよ」
ぎゅっと僕の体積が縮まる。そんな恐ろしいことを言えると思うのか。
「……嘘でも、口にはできない」
「そういうところが大したことないって言ってるのよ」
僕はまたキスをする。彼女を扉に押し付ける。スパナが横腹にめり込む。絹を巻いた腹が凹み、唾を吐きそうになるのを堪える。
「みんなの前で格好つけてるくせに、こんなことしかできなくて、私にタコ殴りになって、馬鹿みたい!」
「君だって人前で僕のことを殴らないだろ! さっきだって、妻なんかじゃないとか、文句でも言えばいいのに、黙っていてくれた!」
当たり前じゃない、と彼女は吐き捨てる。
「私は酷い女になりたくない。そう思われたくない。でもあんたはそうさせる」
「僕だって……」
ああ、上手く言葉が出ない。
彼女に何を伝えたら良いのかわからない。
無理矢理に攫い、抱こうとしてしまって、それだけでも充分酷いのに、これ以上嫌われたくない。
しかしどちらかに進むしかないのなら、ジーリレの言うとおりなのだ。
「僕だってちゃんと口説いて、自分を知ってもらって、君が受け入れてくれるまで、何年でも頑張りたかった! でも僕は団長で五年しか時間がなくて、それを使う間もなく君は婚約した!」
「それで? 私はあんたの事情なんて知らない。同情心も起きない。諦めれば良かったじゃない」
「無理だ。君しかいない。選択肢も出てこない。僕は君を……それは、本当に……僕だって……」
彼女の抗いが甦る。あの夜のことが、今扉に押し付けていることが、僕を責める。愚かさに身を焦がされ、自分の生まれを恨んでしまう。それを上手く抑え込む術が欲しくて、目が熱くなる。歪んでしまう顔を止められない。
「僕だって……君を大切にしたいんだよ……」
フリアはじっと僕の無様な顔を見た。頬の軟膏を溶かした雫がぽたぽたと床に垂れる。
「ねえ……あんたって……」
足で腹を蹴られ、僕はよろっと後ろに下がる。フリアは足先から頭の上まで、ゆっくりと僕を見る。右のグローブが外されて、手をまじまじと観察された。彼女の白い両手が僕の手を包む。頬を拭うのを我慢して、またそこに口付けされることを縋るように期待する。
しかしフリアはぱっと手を離した。すたすたと僕を通り過ぎて、暖炉の方へ向かう。夕陽の差し込むベランダへの扉を開けて振り返る。
「ねえ、やっぱり叫んで。私に死んで欲しいって。この谷にいる全員に聞こえるくらい大きな声で叫んで、あんたも酷いってこと知らせてよ」
「い、嫌だ。別の言葉にしてくれ」
「私、この谷にいる全員に説得されているのよ。街をちょっと歩いただけで、お婆さんやお爺さんが家から山ほど出て来て、延々にあんたやコジャド家の英雄譚を教えてくれるの。それにあんたの顔に怪我させた指輪を、鍛冶屋のマテフさんに溶かされかけたわ! ママの形見じゃなきゃ、説得できなかった!」
「……僕が叫ぶのと、何の関係があるのかわからない」
そう正直に言う。
彼女は睨むように僕の瞳を見た。僕に頼るつもりの無い、残された道で自分一人、精一杯生きてみせると思わせる強い目。しかし、ふらっと現れた身元も知れない少年に、出来る限りの慈悲を注いでしまう、美しくて優しい目。それがゆらっと揺れる。
「こんなお願い、他の誰にできるっていうの。これができないなら、あんたに価値は無い」
——知らない人ばかりなんだもの。心細いはずですよ。
アニタの声がふいに甦る。
フリアの家に世話になったとき、彼女との思い出がどうして多くあるのか、今更気付く。ずっと一緒にいてくれた理由も。
母に会い、ジーリレに頼り、友人に心配され、それを当然だと思っていた僕は、今日も不甲斐なさに切り刻まれる。
「嘘だからな!」
僕はまた家具を飛び越える。彼女の開けたベランダへ出る。
宝石のような過去があっても、僕は全て台無しにした。そんな自分をフリアは都合よく受け入れてくれるはずもない。だから石造りの欄干を粉塵が舞うほど握り締め、夕陽に輝く溺れ谷の街に向かって叫ぶ。寝ぐらに帰った鳥が一斉に羽ばたき、空へ舞った。
「うるさいわね」
その声に振り返ると、夕陽に金色の瞳が輝き、黒い汚れのある顔が歯を見せて笑っていた。
僕は彼女と同じ十五歳で、まだ体躯は育ちきっておらず、予定を巻くのと怒りを抑え込むのが下手くそで、自分の気持ちばかり注視して、どうにもならない事を悔やんでしまう子供だ。
だけどまだ十五で良かったと、はじめて思った。




