13、騎士と鼻折りの花嫁(13)
彼はダニエルやダボがいくら説得しても立ち上がらない。僕は後ろに回って、銀の髪をひと束すくい、剣で切った。サラが手入れをしているらしい彼の髪は、真っ直ぐで滑らかで上等な糸のように輝いて地面に散る。
「残しておくんですか?」
背を向けて跪くジーリレがそう言った。決闘は膝を付けば敗者となり、終わり方は勝者が決める。
「……これで終わりだ」
それからダニエルと学校に出て剣の手ほどきをし、詰所に戻って仕入れた荷物の分配を決めた。ジーリレはその間に川の砲台へ技師を連れて行き、点検を済ませて砲撃訓練の日程を決めると言った。
西陽が城砦の塀で遮られる頃、詰所の団長室に入ると、診療所の報告にウルバノが部屋に来た。
「なんで君が?」
「えっと、皆、忙しくて……」
ダボの助手になったばかりで、まだ十二だ。他に代わりは立てれるだろうに。それでもウルバノは慣れない様子で報告を始めた。
「補装具工房とセブリアン騎士を引き合わせますが、今は義眼は望めないです。切開してみないと、わかりませんが」
「彼はなんて?」
「このままでも良いと。それより専用の義足を急いで欲しいと、少し焦ってます。アニタ夫人に子供ができたかもしれないと言ってました。まだ日が浅くて、確定ではありませんが。ただ交換が必要な騎士の順番待ちが二人あって」
「そうか。その二人には僕が話してみる」
そうした話が終わると、彼は扉に手をかけたが、僕を振り返る。
「あの、母さんに会いに行かないんですか?」
ウルバノは弟の顔を見せてそう言った。そんなことだとは思った。ダボなりの気遣いだろう。
「来月の狩猟の申し出に署名しないといけない。それより君の咳は良くなったのか?」
「時々、酷く出るけど前よりは良いです。ねえ、お土産だけマリーザ夫人から渡されたとき、母さんすごく淋しそうだったよ」
「しばらくはたぶん行けない」
「……わかりました」
僕は彼に言った通り、狩猟の申し出の紙に署名を始める。六十枚ほど終えると、今度は十歳になった学校の子供たちの宣誓書も目を通して署名する。彼らは湖の養鴨場で老鳥を射る。初めて生き物を撃つ。六歳で参加した僕はボウガンの矢が全く当たらず、帰り道でグズグズに泣いたことを思い出した。それからジーリレに手解きを頼み、夜までよく訓練に付き合ってもらった。また署名を三十二人分終え、伸びをする。
それから首都にいる親父殿の手紙の返事を書いたり、各地に点在する騎士の報告や、不埒者の掃討を嘆願する依頼の書簡に目を通し、冬の予定を大まかにメモにとる。
ついでに冬季放牧の日程を去年のものと見比べることにした。途中立ち寄る小屋の不備やルートに倒木などがないか、下調べをする日取りを小型の飛空艇の使用予定と擦り合わせようとしたが、予定表が無い。エントランスの共用の棚にあるからだ。
そこで自分はジーリレを待っていることに気付いた。彼が扉をノックして、もう今日はこの辺で切り上げましょうと言ってくれるのを、いつまでも待っているのだ。それどころか、水をグラスに入れて机に置いてくれることも。昼から何も飲んでいない。
詰め所は見張りの当番が開け閉めする扉の音しか無くなっていた。エントランスに降り、壁に貼られた谷の地図を見る。ジーリレの紋章のピンは彼の自宅にあり、僕も自分のピンを館に刺す。
しかし、もう一度抜いて、城砦の裏手にある川のほとりの家に改めた。入り口の机に座る当直の騎士に一時間後、館に刺し替えてくれと頼んで詰め所を出る。
学校や診療所、地下まで伸びる大きな備蓄庫を過ぎ、裏門の見張りに行き先を伝えて森へ入る。
木立の向こうで流れる川に沿い、しばらく歩くと、石を固めた土台に立つ煉瓦の屋敷が見えてくる。音を立てて鉄柵を開けると、二階の窓板が少しだけ開いた。僕だとわかると、ウルバノは寝巻き姿で身を乗り出して手を振る。すぐに見えなくなったので、母さんを起こしに行ったのだろう。
玄関が開かれると、母は夜分の訪問を責めず、紺色のガウンを羽織り、たっぷりとした黒髪を揺らしながら、迎え入れてくれた。
「すぐに顔を見せに来た頃が、もう懐かしくなるなんて」
そう切れ長の目を垂らして言った。いつもは心配よりも強い言葉を発するが、僕が団長を継いだ夜のように優しい目をしていた。
「あなたのお土産をマリーザに渡されたときの私の気持ちがわかるかしら」
「……ごめんなさい」
川辺に建てられた二階建ての家には、住み込みで家事をする二人の寡婦、父の母、母さんとウルバノの五人が暮らしている。他は二匹の山羊と、馬が一頭、猫はウルバノに配慮して別の小屋にたぶん四匹いる。
僕の暮らす館と広さは同じくらいなのに、ずいぶんと雰囲気が違った。前はそんなことを考えたことも無かったのに、居間に置かれたいくつもの写真立てや、年季の入ったソファ、温かいお茶が二杯並んだテーブルが違いを気付かせる。
「話はマリーザからだいたい聞いています。頰の傷を見せてちょうだい」
母は木目の光るチェストから薬箱を取り出し、右隣に座った。抜糸された傷跡の軟膏をガーゼで丁寧に拭き、まじまじと見る。
「あら、やりますね。ナイフでも無く、ただの指輪で深く裂くとは。上に裂かれていたら、大変でしたよ」
母さんは軟膏を筆に取り、ペタペタと塗る。猛禽のような黒い瞳と視線が合うと母の口元に笑みが広がった。
「私、マリーザがまだ剣を握っていた頃、些細なことを注意をされ、喧嘩を売ったことがあります」
「喧嘩、ですか」
「私も剣を使えますけれど、そのときは殴り合いを選びました」
軟膏を塗り終えた母さんは筆を置いて、僕のまだ青い鼻を軽くなぞる。
「……いつ頃のお話ですか?」
「十八のとき。だから、二十五年ほど前ですか。森に呼び出して、顔以外をお互い殴り合いました。次の日、他に知られてはいけませんから、普通にしていました。だけど、お互い動きがおかしくて、笑えましたね」
お茶を勧められて僕はグローブを外してカップを手に取る。一口飲むと、蜂蜜がいつもより多く入っていた。その甘さと温かさに弛緩して、顔が俯いてしまう。母さんはそっと背中を撫でてくれた。故郷の言葉になってもいいかと聞かれて、僕は頷く。
「人は怒りを堪える努力をします。それは大切なことですし、騎士には絶対に必要なことです。だからこそ、マリーザやジーリレさんが感情を露わにしたのは、ものすごく勇気が必要だったと思います」
「怒るのに、勇気がいるんですか?」
「憎む人だけに向けるものではありませんから」
母はぎゅっと僕の手を握る。
「あなたたちはまだ血の気が多いのです。先代も言っていたじゃない。若くて血の巡りが良くて代謝が早いから、古い奴らの言うことなんてメッキのように剥がれてしまう。そして自分で経験した方が遥かに身に染みる。皆で支えるから、大いに学べと。そして皆はあなたから学ぶと」
「こんな僕から何を学ぶんだろう……」
「彼らは再び学ぶのですよ。遠い過去になってしまえば解決してしまう事柄を、もう一度あなたから」
祖父や父が言っていた言葉を思い出す。
「……団長は未熟者に限る」
「その通りです。剣しか能がないあの人だって務まったんですから、それに関しては大丈夫ですよ。私に決闘のコインを投げて、結婚の宴に引き摺り出した話はあなたも知っているでしょう? ジーリレさんはそれよりずいぶんマシです」
僕は首を傾げる。
「いえ、初耳です」
「……あら、やだ」
口を押さえて母さんはくすくすと笑った。僕も口元が緩む。母の手が頬を挟み、僕の顔を上げた。
「秘密ですよ、エヴァン」
僕は頷く。母さんが父さんを認めた時を教えないのは秘密だからだろう。それは母の赤らむ頬で何となくわかった。
翌朝、僕は母とマリーザを真似てみた。仕事は昨晩進めておいたし、それで一時間ほどお互い予定が空いている。
ジーリレを連れて城砦の端にある診療所の裏庭に行く。ここなら学校からは見えない。詰め所の二階からは丸見えで、ガスパルとダニエルが心配そうに見ているが。
僕はマントを外して、少し迷ったけど着剣は解かないことに決めた。ジーリレは仕事の時のように髪を一つに括り、グローブを外す。
「拳を痛める」
「これはただの運動ですか?」
彼の言う通りだと思い、僕もグローブを外した。お互いに間合いを取り始めると、僕から行かねばならないことを悟った。
ジーリレの左の腹を腰を捻り狙いにいく。しかし彼は全く動かない。だから寸前で止めてしまう。彼は僕の手首をミシッと掴み、腹を殴られる。
「何をやってるんですか」
癖で、鉄串の投射に動きが移行して、それを見透かすジーリレの肘にさらに背中に一発もらう。
蹴りを放って彼を離すと、ぐらっと膝を付きそうになる。両手で地面を押して跳躍し、体制を空中で整えながら彼を見た。
すでに長い足は僕との間合いを詰め、右足が引かれている。彼の蹴りを腹に受けると、僕は足を掴んだまま着地して、体を沿わせて距離を詰める。体勢の崩れたジーリレの鳩尾に下から拳をめり込ませると、彼の口に胃液が逆流して頬が膨らんだ。一時間あることを思って、彼から離れ、吐き終わるのを待つ。
「食べ物を粗末にしてはならない」
僕はそう言ってみた。
「……あなたが吐かせたんでしょうが」
「ジーリレが避ければいい」
彼ははっと短く笑った。
「懐かしくて、憎たらしい言葉ですね」
また格闘を続ける。もちろん長身のジーリレの方が有利だし、彼の方が基礎的な力は強い。服を持たれたら一発は覚悟して、彼から離れることだけを考えなくてはならない。
僕は軽いパンチを体に当てて、距離を取る。そのスピードに緩急を付けて、一時間ほど数発もらいながら交わし続けると、肩で息をする彼の膝がガクンと地に落ちた。それで僕は額の汗を拭った後、彼に手を差し伸べる。
「……これは決闘じゃありませんよ」
そう言われて、確かにと思った瞬間にはもう投げ飛ばされて、背中から落ちた。
「さあ、続きをしましょう」
「……薬の匂いがする」
「なんで外しておかないんですか」
「殴り合いだし、君に投げられるとは思わなかった」
「舐められたもんですね。……というか、この匂い毒じゃないですか?」
毒は持っていないはずだ。起き上がって腰元のポーチを確認する。麻酔粉のオブラートが少し破れていた。
「だから、何をやってるんですか」
腹にジーリレの拳がめり込む。全くの不用意で受けてしまった。顔を横に背けて、オロッと胃液を吐く。それを見て、彼は肩をすくめる。
「ちゃんと食事は取って下さいよ」
「……うん」
それから彼はマントを拾い僕にかけた。
「あなたははじめての喧嘩ですか? 俺が知らないだけでやったことあります?」
「ないよ。君は?」
「俺があなたくらいの時、どれだけ素行が悪かったかは知っているでしょう? あの温厚なガスパルさんにブチのめされたこともあります」
「知ってる。みんなで学校から見てた」
「は? なぜ? あの時間は授業中でしょう」
「ダニエルの講義だったから。みんなで静かに無言で、君が吹っ飛ぶところを見てたよ」
ジーリレは恥ずかしそうに唇を噛んだ。お互いのグローブを拾い合うと、近くの水場で口を濯ぐ。
そこには籐のバスケットがあり、中にはポットとパンやマルメロのジャム、柘榴が入っていた。彼が布で包まれたポットをカップに傾けると、茶は湯気を出す。手渡され、一口啜ると母さんの入れる茶の味がした。
ジーリレは水場の石組みに腰を下ろしてパンにジャムを塗って僕に渡す。僕も隣に座ると、彼は自分のパンを用意しながら言う。
「サラを囲ってた豚野郎を店で殴ったとき、あなたは俺に手当を指示しましたよね。そいつが死ねば破門になるから当たり前ですけど、俺は頭に血が昇っていて、人の気も知らねえのかって叫んだ。何も応答がなくて振り返ったら、あなたはテーブルの飯を急いでかき込んでました。栗鼠みたいに頬を膨らませて」
僕はパンを齧りながらその時のことを思い出す。店で料理を注文すると、おずおずとほとんど裸のサラが給仕をした。後から聞くに、店主は見受けの値を釣り上げようと、僕らには理解できぬ下衆な交渉手段を企んでいた。
「僕は食べ物を粗末にしない自戒をたてているから」
柘榴を割って半分彼に渡す。
騎士はいくつか自戒をたて生涯それを守る。水を譲る、狩りをしない、自慰をしない、食べ物をまず人に薦める。そんなルールを人生に添える。
「ええ、そんな糞真面目なあなたを見てサラは笑った。今でもあの時のことを思い出して笑う。俺はそれが羨ましくて、怒れて、心の底から感謝しています」
そう言う彼は僕が副団長に指名すると、一つだけ自戒をたてたと言った。それは副団長になる者がよく誓うもので、珍しくはない。ただ稀にみる覚悟がなければいけないと僕は思う。
仕える者が失ったものを自分も捨てる。
彼が馬鹿みたいに真面目だと評する僕が尊敬する自戒だ。




