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三十一センチの向こう側  作者: 春凪とおる


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第四話 午後三時

 鐘の音は、まだ空気の中に残っていた。

 灯台の下へ降りると、町は、すっかり動きだしていた。


 紙飛行機が空を行き交い、運河の紙舟が風を受けて走る。

屋根の郵便受けから、封筒がぱたぱたと飛び立っていく。

市場のほうからは、瓶が触れ合う、ちりんという音が聞こえた。


 灯台の入口に、緑色の扉が立っていた。

 古ぼけた木の扉。鏡の中で見たのと同じだった。


「帰り道だ。今なら、開いてる」

「……そっか」


 航太は、扉の前で立ち止まった。


 帰りたい。髪を切りに行く。母が待っている。それは本当だ。

 でも、足が少しだけ、重かった。


 ソラは航太の肩から降りて、扉の前の石畳に、ちょんと立った。


「配達、手伝ってくれて、ありがとう」

「ぼく、なんにもしてないよ。走っただけ」

「それがよかったんだよ」


 ソラは、そっぽを向いた。


「最初は、ちょうどそこにいただけの子だと思ってた」

「ひどい」

「でも、あの手紙、ちゃんと預かってくれた」


 航太は、返事ができなかった。


「あと、毛先から一本ずつ、っていうの。あれ、忘れない」

「ほどくの、コツなんだ」

「うん」


 ソラは翼を広げて、翼の端に貼ってあった切手を一枚、くちばしでそっとはがした。


「リボン、貸して」


 航太は、髪からリボンをほどいた。長い髪が、背中に落ちる。

 ソラは、リボンの裏側に、切手をぺたりと貼った。

 銀色の星と同じ色の、小さな小さな切手だった。


「配達済みの印」

「そんなの、いいの?」

「いいの。郵便屋は、仕事のしるしを置いていくんだよ」


 それから、急いで言った。


「じゃあ、元気で!」

「ソラも」


 航太は、扉の取っ手を握った。

 ふり返ると、ソラはまだそこにいた。風に押されて、少し浮かんでいる。


「また、来られる?」

「風次第」

「それ、答えになってない」

「郵便屋は、風に聞くんだよ」


 ソラは、にっと笑った。

 航太も、笑った。


 扉を開けた。

 光があふれた。


 洗面所の時計は、七時四十六分を指していた。


 航太は、洗面台の前に立っていた。

 鏡には、いつもの白い壁が映っている。


 鳥はいない。扉もない。

 ひざが、少しじんじんしていた。

 

 手の中に、青いリボンがあった。裏側に、小さな切手が貼ってある。


「……本当だった」


 台所から、母の声がした。


「航太ー、ごはんよー」

「今行く!」


 航太は、リボンで髪をひとつに結んだ。いつもと同じ、蝶結び。



 午後三時。

 美容室の椅子は、思っていたより高くて、足がぶらぶらした。

 大きな鏡の前で、美容師さんが航太の髪に櫛を通している。


「よく伸ばしたね。きれいに手入れしてある」

「毎朝、結んでたから」

「毎朝? えらいね」


 航太は、ちょっと照れた。

実際は、めんどくさい朝のほうが多かった。


 髪は、いくつかの束に分けられて、それぞれゴムで結ばれた。


美容師さんは、根もとから測って、

「ここで切るね。三十一センチ、ちゃんとあるよ」

と言った。


 航太は、うなずいた。

 後ろの席で、母が見ている。


「やめてもいいんだよ」


 母が、ぽつりと言った。


「え?」

「今日じゃなくてもいいの。航太の髪なんだから」


 航太は、鏡の中の自分を見た。

 髪が、肩から背中に落ちている。三年間、一緒だった髪だ。

 走るとき、後ろで揺れるのが、好きだった。


「切る」


 航太は言った。


「今日、切るって、決めてるから」


 母は少し笑って、うなずいた。

 はさみが入った。


 しゃきん。


 最初の音で、航太は思わず目をつぶった。


 しゃきん、しゃきん。


 頭が、少しずつ軽くなっていく。


 目を開けると、美容師さんの手の中に、黒い髪の束があった。

結ばれたまま、きれいに収まっている。三年分だ。


 思っていたより、ずっと重かった。


「これ、ちゃんと送っておくね」

「どこに届くんですか?」

「それは、私たちにもわからないの。使える形で、必要な人のところに届くといいけどね」


 航太は、うなずいた。

 それで、いいと思った。


 美容師さんが、残りの髪を整えてくれた。

耳が出た。首の後ろが、すうすうする。

 

 鏡の中に、耳の出た男の子がいた。三年前の写真の自分に、少し似ていた。


「どう?」


 航太は、頭を左右に振ってみた。

 髪が、揺れない。


「……軽い」


 それから、小さな声で言った。


「ちょっと、さびしい」

「そっか」


 母は、それ以上、何も言わなかった。


 お会計のあと、航太はポケットからリボンを出した。

髪を結ぶものは、もう要らなくなった。

でも、青い布に、銀の星が七つ。


 航太は、リボンを手首に巻いて、蝶結びにした。

裏に貼った小さな切手が、手首の内側で、きらりと光った。




 美容室を出ると、風が吹いた。

 首筋を、冷たい空気が通り抜けた。


「うわ、寒っ」


 航太は肩をすくめた。母が、笑った。

もう、髪は風になびかない。


 けれど、風は、前よりずっとはっきり、肌に触れた。

海の匂いが、少しだけした気がした。

航太は、空を見上げた。


 何も飛んでいなかった。

夕方に向かう青い空が、広がっているだけだった。

手首のリボンの端が、風に、ふわりと揺れた。


――おわり


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