EPISODE 30
「もうそんなもの抱えて。置いて行きなさいよ」
「だって絵美ちゃん、Gaggia Classic は持っていかないと」
「円高なんだからまた買えば良いじゃない。早く逃げないと死んじゃうよ」
無断コーヒーショップの浅野夫妻はエスプレッソマシンをどうするかで揉めていた。家庭用ながらも58mmポルタフィルターと3方弁を備えた名機。価格はそれほどでもない。浅野さんにとっては愛着のあるマシンなのだろう。
手提げ金庫とマシンを両手に抱えた浅野さんが冒険者の奥さんに警棒で小突かれながら走り去るのをカメラがとらえていた。
「使える絵が撮れたね。ここらが引き揚げどきかあ」
清水レポーターは上機嫌に親指を立てて見せた。
「もう本当に置いてきますよ。残りたい人を助ける義務は私にないと思うんですよ」
「わかってるって。ここからアイドル脱出編の撮影なんだから笑っててよ」
笑える状況ではないので笑わない。さっきまでメールの送受信のために銀座に残っていた冒険者の福田さんと研究者の関根さんももう姿が見えないではないか。
「あっちからゴブリンが来てます」
「どっち。ああ数が多い。どうすんの」
峰さんがグロック19を抜くとテレビ屋さんがカメラを向けた。
「二丁拳銃やってよ」
「やりません」
そんなことをしているあいだに大野さんがソフトガンケースからレミントンM870を抜き出す。
「私が撃ちましょうか。まとめて撃退できると思います」
「私がやる。ここで散弾を使うと通路のライトが壊れるかもしれない」
その通路のライトを避けてゴブリンは暗いほうに寄って並んでいる。これなら狙える。狙いを定めて発射すると先頭のゴブリンが倒れた。
「撮ったよ」
無視して次のゴブリンを撃ち倒す。そして3匹目を狙ったとき。
「オークっ」
あいつは拳銃だけじゃ倒せない。
「大野ちゃん、1粒か3粒の弾を装填して」
「ありません」
「じゃあ、逃げろっ」
掛け声に合わせて走り出したのはテレビ屋の清水さんと菊地さんが早かった。
「そっちは階段じゃないっ」
鷲巣さんと小林さんが17Fに到達してダンジョン銀座まで来るとオークがインターネットコーナーの前にたたずんでいた。
「あいつはなんであんなところにいるんだ。あれじゃあメールの邪魔だろう」
「順番待ちしますか」
「倒そう。でもゴブリンが邪魔だ。踏み込めないと危険だ」
手前にいるゴブリンは拳銃で倒せる。倒しても死体が邪魔だ。鷲巣さんの剣技を3度見たら弱点がわかった。この人は途中にすこしでも障害物があると間合いを詰められない。
「じゃあこうしよう」
小林さんは近くのライトを手に取ってスイッチをOFFにした。ゴブリンが反応して小林さんのほうに寄ってくる。
「よし、道が開いた。あとはまかせろ」
鷲巣さんが木刀を大きく振り上げるとオークが釣られて切っ先を見る。
「いえいっ」
6mほどを一瞬で移動して打ち込まれた木刀が眉間に命中してオークが昏倒した。
「鷲巣さん、こいつ死んでない。生け捕りにできるがどうする」
「そんな場合じゃない」
「そうか」
小林さんが至近から射撃してオークにとどめを刺した。そして次の弾丸でゴブリンも撃ち倒した。ライトをONにして戦いが終わった。
Libretto L5 で冒険社のお知らせをチェックした小林さんの表情が曇った。
「犠牲者が出ている。1Fと2Fで新人がやられてる。5Fまではほぼ鎮圧。それから最下層で真田さんが安否不明」
「中層は」
「情報なし」
どうしてこんな事態が起こったのか。兆候はなかったのか。
「あいつが何かしたのかな」
「わからない。まずドラゴンの部屋まで行った目的がわからない。階段を転がり落ちた様子もおかしかった。あれが25Fで何をしたかなんて想像も付かない」
ふたりはトイレをすませて16Fへの階段に向かって歩いた。
19Fをなんなく過ぎて18Fに入った最下層組はゴブリンの死体だらけの通路を見て眉をひそめた。
「先に逃げた連中はずいぶん苦労したようだ」
「おかげで楽に進める。心配なのはすべてが終わったあとで誰がここを片付けるかだ」
伊庭さんは21Fの肥料工場を思い浮かべて嫌な気持ちになった。あそこに死体を積み上げるのは勘弁して欲しい。人手を使って地上に運び出して産廃業者に引き渡すほうがいい。
「こいつらは勝てると思ったのかな」
神谷さんはまだ息のあるゴブリンをジュラルミン棒で打とうとしてやめた。
「自暴自棄ってやつじゃないの。それか自己犠牲」
「人間じゃあるまいし」
橋下さんと向井さんは疲れ切っていて難しいことを考えられない。動物にも自己犠牲の精神はあるのだろうか。しかも集団でだ。
「人間は自己犠牲を選ぶことがある」
「真田さんか」
21Fで囲みを破ったあと追ってくるゴブリンをひとりで食い止めて皆を逃がしてくれた。俺にまかせて先に行けなんてセリフはなかなか言えるもんじゃない。
「俺はあの人を忘れない。本当に立派な人だった」
「そうだな」
新井さんは先輩冒険者たちの後を棒を持ってとぼとぼと歩いていた。
用を足しに行って20F基地に戻ってきた川崎さんは自分が取り残されたことに気が付いた。支部に助けを求めるメールを送ってみたが返事はなかなか来なかった。
ばたんっ
扉が開いて血だらけの男が入ってきたとき、助けが来たと一瞬でも喜んでしまったことを川崎さんは恥じた。助けが必要なのはこの人のほうだ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです」
男は仮眠スペースにそのまま横たわった。
「血を拭いて消毒しましょう。針も必要ですね」
「ありがとう。支部に真田が生きているとだけ伝えてください」
彼はそのまま眠ってしまった。川崎さんは泣きそうになりながら手を動かし続けた。
遅々とした歩みにも不平を言わず、星野は測量社の一行を導いていた。
「やっと18Fに到達しました。樋口さんの具合はどうですか」
「熱はありません。足もすこしは楽になった気がします」
痛めた足が歩き続けて楽になるはずがない。脳内物質が出ているのだ。
「状況がまったくわかりません。急いだほうが良いと思います」
「目の前の状況は大変なことになっていますね」
「死体に足を取られないように。転ばないように。戦場では死体は重大な障害物です。私も経験はしていませんが戦訓を読んでいます」
乾いた笑いが広がった。冗談のつもりではなかったが泣くより笑ったほうがいい。
「星野さん、測量はどうなるのでしょうね」
「契約ではどうなっていますか」
「契約では日程の変更時は話し合うということになっています。もともと同じ会社同士なのでアバウトなところがあるんです」
話し合ったらきっと仕切り直しになるだろう。何もないところからゴブリンが湧いてくるはずはない。地図にもダンジョンにも穴があるのだ。
「会社同士のことは私にはよくわかりません。でも仕事中に遭難した人は補償を受けられるんじゃないですか」
「この怪我も労災になるのかな」
「17Fですこしだけ休みましょう。あそこではネットが使えるのでInfoseekで労災について検索してみたらいいですよ」
銀座にはオークの死体があった。前に遭遇した個体より大きい。
「眉間に銃弾を打ち込んで倒していますね。これを撃った人はすごい腕前だ」
「そうですね。至近距離から一発で殺しているようです。私にはそんな危険な真似はできません。それより水とトイレを順番にすませてください。ここを出たら15Fまで休まずに上がります」
野口さんと樋口さんが先に行っているあいだに情報を確認する。真田さんが生存の見込み。良かった。
「永井さんのほうはどうです。会社から何か言って来てますか」
「それが何も。冒険社の指示に従えとしか書いてないです。野口さんは家族に連絡したいでしょうね。会社に送ったら伝えてもらえますかね」
「それくらいはしてくれるでしょう」
家族への連絡。いくら考えても文面がまとまらない。息子を頼むでは遺言みたいだし。心配するなは無責任だ。星野は迷いながら、あんかけ豆腐が食べたいと書いて送ってしまった。妻は困惑するだろう。




