ひとり
夕方、帰ってきた僕はため息をついていた。
夕食の献立が思い浮かばない。
野菜はある。サラダは出せる。
メインは……どうしよう。
……どうしよう、と考えた後も、思考がなかなか働いてくれない。
冷凍庫をのぞき込んで、ふと見えたものを取り上げる。忙しい時のためにと買い置きしていた冷凍食品の水餃子があった。
お湯を沸かして規定時間ゆでるだけ。食材を組み合わせて考えるより、ずっと楽な気がする。
サラダに、水餃子、それに味噌汁。僕はため息をもう一度ついて、動き出す。
今日はなんだか体が重い。寝不足もあるだろうか。
義兄には申し訳ないけれど、今日は少し楽をさせてもらうようにしよう。
鍋に水を張って火にかける。味噌汁……だしをとる必要があるか。いや、たしか即席の味噌汁もあったはず。
そうやって準備を終えた僕は、食卓に料理を並べていった。
「お待たせしました義兄さん、夕飯、準備できましたよ」
「お、待ってました! ありがとねはるちゃん」
そういって、席に着いた義兄が、怪訝そうに首をかしげる。
「あれ、珍しいね。はるちゃんお疲れ?」
「あ……すみません、ちょっと……献立を考えられなくって」
「仕方ないよ。今日は外に取材に行って疲れたんでしょう」
「……すみません」
申し訳なくなり目をそらすと、そんなこと気にしないの、と義兄が笑った。
「俺なんて料理すらしないんだから。作ってもらえるだけありがたいよ」
「……でも」
「いいじゃない! 今日水餃子? こんなの、普通に作ったんじゃめったに食べらんないよ」
義兄はいただきます、と手を合わせて、水餃子をポン酢につけて食べる。
「旨いよ。はるちゃんも食べてみな? 最近の冷食ってこんなに旨いんだねぇ」
意識して明るくふるまってくれているのだろう、義兄のやさしさが逆に申し訳ない。
僕がいる間は、できるだけしっかりしたものを作りたいのに。どうして今日はこんなに、疲れてしまっているんだろう。
僕はため息を気づかれないように吐いてから、手元の味噌汁をすすった。
いつもと違う味が、なんとなく落ち着かなかった。
◆ ◆ ◆
——音が、聞こえる。
岩がきしむような、擦れるような音。
その向こうから、声がする。
やさしい、穏やかな声。
聞いているだけで、まるで、すべての疲れが癒えていくような気がした。
まるで、すべての憂いが消えていくような気がした。
そのまま、あの音のほうへ行ってみれば、もっと楽になれるだろうか。
もっと、穏やかにいられるだろうか。
いつからか、自分の言いたいことに蓋をするようになった。
いつからか、自分の思いを胸に秘めるようになった。
それが悪いことなのかどうかはわからない。けれど、重い疲れと憂いは日に日に強くなっていった。
重い体はどんどん動かなくなっていく。
重い心はどんどん平らになっていく。
……でも。
あの音を聞いてから、少しずつ、少しずつ、その憂いが、疲れが、薄皮を一枚ずつはがすように消えていっている。
義兄はあの音をひどく警戒しているようだけれど、僕にはそんな心配は必要ないように思えた。
今も、あの音がする。
あの音が、僕を呼んでいる気がする。
——そうだ。いったい何をためらっていたんだろう。
行かなくちゃ。呼ばれているんだ。行かなくちゃ。
ああ、音がする。
優しい、音がする。
呼ばれてる。そうだ、約束があったんだっけ。
行かなくちゃ。
——義兄さんは?
ふと、義兄の笑顔が脳裏によみがえった。
そうだ。僕は義兄さんに何も言ってない。
料理だって、洗濯だって、やり方を何も伝えてない。
そもそも、あの人は独りで——。
……大丈夫。
誰かがそう言った気がした。
…………。
そう、そうだよね。
大丈夫。義兄さんは大丈夫。
あの人は一人で、生きていける人だから。
それより僕は。
僕は、笑っていなくちゃ。
呼ばれているその場所は、わらって、わらっていく場所だから。
笑おう。
笑っていこう。
もうこの世界に、何も苦痛なんてない。
何の憂いも、何の疲れも、必要ない。
待ってる。
行かなくちゃ。
笑って。
「……はーるちゃん」
突然、腕をつかまれた。
ふと目をあげれば、目の前には玄関の扉。
鍵を開けて、今まさに、僕は外に出ようとしていた。
そうだ、だって行かなくちゃいけないから。
「こんな夜更けに、誰かと約束でもしたの?」
……だれ。
だれ、だっけ。
でも、呼ばれたんだ。呼ばれて、行かなくちゃ、いけなくて。
「どこに?」
どこに……どこに、だろう。
僕は初めて、僕の腕をつかんでいるひとを、……義兄を、振り返った。
「だれかに、よばれた……呼ばれた、きがして」
「うん」
「すごく、あったかい気持ちに、なって」
「そうか」
「……あれ」
言葉にすればするほど、今まではっきりとしていたものが、どんどん霧に飲まれていく。
僕は誰に呼ばれていたんだろう。
僕はどこに行かなければならなかったんだっけ。
急速に不安が胸を押しつぶしていく。
途方もなく大きな闇が、地面をふいに消してしまったような。
「……ぼく、どこに行こうと、してたん……でしょう」
義兄は小さく息を吸ったけれど、何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと頭を抱き寄せるようにして、視線が遮られた。
「……こんな時間にいったら、先方にもご迷惑がかかるよ」
「こんな、時間」
「いまね、夜中の二時」
……そんな時間。確かに、確かにそうかも、しれない。
「だから、行くなら明日の朝、もう日付変わってるから今日か。今日、日が昇ってから改めて行こうよ」
「……そう、ですね」
「さあ、じゃあもう寝よう。部屋まで送っていくから」
「……ああ、はい。おやすみなさい」
納得したのか、と言われれば、そうではないかもしれない。
というか、義兄に言われた言葉をそのまま繰り返すことしか、僕はできなかった。
義兄に連れられて歩きながら、もう一度振り返る。
玄関の向こうにあたたかな気配がまだ残っているような気がしたけれど、ぐ、とつかまれた手が痛いほど引っ張られて、そのまま玄関から一瞬意識が離れ——。
もう一度振り返ったときには、玄関の向こうの気配は感じられなくなっていた。
◆ ◆ ◆
——翌朝。
「……おはようごさいます、義兄さん」
「おはようはるちゃん」
昨日の夜中、僕はどうやら変なことをしたらしい。
ほとんど覚えていない。けれど、とてつもない不安と、やさしい声と、穏やかな夢。それだけは何となく覚えていた。優しい声が何と言っていたのか、それは思い出せないけれど。
ただ、その夢のせいで義兄に迷惑をかけたのは何となく覚えていた。だから、朝の挨拶がとてつもなく気まずい。
「はるちゃん、今日俺朝ごはんに卵焼き食べたい。はるちゃんの卵焼き」
しかし僕の気まずい思いを気にも留めていないのか、義兄はにこにこ笑いながら僕に要求してくる。
「卵焼きですか?」
「そうそう。卵焼き。甘いやつ」
「甘い卵焼き、きっとトーストに合いませんよ」
「いいのいいの。今日のメインは卵焼き」
義兄は節をつけて卵焼き、たまごやきと歌っている。僕は何となくおかしくなって笑いだした。
「義兄さんったら、まるで子どもみたいなこと言いますね」
「何言ってんの。俺ははるちゃんの愛しい愛しいお兄ちゃんだよ?」
頬杖をついて微笑んでいる義兄に、僕は笑い半分、呆れ半分で肩をすくめる。
「誰がお兄ちゃんですか」
「俺。で。はるちゃんは俺のかわいいかわいい弟」
「誰がかわいい弟ですか」
言いながら、僕は冷蔵庫を開けて卵を取り出す。醤油と砂糖で味付けをして、油を温め、フライパンに溶き卵を注ぎ入れる。
じゅう、と高い音がして、ふと、ひどく軽かった肩に重みが乗ったような気がした。
いやな重みではない。なんだか、「ここにいなさい」と言われているような、そんな。
両肩に手を置かれたような、そんなぬくもりのある重みのような気がした。
ダイニングに座る義兄の鼻歌と、卵が焼けていく音。
静かな部屋の中に、2つが静かに響いていた。




