全ての絶望を捨てよ
「あの学校に置かれていた、ロダンの『考える人』だけどね」
朝食を終えた後、静かに、義兄は話し出した。
「もともとは、単体の作品ではなかったことは知っているね?」
「はい」
僕は、食後の紅茶を差し出しながらうなずく。砂糖は3本、それにミルク。
「オーギュスト・ロダンの『考える人』は、もともと別の作品の一部だった、って話ですよね。かなり大きな作品の一部で、そこから単体で作り直された、という」
「そう。ロダンはもともとフランスの装飾美術館の門扉としてこの作品のオーダーを受けた。最終的に依頼は立ち消えとなったものの、彼は37年にもわたってライフワークのようにこの門の装飾に手を入れ続けた。その門扉の最上部にあったのが、『Le Poète』——当初は『詩人』と呼ばれていた『考える人』さ」
「……門扉」
あの、岩がきしむような、擦れるような音を思い出す。あれは、門が開く音だったのだろうか。
「その、門、っていうのは」
「この門の名称は『地獄の門』。ダンテ・アリギエーリが完成させた長編叙事詩『神曲』、その『地獄篇』に登場する、地獄の門をモデルとした門だ。『考える人』はその最上部に、地獄へ落ちていく人々の阿鼻叫喚の様子を見下ろす『詩人』として設置されていた」
地獄の、門……。
「もしかして」
「これは推測だけど、はるちゃんが聞いたのは『門が開いた音』だったんじゃないかな。『考える人』の足元にある門と言えば『地獄の門』だ。それが本当に『地獄』に続いているかはともかくとして、人間に悪影響を及ぼす何かがそこにあった、ということなんだろうね」
「神隠しも、笑い自殺事件も、その『門』が開いてしまったことが原因で……?」
「おそらく、ね」
義兄は指を組んで宙をにらむ。
「——『Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate.』ダンテの『神曲』の中で、地獄の門に書かれていたとされる言葉だ」
「……『その門をくぐる者、全ての希望を捨てよ』……ですね」
そう、とうなずいた義兄は、静かに目を伏せる。
「はるちゃん、君は自覚がないだろうけれど、君はずいぶんおかしな言動をしていたんだよ」
「変な言動、ですか?」
「そうだよ。テレビの前で誰かと話してたり。ぼんやりしながら玄関を外に出て行こうとするとか」
言われて、昨夜の僕を思い出す。よく覚えていないが、その時のことだろうか。
「ほかにも、れおなさん——君のお姉さんの指輪の件ね。俺も知らなかったし、もちろん君も知らなかったはずだろう」
「……それは……」
言われてみれば、確かにそうだった。
義兄に言われなければ、姉の指輪が大事な婚約指輪と結婚指輪だとは知らなかったし、そもそも姉が事故で亡くなったとき、それを外して外出していたということも知らなかった。
けれど、僕はなぜか知っていた。その大事な指輪が、「鏡台の引き出し」にしまわれていることを。
「…………」
すうっと、足元が冷えていく心地がした。
一体僕は、誰に、そのことを「教えてもらった」んだろう……。
黙ってしまった僕を見つめ、義兄はふっと息をついた。
「俺はずっと思ってきた。君はずっと、どこかふわふわしてた。今にすべて捨てて、どこかへ行ってしまうかもしれないってね」
「……義兄さん」
「だから言っただろ、『希望を捨てるな』って」
僕は、黙って下を向いた。そんな僕の頭を、腕を伸ばす気配がして、義兄がくしゃっとなでた。
「君が『生きたい』って言わなくちゃダメなんだ。君が『死にたくない』って願わなくちゃ意味がないんだよ」
「僕は……」
「俺は君がいないと何もできないから。君がいてくれなくちゃ何もかもダメになっちゃうから。だから希望は捨てないで。どんな怪異に、何を言われたとしても、それだけは絶対に忘れないで」
僕は何も答えられなかった。
義兄は、「希望を捨ててはいけない」という。
それは、ダンテが見たという「地獄の門」に「この門をくぐる者、全ての希望を捨てよ」とあったからだろう。
でも多分——義兄が想像した、そしてダンテが見たという「地獄の門」と、僕が開くの音を聞いた「地獄の門」とは、すこし、違う気がする。
あの門は——「絶望を捨てさせる」門だ。
あっちには、苦しいことなんて何もない、と。
何一つ気に病むことなんてないと。
今の僕なら、理解できる。
なぜ、あの門をくぐっていった人たちは、みんな笑っていたのか。
だから、もし——もし次に、またあの音が聞こえてきたら、僕は……。
「……義兄さん、ちょっと早いですけどお昼、どうします?」
「そばがいい! 越前そばみたいにさ、大根おろしと、鰹節と、七味かけて食べるんだ」
「……とんでもなく手間がかかりますね」
「俺も手伝うよ」
——僕は、抗えないかも、しれない。
◆ ◆ ◆
その夜、僕は夢を見た。
……音が、聞こえる。
岩がきしむような、擦れるような音。
その向こうから、やさしい声が聞こえる。
温かい、穏やかな声。
目の前には、黒い巨大な門があった。
見上げれば、頬杖をついて、僕をじっと見守る男の像がある。
門はほんの少し、開いていた。
声はその向こうから聞こえてきた。
ああ、あの声だ。
優しいその声。呼んでる。行かなくちゃ。
笑って、わらって、わらって——。
——違うでしょ、ハル——
その声は、門とは別のほうから聞こえた。
その呼び方は、もう聞けないはずの……。
——あなたの帰る方向は、そっちじゃないでしょ?——
振り返ろうとして、でも、できなかった。ひどく懐かしくて、でも、もう、遠くなってしまったはずの声で。
鼻がつんとして、目の奥が熱くなる。
背後の声は行くなという。
わかっている。あの門をくぐればどうなるのか。
けれど、その門の声はあまりにも魅力的で、やさしくて。
「……今はそうでもない、そうでもないと思ってたん、だけどさ」
——うん——
「ほんとのこと言うと、今でも少し、重いんだよ」
——知ってるわ。あなたってそういう子だもの——
じわり、と目の前の門が歪む。
子ってなんだよ、と言い返そうとして、でも、むりだった。一言でもしゃべったら、ぼろぼろと涙があふれそうだった。
——でもね、さっちゃんも同じなの。あなたと同じで、一人じゃ生きられないタイプの人なの——
その「さっちゃん」が誰なのか、僕は聞かなくてもなんとなくわかった。あの、ひょろりと細長い体躯の背中を思い出した。
——できるだけ、さっちゃんのそばにいてあげて。お願いね——
うなずいたら、夢が終わってしまう。そんな気がして、僕はちょっとわがままを言うことにした。
「……振り返っていい?」
——泣き虫な弟に見せる顔はありません——
おどけた声で即答されて、肩をすくめる。
ああ、振り返ったって振り返らなくたって、うなずいたってうなずかなくたって、ここで夢は終わるんだ。そう思った。
「……なんだよ、泣き虫って」
まあ、否定はしないけどさ。
その言葉は、恥ずかしくて胸の中にしまっておいた。
◆ ◆ ◆
アラームの音で目が覚めた。
重たい体をゆっくり起こして、目じりにたまった涙を手の甲で拭く。
温かい夢を、見ていた。
でも、とても寂しい夢だった。
ふと傍らを見れば、義兄が床で寝ていた。
正確に言えば、床に座り込んで、僕のベッドに頭を預けて眠っていた。
どうやら僕が夜中抜け出してどこかへ行かないように、見張っているつもりだったらしい。
——できるだけ、さっちゃんのそばにいてあげて。お願いね——
夢の中で聞こえたその声が指し示していた人。それが誰のことなのか、義兄の寝顔を見て僕ははっきり理解した。
「……義兄さん、こんなとこでよく寝られますね」
肩を揺らして起こすと、目をこすった義兄はステッキみたいにひょろっと細長い体を思い切り伸ばし、それからへらりと笑って見せた。
「やあはるちゃん、おはよう」
「おはようございます、と挨拶をする前にいろいろ言いたいことがあります」
「何かな」
「とりあえず僕の部屋に忍び込んで寝顔をのぞき見しつつ床で寝るそのスタイルやめにしませんか」
「おっ、その生きのいい文句久し振りに出たね」
なんだその「生きのいい文句」って。
僕はため息をついて、それから苦笑した。
「……姉さんが、夢に出てきて」
義兄はピクリと肩を震わせたが、それだけだった。
「『さっちゃんのそばにいてあげて』って」
「……さっちゃん」
「義兄さん、姉に『さっちゃん』って呼ばれてたんですか」
義兄は大きく目をみはっていたけれど、やがてくすくすと笑いだし、それから長い指を唇に当てた。
「……なーいしょ」
「…………」
「さ、早く起きたんだし、早く朝ごはんにしよう。今日もはるちゃんの卵焼きがいいなー」
「そんな、毎日食べるようなもんじゃないでしょ」
立ち上がって身をひるがえす義兄。見送った僕は、息をついてベッドから起き上がると、カーテンを開けた。
朝の光を浴びて、深呼吸。
姉には悪いけれど、もしもう一度あの音がしたら、僕もどうなるかわからない。
けれど、さかえ義兄さんがああして僕をこの世界につなぎとめていてくれることは、わかっている。
だから僕は。
……僕は、今のところ、あの門をくぐるためにすべての絶望を捨てることは、できそうにない。




