記録と記憶
「はいはるちゃん朝でーす起きてくださーい!」
「えっ……うわっ」
翌朝、僕は義兄の明るすぎる大声で目を覚ました。
というか、決められた時間にセットしたアラームで起きたはずが、アラームを止めた後起き上がれなくてそのまま二度寝してしまったようだ。
おかしい。こんなこと最近なくなってきたのに。昨日眠れなかったのが原因だろうか。
「す、すみません義兄さん、寝過ごしてしまいました」
「いいんだいいんだ、うんうん、俺はかわいい弟のかわいい寝顔を見られて朝からとても役得だなって思ってる」
「それは忘れてください」
恥ずかしい。寝顔を誰かに見られるなんて何年ぶりだ。
僕は爆発しそうな顔面を両手で押さえながらため息をついた。
「じゃあ、着替えて下りといで。今日くらい朝のコーヒーはお兄様が淹れてしんぜよう」
「ありがとうございます」
出ていく義兄を見送って、思わずふきだした。
義兄の淹れてくれるコーヒーは、「あたり」の日は絶品だが、「はずれ」の日はひどい味になる。そのことを思い出したのだ。
久しぶりにそんなギャンブルみたいな一杯を飲むことになるのか。
「……まあ、いいか。今日くらい」
小さな声でつぶやいて、僕はベッドを降り、クロゼットから着替えを取り出した。
着替えて下りていくと、ちょうどコーヒーが出来上がったところのようだ。
「…………」
僕の方を一瞬見て、義兄がさりげなく目をそらしたところからすると、今日は「はずれ」の日らしい。
「オレンジジュースと牛乳も出しておきますね」
「……うん、ありがとう」
「そうだ、オレンジジュース最近高いですから、今後はリンゴジュースとか別のフルーツジュース買った方がいいかもしれませんよ」
「うん、お任せするよ」
昨日もそうだったが、義兄は僕が「あとのこと」を話そうとすると「そこは任せる」とか「はるちゃんが後々やりやすいように」とか、僕に全部投げてくることが増えた気がする。
いやではない。いやではないけれど……すこし、困る。
だって、僕はもしかしたら。
「はるちゃんトースト焦げそう」
「何分焼くつもりだったんですか!」
トースターから香ばしいを通り越したにおいがし始めて、僕は慌てて義兄のほうへ駆け寄った。
……結局焼きすぎたトーストと「はずれ」のコーヒー、そしてレタスのサラダと僕が作ったスクランブルエッグというラインナップの朝食を並べ終えたのは、いつもの朝食の時間をだいぶ過ぎてからだった。
「やっぱ俺、はるちゃんいないと何にもできそうにない」
胸を張って義兄が言うので、ため息をついて「冷蔵庫にレシピでも貼っておきますか?」と問いかける。
「レシピ通りできるなら、俺こんなことになってないよ」
「……義兄さん自炊できる人でしたよね。もともと一人暮らしでしたもんね?」
「一人暮らしできるってことと、一人で生き延びられるってことは違うんだよ、はるちゃん」
「……意味わかりませんけど」
「洗濯はコインランドリーで何とかなる。食事は菓子パンでどうにかなる」
「……その生活に戻るのだけはやめてくださいね?」
「そこははるちゃん次第だよ」
まただ。ため息をついて僕は焦げた食パンをかじった。バリっと音がした。
「で、今日の予定は?」
問いかけられて、考える。
遼子さんには「足で情報を稼げ」と言われた。今日はそのつもりで、図書館に美術史を調べに行くつもりだった。それからもう一度、新聞の縮刷版を読んで行方不明事件の状況を洗いなおす。
「今日は図書館に調べ物を」
「そうか。じゃあ俺も一緒に行こうかな」
「えっ」
驚いて顔を上げると、苦そうに舌を出しながらコーヒーを飲んでいた義兄と目が合う。
「何驚いた顔をしてんの? 二人で調べた方が早く済むじゃん?」
「そうですけど……」
「きまり。じゃあ一緒に行こう」
僕は釈然としないままうなずいて、ミルクを入れてもなお色が黒いコーヒーを口に含み……思い切りむせた。
◆ ◆ ◆
近くの図書館で新聞の縮刷版を読む。メモで掲載日時は控えてあるけれど、紙媒体の縮刷版はページをめくって調べるしかない。データ化してくれればいいのに、と思いつつも、ぼやいても仕方ないと気合を入れなおす。
隣では、頬杖を突きながら美術史の本をめくる義兄の姿。こういうやる気のなさそうな態度をとりつつも、きちんと調べるところは調べているのだから、つくづく僕とはスペックが違うんだなと思う。
それはともかく。
神隠し。その言葉は6件の行方不明事件の中で何度か登場した。現地の住民の言葉として。あるいは記者の個人的な感触として。
問題なのは子どもたちが、「神隠し」と言いたくなるほど唐突にいなくなったことだ。
いなくなったタイミングはほとんどが夕方。ある子は学校の帰り道に、ある子は帰ってから友だちと遊びに行ってそのまま。
本当に、いなくなる前に特に変わった様子もなく、ある日突然ふいといなくなって、そしていまだ、誰も見つかっていない。
別の記事を探そうとして、ふと手が止まった。
なぜか、2年前の縮刷版を持ってきていたようだ。
何の気はなしに、ぺらぺらとめくる。そして——手が止まった。
《交差点でひき逃げ 犯人逃走中》
「○月○日午後6時頃、A県B市の交差点で自動車が横断中の歩行者と接触する事故が発生した。はねられたのはB市在住の烏丸れおなさん(30)。烏丸さんは病院に運ばれたものの、搬送先で死亡が確認された。犯人は現在逃走中とみられ、警察はひき逃げ事件として捜査を進めている」
……姉れおなの、死亡記事だった。
小さな記事に小さな姉の写真が無表情に僕を見返している。
僕はじっと、その小さな写真を見つめていた。
年が結構離れていたこともあり、僕は姉にかわいがられていた方だと思う。働いている母の代わりに面倒を見てくれ、家事を教えてくれた。姉が結婚すると知ったときには少なからず衝撃を受けたし、その相手であるさかえ義兄さんには最初のうち警戒心をあらわにしていたっけ。
今はそこまでの警戒はしていないけれど、時々この人が分からなくなる時はいまだにある。
姉が死んだとわかった日からしばらく。義兄は、泣くことすらできず遺影を抱きしめていた。
何か少しでも口に入れて欲しい。そう思って作った卵焼きは多分、姉の作ったそれほど美味しいものではなかったと思う。
でも、食べてくれた。
あの時僕は、——僕はどう思ったんだっけ。
この人には一人で生きていく力が——。
「……はるちゃん」
後ろから伸びた手が、パタンとページを閉じた。
それが僕を思考の海から引っ張り上げる。
「……義兄さん」
「調べ物、もう終わった感じ?」
「え、……ああ、はい」
すみませんとも、見たんですかともいえなかった。
見上げた先の義兄の表情はよく見えない。僕は視線を戻し、縮刷版の表紙を見つめる。その肩をポンと叩かれて、頭をクシャリと撫でられる。
「じゃあ、お昼ご飯たべ行こうよ。俺お腹減っちゃった」
「もうそんな時間ですか」
「うん、そろそろね」
手元のスマホを覗き込めば、12時を少し回ったところだ。僕は頭に乗せられたままの手を静かに外して立ち上がった。
「じゃあ、どこに食べに行きます?」
「たまにはジャンクなの行こうよ。コーラにぃ、ハンバーガーにぃ、ポテトフライにぃ」
「どこかにあったかな」
僕はファストフード店を検索しながら、傍らに置いていた資料をまとめにかかった。




