砂糖とミルクと
帰ってきた僕は、ずっと難しい顔をしている義兄をしり目に紅茶を淹れる。手を動かしながらも、今日出会った遼子さんの言葉が耳から離れなかった。
「……『そんな腑抜けた顔をしてると、れおなに笑われるわよ』……か」
そんなにぼんやりして見えただろうか。ただ、記事を書くのはともかく、義兄の言ったような「危険」が僕の身に迫っているというのも、あまり実感はない。まあ確かに、あの音を聞いていると思われる人が軒並み笑いながら自死しているというのを考えれば、僕自身も同じ条件にいるわけだし、義兄が心配するのも無理はないとは思うけど。
ああそうだ、そうなる前にこれまで集めた本を処分しておかないと。義兄の書斎として使っている部屋ほどじゃないけれど、僕もこの家に来て結構資料や本を集めた。
でももう使わないだろうし、義兄もいらないだろうし。
そうか。その辺も、義兄と話をしておかないといけないのか。
やることいっぱいだな、と考えながらも、実際に動く気力はなく、淹れた紅茶を義兄のもとへもっていく。
「さかえ義兄さん、お茶入りましたよ」
「あ……うん、ありがとうはるちゃん」
紅茶を置いて、それから何かを忘れている気がして考える。ああ、そうだお茶請けもいるか。何かあったっけ。
「はるちゃん……ごめん、砂糖とミルクどこ?」
申し訳なさそうな義兄の声に、忘れ物の正体がようやくわかった。お茶請けはもちろんだけど、もっと根本的な。
そうだ。義兄はいつも砂糖とミルクを目いっぱい入れて飲む。なんで動けなかったんだろう。
「あ、すいません、何本でしたっけ」
「3本……あーでも、今日は4本」
「わかりました」
キッチンに行って、ミルクを用意。ついでにお茶請けのクッキーをさらにあけ、スティックシュガーを言われた数だけ持っていく。手を伸ばしている義兄に手渡すと、3本だけ受け取った彼は4本目を僕に差し出してきた。
「最後の1本ははるちゃんの分」
「僕は砂糖入れませんよ?」
「今日は入れておきな。疲れてるときは糖分が一番」
問答無用、とばかりに僕のカップに白い砂糖が流し込まれた。
先ほどの砂糖やお茶請け忘れもあって、申し訳ない気もしてきた僕は、気まずい顔で義兄をうかがう。
「……疲れてるように見えます?」
「心ここにあらずって感じがする」
そういって義兄は僕の顔をのぞき込んできた。
「はるちゃん、『希望を捨てちゃダメ』だよ」
「……どういうことですか」
「それを俺が教えちゃったら、遼子さんの『自分の足で情報を稼げ』を守れないでしょ」
「義兄さんは、僕の置かれた状況をわかってるんですか」
「おおよそは。ただ……これは、最後には君が選んで、君が決断できなければ、俺は何もできないから」
ひどく悔しそうに、義兄はそう呟く。
「……義兄さん?」
「——遼子さん、どうだった? 強烈だったでしょ」
意図的に、だろう。義兄は話を切り替えた。僕は釈然としないものを感じつつも、話を合わせることにする。
「強烈、というか、生粋の仕事人で、記者……そんな人だと思いました」
「よく見てる。彼女もともと社会部の記者でね、昔は深夜や早朝に記者が関係者のところに奇襲みたいに突撃して話を聞こうとするってのがあったんだ。彼女は特に夜の奇襲、いわゆる『夜討ち』が常套手段でね。夜帰宅時にどこからともなくやってきて、質問に答えるまで家に入れてもらえないもんだから、偉い人が『是非もなし』って情報をくれる。そこからついたあだ名が『夜討ちのお遼』」
まるで本能寺の変だ。いや、遼子さんは3日で打ち取られるようなまねはしないだろうけど。
「まあでも、そんな人だからこそ『足で稼ぎな』って言われたときは反論なんか考えもつかなかったでしょ」
「ネットじゃ得られない生の情報を、受け取った直後ですしね」
メモを確認しながら、紅茶を飲む。いつもより甘くなった紅茶はなれなかったけれど、義兄からの厚意として受け取っておいた。
◆ ◆ ◆
夜半。
僕は眠れないまま何度も何度も寝返りを打っていた。
おかしいな、導眠剤はしっかり飲んだはずなのに。
最初新卒で入った会社で、人間関係に疲れ、退職を余儀なくされた僕は、今でも定期的に心療内科に通っている。まずはしっかり睡眠をとるようにと言われ手処方された導眠剤は、僕にとってお守りみたいなものだ。
けれど今日は、妙に目がさえて眠れない。
いつも通り、歯を磨いた後は何も口に入れず導眠剤だけ飲んで寝たはずだ。
体温でぬるくなったシーツに不快感すら覚え始め、僕は仕方なしに起き上がった。仕方ない、水でも飲んでこよう。
2階にある部屋を抜け出して階段を降りる。リビングからキッチンに入り、シンクに置きっぱなしにしていたコップに水をくんで一気にあおった。コップを軽くすすいでシンクに戻し、けれどそのままベッドに戻る気にもなれず、仕方なくテレビの前に置かれたソファに落ち着く。
ふう、とため息をついた。
明日は早めに起きて、図書館で美術史について調べようと思っていた。明日起きられるだろうか。
不安ではあるが、何とか起きるしかない。うん、とうなずき、それから寝る前にスマホで調べたロダンの「考える人」について思い出す。
オーギュスト・ロダンが作った「考える人」はもともと単体の作品ではなく、巨大な作品の一部だったそうだ。
作品が勝手に独り歩きして、作者の思いもしないところで有名になる。
……本人にとってはどんな気持ちだったんだろう。
義兄だったら「そんなもん、本人に聞いてみるしかないよ」とでも言って笑っただろうか。
……そうだ。義兄さん。
僕は、いつまで義兄と一緒にいられるだろう。
あっち側へ義兄は連れていけない。聞いたのは僕だけだから。
でも、そうすると義兄はこっちに独りだ。
大丈夫、だろうか。
大丈夫、と聞こえた気がした。
うん、きっと大丈夫。
義兄さんは独りでだって大丈夫。
僕は呼ばれているから、すぐにでも——。
「——はるちゃん」
背後から聞こえた声に、ゆっくり振り返った。
リビングの、ソファの背もたれに手をついて、義兄がこちらをじっと見つめていた。
「誰と話してたの?」
くしゃり、と髪をなでられて、だれ、と反芻する。
「……誰……って……」
記憶をたどっていった。もちろん、一人で降りてきて、一人で水を飲んで、一人でここに座って……。
「……いえ、独り言言ってたみたいで、すみません、起こしましたか」
「そりゃそーだよ。うとうとーっとした頃に階段下りてく音がして、はるちゃんが部屋にいないんだもん。お兄ちゃんはとても心配しました」
「そ、それは、すみません……」
立ち上がって頭を下げると、暗がりでヘラっと笑った義兄がさあもう寝なさい、と肩を叩いて促してくる。
「俺ちょっと水飲んで部屋戻るから。はるちゃんは先に戻ってて」
「はい、おやすみなさい」
「はーい、お休み」
部屋を出ながら、ふと妙に気になって振り返る。
義兄は厳しい顔で、僕が座っていた隣のほうを見つめ、ゆっくりとその背もたれに触れた。
まるで何かを確認するように。




