第78話 みだしなみ
聞いてしまえば、たかがあと一階層。
だが、知らなければそのたった一階層は永遠にも似た遠さだったろう。
『上杉さん』
「ん?」
『もうずっと黙ったままですよ』
クミンに声をかけられ、俺はようやく自分が息を止めるように黙っていたことを自覚する。
言われてから意識的に、静かに、深呼吸を繰り返した。
胸のドキドキを抑え付けないと、また迂闊な選択をしてしまいそうだ。
たとえば──
『潜り直しますか? 今から』
クミンから提案されて、俺は深呼吸を止めそうになった。
「クミン。何を言って」
『上杉さんの約束は知っています。でも、上杉さんの最優先は、茉莉さんですよね?』
口からは「何を言っているんだ」という言葉が変わらず出てくる。
だけど、冷酷な頭はその言葉で計算を始める。
水は今から補充できる。
ストレージの拡張によって、水に割振れる容量は大きく拡大している。
二週間分の水くらいはたやすく用意できるだろう。
食料は問題だ。
どうあがいても現状では保ってあと一週間がいいところ。
だが、これは俺が人型モンスターを食べることを忌避しているゆえの問題だ。
その心理的な枷を外し、ゴブリン、あるいはゾンビを食べる覚悟を決めれば超えられない問題では無い。
つまり、物資の面では不可能ではない。
ただし、問題は他にもある。
南小のコミュニティは、もう間も無くあの怪物とぶつかる。
そこに俺が参加せず、俺の持ち込む装備もなければ、勝率は下がるだろう。
彼らがどれだけこの一週間で鍛えたか分からないが、地上を捨てて潜り続けた俺とクミンの強化幅に及ぶとは思えない。
つまり俺が参加しなければ。
最悪の場合、と口にしなければならないほど遠い可能性の話ではなく。
南小は怪物の討伐に失敗する、かもしれない。
もちろん、勝つ可能性もあるが、問題はそこではない。
怪物の討伐については、茉莉ちゃんの安全に直結する問題だ。
奴を倒さなければ、家にいる茉莉ちゃんはいつ危険な目に遭うともわからない。
それを何も考えずに、南小に無責任に投げるのは問題だろう。
そして最も大きな理由は。
「……クミン。約束は約束だ。ここで再び潜り始めるのは、人としても問題だ。約束通り、南小との合同作戦に参加する。なにより」
『なにより?』
「俺のせいで、助けられた命が無駄に散ったとしたら、俺が気にする」
『……ふふ、了解です』
クミンの『上杉さんはそう言うと思った』というような含み笑いに、俺は何も返さなかった。
結局のところ、それは俺の心の問題だ。
もしかしたら、ここで彼らを切り捨てて茉莉ちゃんのためにダンジョンに再度潜るのが正解なのかもしれない。
だけど、現時点では分からない正解のために、心に無駄な負債を負うのは俺のキャラじゃない。
いざとなれば、どこかで切り捨てる選択を迫られるかもしれないが、それは今じゃない。
あと、ウサギ肉を確保するためには、南小の無事は重要だしな。
「想定外があって時間を食ってしまったけれど、改めて南小に合流しよう」
俺たちの方針は変わらない。
ただ、そこに明確な指針が加わった。
ホームセンターの怪物を倒し、ホームセンターを解放した暁には、五階層の攻略を目標とする。
そこで、吸血鬼を倒し、茉莉ちゃんを救う薬を手に入れることが、俺たちの一つのゴールだ。
その後のことは、そこに到達してから考えることにしよう。
『上杉様。一つよろしいでしょうか』
「ん? なにかな?」
と、決意も新たに再び地上に戻ろうとしたところで、端末くんがこれまた珍しく自分から声をかけてくる。
『一つ。注意喚起がございます』
「……聞かせてほしい」
端末くんからの勿体つけたような注意に、俺は耳を傾ける。
『現状、上杉様は呪腐魔病のウイルスに連なるものと、唯一直接的な接触をもった人類です。言い換えれば、ウイルスが初めて『個体』として認識した人類である可能性がございます』
「…………」
『もともとウイルスが群知能のような性質を持っていることは把握していましたが、人間との会話を成立させるような進化を遂げているとは考えていませんでした。つまり、彼らが言葉を発したのは、もしかしたら上杉様との交渉がきっかけかもしれません。個体として認識された上杉様を、相手がどのように捉えているのかは現時点で不明ですが、注意だけは、怠らないように』
「……了解」
ウイルスの性質には謎が多い。
しかし、想定外の進化、突然変異が起こることはわかっている。
悪性変異という状態と、なれはてたものたちという実在の存在があるのだから。
もし、奴らが俺個人を認識し、俺個人に接触を図ろうとしたならば、そこに何が現れるかは分からないということ、だろう。
『サービスではないですが、上杉様の利用しているダンジョンの入り口、その周囲を囲む空間の情報を遮断いたしました。これにより、上杉様の気にしてる『夜柳茉莉』の情報が、外のウイルスに漏れることはなくなると考えられます』
「……ありがとう」
『礼を言われるようなことはありません。我々は、決して『夜柳茉莉』の治療をしたわけでも、安全を保障したわけでもないのですから』
ダンジョンは個人を救わない。
誰かを救いたいと願う人間を招きこそするが、助けはしない。
だから、茉莉ちゃんを家の外のウイルスから隠そうとしてくれたこと自体が、異例といえる措置だ。
奴らのネットワークは何も知らないし、それが果たしてどういう意味があるのかもよくはわからないが。
思うことはある。
だが、ダンジョン側ができる最上位の寄り添い方をされている自覚もある。
あとは俺が、ダンジョンの思惑ごと乗り越えて、茉莉ちゃんを救えばいいだけだ。
「それじゃ、今度こそいってくる」
『はい。改めて、お気をつけて。あなたの無事のお帰りを心よりお待ちしています』
「俺の帰るべき家は向こうなんだけどな」
冗談とも本気とも取れない端末くんの言葉に苦笑いを返して、俺は再び自室へと続くゲートをくぐった。
「茉莉ちゃんは異常なし」
戻ってきて早々、茉莉ちゃんの状態を簡易鑑定で測る。
──────
人間・女
状態:呪腐魔病(軽)
──────
これで呪腐魔病の進行状況が変化していたら、俺は自分の喉に忍者刀を衝動的に突き刺していたかもしれない。
変わっていなくてよかった。
「だけど、端末くんの口ぶりから、いつまでも楽観できる状況でもなさそうなんだよな」
ダンジョンは、俺と直接接触したウイルスがいる茉莉ちゃんと、外との繋がりを絶った。
これは言い換えれば、そうしなければなんらかの『事件』が起きていたとダンジョン側が考えたと言っても相違ないはずだ。
わからないだけで、タイムリミットはある。
そのリミットを、俺はきっと縮めてしまった。
代わりに、ゴールも見えた。
あとはそこにがむしゃらに向かうだけだ。
「クミン。改めて、俺は南小へと向かう。ひとまず、留守番をよろしく頼む」
『任されました。どうか道中お気をつけて。もし何かあったら、ためらわずにウチを呼んでくださいね』
クミンとそうやりとりをしたあと、俺はふと思う。
そういえば、もう一週間もちゃんと体を清潔にするということをしていない。
ヒゲも伸び放題だし、頭は三日目をピークにして、もうあまりかゆいとも思わなくなった。
体臭は、自分では気づけない。歯磨きも、ずっとキシリトールガムを合間に噛んでいただけ。
「ていうかさ、クミン。俺ってもしかして、相当体臭やばい?」
『……………………』
クミンは何も言わなかった。
ゾンビよりはマシですよ、とかそういうおべっかもなしだった。
俺は南小へと向かう前に、最低限の身だしなみを整える必要があると確信した。
そうして、トイレと兼用のお風呂に一人で向かい、風呂桶に溜めていた水に手を出す前に蛇口をひねる。
「…………まじかぁ」
そして知った。
もう、この世界では蛇口をひねっても水が出なくなったという事実を。
「ガスも電気も、ちょっとおかしいスピードで止まったとは思っていたけど、ついに水も逝ったか。これはちょっと、計画を改めないといけないか」
水道だけはまともに動いていたのが唯一の救いだったが、ついにそれもなくなった。
これからは道は二つに一つ。
雨水などを集められる装置を急いで作るか。
氷水魔術を習得して水を手に入れられるようにするか。
一応、俺自身に考えはあるのだが、とにかく現状はこの場で水を新たに出せなくなったと言うのだけが事実だ。
仕方なく、風呂桶にたまっている水を使って、ちまちまと体を洗うのがちょっと悲しかった。
クミンさんは、アリさんの体質かモンスターゆえか、全然臭いもしなければ汚れもいつの間にか落ちている。
ちょっと羨ましい。
そう思うくらい、めちゃくちゃ汚れが落ちた。
「クミンさん。今度の俺はどうでしょうか?」
『問題ないかと。さっきまではゾンビやゴブリンよりはマシってくらいでしたし』
「クミンが忖度しないアリさんでよかったよ」
クミンのお墨付きももらって、俺はほっと胸をなでおろした。
そうして、久しぶりに綺麗さっぱりとして、下着だけは綺麗なものに取り替えてから俺は改めて南小へと向かうのだった。
洗濯は、とりあえず余裕ができたらするよ。うん。




