第36話 北か南か
「はぁーすっきりした」
一通り、想定しうる状況を考えて落ち込んでいた俺だが、出すものを出したらひとまずすっきりした。
ダンジョンの中では、第二階層のなんでもない行き止まりを一つ、トイレ代わりにしていたのだが、心理的にはちょっと嫌だったから。
1日も経たずに綺麗になるので衛生面では大丈夫そうだったんだけどね。
そういえば、ゾンビは排泄をしない。
茉莉ちゃんの下の世話とかの必要性も少し考えて居たが、俺の布団もまた綺麗なままだった。
だが、そうなると死体に噛み付いて食らって居たあのゾンビはなんだったのだろう。
分からない。ゾンビの生態は謎のままだ。
水道はまだ生きているようだったので、俺は少しだけお湯を作って体を拭く。
こんなことにCPを使うのかと思うところもあるが、コンロくらいの魔法ならCP1~2程度なので妥協しよう。
最低限清潔にしておくのは、万が一生存者と出会った時の第一印象のため。
ゾンビ臭が染み付いた小汚い男と、多少薄汚れた程度の男なら後者の方が友好的に接してもらえるだろう。
本当に生存者に出会えるかは知らないが。
「問題は、どこに向かうかだな」
外に出て食料調達に向かうとは決めたが、その行き先はまだ決めていない。
とるべき選択肢としては、いくつかある。
一つは、近隣のご家庭に入って家探し。
一つは、ここから最も近いコンビニにひとまず向かってみる。
そして一つは、俺が何度も利用していたホームセンターに向かってみる。
最初の一つは、流石に問題だろう。
目的地がとにかく近く、ゾンビ遭遇率が低いのは利点だが。
ご家庭の備蓄がどれくらいなのか分からない、という問題がまずある。
ご家庭に鍵がかかっている場合、侵入に手間がかかる問題もある。
それに、どのくらいの住人が無事なのかは知らないが、知らないからこそ、まだまだ無事な住民が家に戻ってくる可能性だってある。
緊急時だから仕方ないという言葉で、ご家庭を荒らす判断をするのはあまりにも時期が早い。
この選択肢は、もし生存者コミュニティと接触できたときに、近所の人間と知り合えたら合法的に選択したいところだ。
次のコンビニは、まぁ、妥協案か。
流石に電気が止まったこの状況で営業はしてないと思うので正当な取引はできないが、仮にそこから何かを奪ったとしても後で詫びに行く先がわかりやすいのは良い。
明確に人の家に押し入るよりも心理的負担が少ない。
もちろん、根が小心者な俺は『火事場泥棒』と思うと気が滅入るのだが。
……緊急避難という言葉も、流石に虚しいしな。
問題は、目的としている食料がまだ残っているか、残っていたとして必要な量が手に入るかといったところ。
ダンジョン騒ぎで保存食は品薄ムードだったので、コンビニだと少々心許ない。
最後のホームセンターは、可能なら第一候補に挙げたい。
こちらもコンビニとほぼ同じ理由で心理的負担が少ないのが一つ。
もう一つは、食料以外に、今使っている武器や資材の補充、それに今後必要になりそうな物資の確認などが行えること。
また、ダンジョン騒ぎで品薄だった保存食も、流石にコンビニよりは量が期待できる。
問題は、単純にコンビニよりも遠いこと。
外の状況がまだわからないので、心理的にあまり遠出したくない。
あとはスーパーとかも選択肢に上がるが、ここは首都東京の中でも、やや田舎寄りの住宅地で、スーパーはホームセンターよりも遠い。
東西南北どこに向かってもスーパーはあるのだが、距離は似たり寄ったりだ。
どこも自転車がないと、向かうのに億劫な程度の距離。
ホームセンターの商品が空っぽだった場合に、改めて候補に挙げたい。
「では、家探しは無しにするとして、南にあるコンビニか、北にあるホームセンターか」
コンビニなら歩いて3分。ホームセンターは歩いて10分程度の距離。
今の状況でかつての時間感覚は当てにできないが、最初はやはりコンビニだろうか。
「一度、様子見も兼ねてコンビニへ。そしてある程度、ゾンビの対処に慣れたら改めてホームセンターを目指す。場合によっては先にコンビニの食料で更なる強化を目論むといったところでどうだ」
どうだ、と言っても答えてくれる人はいない。
端末くんだって、居ない。
茉莉ちゃんは、ぅうぅう、と唸っているだけだ。
「…………コンビニだな」
沈黙に耐えきれなかった俺は、自分で口にした通り、最初の目標を近所のコンビニにした。
青と緑と白いイメージの、家庭的な名前のコンビニが、最寄りである。
「さて、行くか」
と、今後の予定を決め、体を最低限綺麗にしてから、俺は呟く。
行くかと言ったが、玄関には先日作ったバリケードがこれでもかと鎮座している。
別にこれを撤去して出て行っても良いんだけど、それはそれで手間がかかるし、せっかく作ったものを壊すのは勿体ない気もする。
何より。
「……居るんだよなぁ。扉の前に、一体」
統合された気配察知が、ビンビンにその存在を伝えて来ている。
ごそごそやっていた音がどこかで拾われたのか、ぴったり俺の家の前ではないが、廊下のあたりに確実に一体居る。
俺の家が高級マンションの上層階だったら、ゾンビの魔の手もそんなすぐに届かないのだろうが、あいにくこの安いアパートは二階建てだ。
そして俺の家は一階なので、ゾンビにとってもアクセスしやすい立地となっている。
「窓から出るか」
さっきも言った通り、ここは一階なので外に出ること自体は容易い。
ただ、窓の向こうは大家さんである夜柳さんのお家があり、塀がこう微妙な感じで伸びていて、塀とアパートの隙間も柵で封鎖してあったりして、人間が出入りする想定の作りになっていないのだ。
そのおかげでゾンビが入り込んでこないので、今はその変な構造に感謝なのだが。
「それに、身体能力が向上した俺なら、その程度超えるのは造作もない」
実際、自分の身のこなしがかつての自分と違いすぎて戸惑うレベルだ。
まず、周囲の気配を察知し、こちら側にゾンビの気配がないことを確認してから、俺は窓から外に躍り出る。
塀とアパートの隙間を歩き、隙間を塞ぐ柵のところで一度身を低くし、あたりを伺った。
「……居るな、何体か」
こちらに注意を向けて居るゾンビは居ない。
だが、道路をのそのそと歩いて居る個体が少し居た。
道路には投げ出された自動車が乱立しているので、タイミングを見れば隠れて移動はできるだろうが、今は厳しい。
パッシブスキルの危機感と集中力が、俺が身を乗り出すべき瞬間を教えてくれるまで、俺は目に映るゾンビを観察してみることにした。
一人目は、いかにも主婦といった感じの中年女性。
挨拶したことはないが、何度かこの辺ですれ違ったこともあるな。
彼女は何かを探すように、のろのろとした動きで北へと向かっていく。
──────
人間・女
状態:呪腐魔病(軽)
──────
簡易鑑定の結果は、茉莉ちゃんと全く一緒だった。
二人目は、ご老人らしい男性。
見覚えはないが、日がな一日縁側で茶を啜っているのが似合いそうな人相だ。今はみる影もないんだが。
──────
人間・男
状態:呪腐魔病(軽)
──────
年齢などの情報は、簡易鑑定には存在しない。
性別と、呪腐魔病の重さだけが、この簡易鑑定が与えてくれる情報だ。
3人目は、少し腹の凹んだ中年男性。
体のスリムさと比例して、顔がやけに膨らんで居るな、というのが横からみた印象だった。あとやけに赤黒い服を着ている。
──────
死体・男
状態:呪腐魔病(重)
──────
初めて呪腐魔病の(重)を見た。
と思った瞬間に、表示されている種族を見て寒気がした。
人間・男じゃない。
死体・男だ。
俺はもう一度、男性の姿を見る。
顔の印象に比べて、やけに痩せていると思ったのは間違いだった。
彼は、痩せているのではなかった。
本当は、顔と同様にふくよかな体型をしていたはずだったのだ。
では、なぜスリムに見えたのか。
それは、彼の腹が何かに食い荒らされたみたいに、ごっそりと抜け落ちて居たからだ。
(…………嘘だろ)
俺は、ゾンビたちに聞かれないように心の中で漏らした。
呪腐魔病の患者──つまりゾンビは生きた人間だけだと思っていた。
だが、違った。
呪腐魔病は、死体をも操る本当のゾンビウイルスだったのだ。




