大鷲に守られた町
南へ、南へ。旅が進むにつれ暑さが増していく。
乾いているのは相変わらずだが、カウロンで感じた肌寒さの記憶などはもう、汗と一緒に蒸発して跡形もない。
「一口にレクスデイルと言っても、広いんだね。この暑さはティリスを思い出すよ」
アトゥリナは額の汗を拭き、水筒に口をつけた。答えるハルタシュも疲れが見える。
「まあ、元々ひとつの国ってわけじゃなかったからな。いつの間にかひとまとめにされちまってるけど、部族ごとにそれぞれの縄張りで暮らすのが普通だから。ティリスって、あの王様の故郷だろ。おまえもそっちの生まれなのか?」
「うん。語り部になることが決まってからは、ほとんど高地で暮らしていたんだけどね。小さい頃はティリスで過ごしたし」
言いながら、アトゥリナはぼんやりと遠くを見るまなざしをした。
乾いた砂礫の大地には、短く尖った葉の草と、せいぜい膝までほどの潅木だけが生えている。ティリスでも、水のある土地から少し離れたらこんな風景だった。ナツメヤシや薔薇の茂る宮殿で育てられたアトゥリナはめったに外の世界を見ることがなかったが、それだけに、たまに目にした光景は忘れられない。
それにこの暑さもだ。厚い壁で熱を遮る宮殿の中にいても、やはりどこからか暑熱は入り込む。お忍びで街に出た時など、熱に中って倒れたこともあった。ビードに背負われ、目当ての買い食いひとつ果たせずに連れ戻された時の情けなさを思い出し、アトゥリナはしょっぱい顔をする。横でハルタシュが天を仰いで嘆息した。
「しっかし、暑いなぁ。おいナヒティ、ムシュナの町を通り過ぎちまったってことはないだろうな?」
茹だった声で問いかけられたナヒティは、ゆっくりと周囲を見回してから首を振った。
「まだ。でも、もうすぐ……だと思う。あそこ、鳥の頭に見えるよね?」
言いながら彼女が指差したのは、行く手にそびえる岩山だった。一行は足を止め、それぞれ目蔭をさしたり、左右に動いたりして、その威容を見上げた。
「……見えなくもない、かな」
曖昧にアトゥリナが肯定すると、ナヒティもうなずいて言った。
「母さんから聞いたんだ。ムシュナの町は、鷲に見守られているって。他の部族の土地よりも暑くて乾いてるからこそ、奉納舞がいっそう大切なんだ、って」
「ということは、あの岩山を過ぎたら見えるかも、だな。よし行くぞ」
途端にハルタシュが元気を取り戻し、性急な足取りで先に進む。ナヒティが慌てて小走りにそれを追いかけた。アトゥリナは二人の護衛と共に、後からゆっくり歩く。無理に走って消耗し、この歳になってまたビードの世話になるのは避けたい。
馬と二人の影が、岩山の麓で立ち止まる。声ひとつ上げず、振り向いて早く来いと急かすこともなく、ただその場に根が生えたように動かない。アトゥリナは不審に思いつつ少しだけ足を速め、追いついて並び――自身もまた同様に声を失った。
そこから先は、緩やかな下り坂になっていた。南にそびえる山々の足元に沿って、細長い平地が横たわっている。頼りなく消えてしまいそうな川にわずかな緑がへばりつき、その両岸には建造物らしきものが連なっていた。
「……人、いるのかな」
ナヒティがかすれ声でつぶやいた。
まだ遠すぎて人の姿は見えない。建物の影はどれも不完全で、崩れたり壊れたりしているようだ。屋根がなく、壁の跡だけになっているところも多い。
ようやく辿り着いたと喜ぶには、寂しすぎる光景だった。ハルタシュが馬の手綱をぎゅっと握る。最後に立ち寄った村で馬を売り、今は一頭だけだ。運んでいた商品もほぼすべて、食糧や生活必需品に換えた。どの程度のムシュナ族が故郷に辿り着いているか、そこですぐに生活を始められるかどうか、まったく予測がつかなかったからだ。
「ここから手ぶらで帰るのは勘弁だな」
つぶやくように言ったハルタシュに、ナヒティも緊張の面持ちでうなずいた。
「とにかく、行ってみよう」
アトゥリナが促し、一行は再び歩き始めた。
坂を下って街の外れに差しかかると、ナヒティが堪えきれずため息をついた。やはり、建物の大半は崩れていた。人の住んでいる気配がない。他部族が攻め入った際、略奪と破壊がおこなわれ、そのまま放置されて数十年。庭も往来も区別がなくなり、野鼠や鳥の鳴き声があちこちでチッチッと小さく聞こえる。
「神殿は……」
ぽつりとナヒティが言葉を漏らし、顔を上げて周囲を見渡す。アトゥリナは彼女の考えを察し、岩山からの景色を思い出しながら手振りで示した。
「あっちの方じゃないかな。確か、川岸にひとまとまりの大きな区画が見えたから。他にも人が戻っているとしたら、その近くにいると思うよ」
「そうだね」
言われて希望を取り戻し、ナヒティはどんどん先へ進んで行く。
川に近付くにつれ、空気が微かに湿り気を帯びてきた。馬がそれを嗅ぎつけて目の色を変え、前のめりになる。ついにナヒティは堪えきれなくなったらしく、走りだした。ハルタシュも、半ば馬に引っ張られるようにしてそれに続く。ハイラムが気がかりな様子を見せたので、アトゥリナは警戒の面持ちで小さくうなずいた。
「いいよ、お行き」
短い許可の言葉にハイラムは頭を下げ、無防備に駆けて行く二人の後を追った。ビードは既にアトゥリナに寄り添い、油断なく短剣の柄に手をかけている。
さっきまでは人の気配などまったくなかったが、この辺りまで来ると様子が変わっていた。道筋がはっきりとして、崩れた家が多いながらも所々は補修されている。一軒の家屋の窓に絨毯が干されているが、その色はまだ鮮やかだ――歳月で朽ちてはいない。注意して地面を見ると、一行のものではない足跡が、ほとんど消えかけながらもあちらこちらへ向かっていた。
今のところ誰かが出てくることもなく、誰何や脅しの声も聞かれない。人がいるのは間違いないが、向こうも警戒しているのだろう。
アトゥリナは姿の見えない住人を刺激しないように、落ち着いた足取りで歩き続けた。
やがて通りが尽きるその先に、神殿はあった。
扉はなくなり蝶番だけが虚しくぶら下がり、ほかにも木材を使っていたと思しき場所はすべて持ち去られたか破壊されたか、風化しかけの痕跡が残るばかり。壁を背にして並ぶ石灰岩の彫像は、ほとんどが毀たれていた。
「うわ……」
ハルタシュが呻き、頭を振る。だがナヒティはそうした外観には構わず、まっすぐに背筋を伸ばして正面の入り口をくぐった。追いついたアトゥリナもそれに続く。日陰に入って暗くなった視界が元に戻った時、彼は思わず息を飲んでいた。
広いがらんとした床、飾り気のない列柱。その奥に坐す、一柱の神――。
嵐の神ワファリィの像であることは、アトゥリナにも判別できた。神話で語られる姿や衣装の特徴がそのまま刻まれている。異なる部族の侵略者達といえども同じ神を奉ずる以上、ここにまで破壊と略奪の手を伸ばすことはできなかったのだろう。してみると、外の像はムシュナ族の英雄や偉人のものであろうか。
薄暗く埃っぽい中にも、神の館に特有の静謐が満ちている。
アトゥリナは放心したまま神殿の内部を見回していたが、不意に、トン、と床を打つ音がして我に返った。振り返ると、ナヒティが床にうずくまっていた。丸めた背中に、灼熱の緊張が満ちている。
アトゥリナは声をかけるどころか身じろぎもできず、息を詰めて少女を凝視した。
――突如、熱が爆発した。
種子が莢から弾け飛ぶように、少女が床を蹴って四肢を広げる。続けて片足の爪先が床につく間もなく、腕が風を生み、回る布が嵐を呼ぶ。
楽の調べはない。
手と指と足、体のあらゆる場所から音が鳴る。激しい雨が大地を叩きつけ、暴風が木を根こそぎにし、岩をも飛ばす。荒れ狂う嵐の前に、逃げ惑う生き物達。
息苦しいほどの激しさは、しかし、徐々に鎮まってゆく。雨音がまばらになり、風が緩やかに優しく凪いで、厚い雲が切れて光が射して。
緑の草が萌える。穏やかな笛の音に乗って、せせらぎが丘から谷へと流れて行く。巣穴から出てきた鳥が翼を広げ、青い空をどこまでも高く、高く――
シン、と静寂が降りる。
その時になってようやくアトゥリナは、いつの間にか誰かが伴奏していたことに気付いた。ナヒティはまだ、部屋の中央でほっそりした腕を天に向かって伸ばしたまま、凍りついたように動かない。
しわぶきがひとつ、空気を乱した。ナヒティが手を下ろし、夢から醒めたような面持ちでゆっくりとそちらを向く。アトゥリナも振り向き、驚きに目をみはった。
列柱の陰から三人、四人、人影が現れる。さきほどの咳は、前に立つ老女のものらしかった。その横の男は笛を持ち、微笑を湛えている。
「ありがたいのう」老女は両手を胸の前であわせ、一礼した。「巫女舞を継いだ者が、この地に戻ろうとは、ほんにありがたい……もしや、シャラの血筋かえ?」
「――!」
老女の口から出た名前に、ナヒティが身を竦ませる。次いで彼女は震える息を吐き出した。
「……はい。シャラとナブの娘です」
「ほう、そうかえ、そうかえ。……よう戻ったのぉ」
老女は涙ぐみながら、節くれだった手でナヒティの手を取り、包みこむ。両親はどうしたのかと、問いはしなかった。ここに共に来ていない、それが答えと承知しているのだ。
アトゥリナは自分が邪魔者のように感じられ、背後のビードに目配せすると、そっと静かに外へ出て行った。
今のところ、町にいるのは五十人ほどだという。
ムシュナ族が大半だが、中にはハルタシュのように、親しくなった他部族の者がムシュナの者と共にここまでやって来た例もあった。
ナヒティとハルタシュは神殿に近い一軒の空き家をあてがわれ、アトゥリナ達もそこで寝泊りすることになった。まだ補修が済んでおらず屋根や壁が一部崩れたままだし、家具と言えるようなものは何もないが、それでも雨のほとんど降らない季節であるため不自由はしない。日除け風除けにさえなれば充分だ。
ハルタシュが運んできた商品はよく売れた。と言ってもこの町では貨幣に価値がないので、支払いは暮らしに必要な道具や便宜や、親切といったものだったが。
「これから、どうするんだい」
数日してアトゥリナは、五弦琴の手入れをしながらハルタシュに問いかけた。日干し煉瓦の材料をこねていたハルタシュは、額の汗を拭いて空を仰ぐ。
「どうすっかな。村に戻るつもりはないから、ここで……あいつと、暮らそうと思う。ただ、折角ここまでの道を確かめたんだし、近場で商売は続けるよ。キルフェまで戻る隊商がつかまったら手紙でも預けるさ」
ハルタシュは無頓着な口調を装ったが、束の間、その面を翳りがよぎった。キルフェの宿に南へ行く旨の伝言は残したが、いつ帰るとも帰らないとも告げないまま、こんな遠くまで来てしまったのだ。彼を忌避した村人達はともかく、両親は心配しているだろう。
郷愁を払うように、ハルタシュは小さく首を振ってアトゥリナに向き直った。
「問題は、こっちから何を売りに出せるのかってとこだけどなー。山羊を何頭か飼ってる家はあるし、杏やら何やら、実の生る木がぽつぽつあるけど、売り物に回せるかどうか。まぁ気長にやるさ。それより、おまえは? やっぱりまだ南へ行くのか? この先は道案内できる奴がいねーぞ」
もうこのまんま居着いちまえよ、と言外にそそのかす。アトゥリナは察したものの、苦笑でそれを退けた。
「行くよ。足も充分休められたし、なるべく早く出ようと思う。明日か明後日にでも」
「なに!? ちょっと待て、急すぎるだろ!」
慌ててハルタシュは立ち上がり、泥のついた手で掴みかからんばかりに迫った。アトゥリナは五弦琴を抱えて素早く避難し、じろりと睨みつける。
「汚さないでおくれよ、大事な商売道具なんだから。……もっとゆっくりしたいのは山々だけれどね、あまり腰を落ち着けてしまったら、別れづらくなるばかりだ。ここに根を生やしてしまう前に、今までの旅の続きのように、出発してしまいたいんだよ」
感情を抑えて淡々と言ったアトゥリナに、ハルタシュはすぐには何とも抗弁できず、悔しそうに顔を歪めて黙り込む。ややあって彼は低く唸ると、
「駄目だ、行くな」
断固として命令した。あまりに強圧的な物言いにアトゥリナもムッとする。だが彼が言い返すより早く、ハルタシュはこの上なく苦い顔で続けた。
「ムシュナの年寄りに、南へ抜ける道を知らないか確かめてみる。案内してもらうのは無理にしても、ここに町があった頃は山の向こうと行き来する商人もいたはずだ。それに、ここで修繕したり取り替えたりできるものは全部ちゃんとしてからじゃないと、山越えの最中に靴が破けたり鞄が抜けたりしたらどうしようもないぞ。水筒も、今のよりマシなのがあれば替えた方がいい」
てきぱきと旅慣れた者らしく指示を出すハルタシュに、アトゥリナはぽかんとしてしまった。この、町とも言えない町では、旅装を調えられまいと端から諦めていたのだ。
「でも……」
「確認もしないで勝手に出発を決めるんじゃねーよ。あと、行っちまうまでにもう一回、あの王様の話、全部聴かせてもらうからな!」
「ええぇ!?」
アトゥリナは本気で驚き、素っ頓狂な声を上げた。建国叙事詩を最初から最後まで通すとなったら、十日はかかる。ハルタシュが言ったような準備をこなしながらとなれば、もっと日数を食うかもしれない。
高山の夏は短い。懸念を顔に出したアトゥリナに、ハルタシュは頭を掻いて唸った。
「ぐずぐずしたくないのもわかるが、準備をきっちりせずに行くのはもっと駄目だろ。それにおまえ、元々はラウシールとかの話を広めたくて旅に出たんだろ? だったら、ここの連中にしっかり伝えとけよ。俺はおまえみたいに、物語を文章にして書き記すとかできないけど……ムシュナ族なら、音楽と舞の形にして残しておけるだろうしさ」
「ハル……」
思わぬ配慮にアトゥリナは絶句した。ハルタシュはそっぽを向いて、照れくさいのをごまかしている。
「……ありがとう」
「礼なんかいらねえって。正直なところ、俺がもっぺん聴きたいだけだし。ナヒティだって、一回もちゃんと通しては聴いてないだろ。こと音楽に関しちゃうるさそうなムシュナの連中の、度肝を抜いてやれよ」
ハルタシュは好戦的に笑い、アトゥリナの肩を叩く。おかげでアトゥリナも湿っぽい顔をせずに済んだ。
それから毎日、アトゥリナは久しぶりに、省略も改変もしない正統の建国叙事詩を歌って過ごした。ムシュナの人々はナヒティの恩人を最初から好意的に受け入れてはいたが、その彼が優れた楽士であり歌い手でもあると知れると、ますます親切になり、敬意さえも見せるようになった。おかげで、山越えのためにあれこれと無理を言っても、皆が快く協力してくれる。ハルタシュの読んだ通り、早くも叙事詩の内容を舞楽に凝縮しようと試みる者が次々に現れた。
熱心な聴衆のためとなれば、歌う方も張り合いがある。すべて歌い終えたら旅立つと決めたはずなのに、アトゥリナは時折、この日々がずっと続くかのように錯覚した。
それでも叙事詩は着実に前へ進み、旅立ちの支度も調っていく。
英雄王が最後の敵に立ち向かう頃には、アトゥリナも荷物をほぼまとめ終えていた。あとは直前になってから、すっかり馴染みになった干し肉などの乾燥食糧を詰めるだけだ。
夕陽の残照と小さな焚き火を頼りに鞄の点検をするアトゥリナを、ハルタシュとナヒティは黙って見守っていた。これでよし、というようにアトゥリナが紐を結ぶ。ナヒティが目をしばたたき、身を乗り出した。
「それは? 持って行かないの?」
問いながら指差したのは、出しっぱなしになっている小さな麻袋だ。
アトゥリナは微笑んでうなずき、袋を彼女に手渡した。ナヒティは訝りながら、袋の口を開いて中身をハルタシュの手に転がす。十個ほどの種子だった。
「何だこれ」
「種……だよね?」
「うん。ナツメヤシっていってね、私の故郷ではよく食べられているんだ。大きな木で、小さいけど甘い実がたくさん生る。この辺りは気候が似ているみたいだから、うまくいけば育つんじゃないかと思うんだ。良かったら、植えてみてくれないかな」
元はといえば、櫃にこっそり忍ばせたおやつだった。早々にフェーレンと分けて食べてしまったのだが、種だけはなんとなく捨てられずに持っていた。
ハルタシュは興味深そうに種を転がしながら、ああ、とうなずいた。
「そういや歌に出てくるよな。ナツメヤシの木陰がどうとかって」
「それだよ。ただ、確かナツメヤシは雄と雌の木があるって話だから、もしこの種が全部どっちか片方だったら、実は生らないけど……その時は木陰になるだけでも涼しいからいいよね。葉で籠や帽子を編んでいるのも見たことがあるし。樹液からお酒も作れるって聞いたなぁ」
「え、本当か!?」
途端にハルタシュが身を乗り出した。自分が飲みたいのではなく、商品になると思って食いついたのだろう。アトゥリナは苦笑するしかなかった。
「本当だけど、作り方は知らないよ。樹液だって多分、むやみに採ったら枯れてしまうだろうしね。実が生ったら一番いいんだけど」
「なんだ、使えねえなぁ王子様は。食うだけかよ」
「悪かったね。仕方ないだろう、王子様なんだから」
「開き直るな。あーあ、珍しい酒なら高値で売れると思ったのになぁ」
「あたいに言わせれば、まず芽が出るかどうかが問題だと思うけど?」
ナヒティが呆れ、皮算用していたハルタシュは首を竦める。アトゥリナは遠慮なく笑ってやった。
三人が談笑している間、ビードとハイラムはずっと影のように静かに控えていた。主人が貴重な思い出を作る妨げにならないように、と。
だがいざ出発が近付くと、影に徹してもいられない。どうしても片付けてしまわなければならないことがある。ハイラムは何日も機を窺っていたが、ようやくハルタシュが一人で馬の世話をしているところを見つけ、足早に近付いた。
「ハルタシュ殿」
声をかけられた当人は予期していたのか驚きもせず、冷えたまなざしで振り返った。顔には何の感情も浮かんでいない。
ハイラムはわずかに怯んだが、ぐっと踏みとどまって頭を下げた。
「発つ前にどうしても……もう一度、貴殿に謝罪したい。許してくれとは言わぬ、だが」
「もういい、やめてくれ」
ハイラムの詫びを遮り、ハルタシュが苛立った声を上げた。低頭したまま身をこわばらせたハイラムに、ハルタシュはため息を浴びせる。
「あんたが本当に謝らなきゃならない相手は、俺じゃないだろ。死んだバハルと、その家族だ。けど向こうは、あんたの謝罪を拒んだ。来るな、穢れる、ってな。だからもう、あんたにはこれ以上どうしようもない。人を死なせた罪科を、一生背負っていくだけだ」
ハルタシュは大人びた口調で突き放すように言った後、ふと表情を変え、わずかに羞恥の色を浮かべた。
「……俺のことは、もういいんだ。正直今でも思い出したらむかっ腹が立つけど、あんた一人に怒ってるわけじゃない。巡り合わせってやつなんだろうし……うまく立ち回れなかった親父や兄貴や、俺自身にも腹が立つ。けど結局、俺はこうしてここにいて、その……あれだ、ええと、……とにかく、いいんだよもう! 蒸し返すな!」
終わり良ければ、と言うにはしこりがあるものの、それでもナヒティと出会い思わぬ新生活を始めることになったのは、悪い結果ではないのだろう。
微笑ましいやら、しかし彼の言葉で己を許して良いものやら、ハイラムはややこしい顔になって立ち尽くす。その背後の物陰から、小さく失笑する声が漏れた。途端にハルタシュはしかめっ面になる。
「立ち聞きするならもっと上手くやれ、馬鹿王子!」
罵声を投げつけてから、彼はハイラムに目を戻して真顔になった。向こうにまで声が届かないよう、短くささやく。
「あいつのこと、頼む」
「――無論」
ハイラムが深くうなずいたのを確かめ、ハルタシュは巨躯を押しのけるようにして、失笑の聞こえた方へずんずん歩いて行った。
「まったく、何やってんだ。いい歳のおっさんのお守りしてやる必要ないだろ? 信用してないのか?」
「ごめん、そういうわけじゃないけど」
アトゥリナがおどけて首を竦めながら姿を現す。ハルタシュはその額を軽く小突いた。
「おまえの方がよっぽど危なっかしいんだから、人の心配してる場合じゃないぞ。大体おまえは、ちょっと魔法が使えるんじゃなきゃ、ろくに……」
説教しかけたところでハルタシュは不意に言葉を飲み込んだ。アトゥリナが怪訝な顔をしていると、彼はいきなり「そうだ!」と大声を上げた。
「何だい、いきなり」
のけぞったアトゥリナの両肩をがっしと掴み、ハルタシュは勢い込んで言った。
「おまえさ、あの鞄にかけてる魔法、自分にかけとけよ!」
「――え?」
「だからさ、何かやばいことになったら、ポンッとここに戻って来られるように! 名案だろ、な!」
俺って天才、とでも言い出しそうな興奮ぶりである。アトゥリナは呆気にとられ、次いで残念そうに首を振った。
「人間と鞄を同じにはできないよ。いつでもここに戻って来られるとなったら、そりゃ、安心だけど……」
旅路を逆戻りすることなど、今までは考えてもみなかった。だが、もしも。
可能性を探してアトゥリナは口ごもる。船が難破した時、板切れの上で跳躍か転移はできないかと検討したことが思い出された。
(ラウシール様なら、印をつけた石を人に持たせておいて……転移するなら、こちら側にも陣を描かなきゃ……)
自分の声が木霊する。アトゥリナは瞼を閉じて、遙か彼方から意識の浜辺に打ち寄せる予感の漣に耳を澄ませた。ややあって彼はゆっくり目を開き、深い紫の瞳で微笑んだ。
「そうだね。万が一、北に逆戻りしてでも逃れたい状況に陥った時のために、ここに目印を残していくよ」
「おう、そうしろ、そうしろ。それなら俺もちょっとは安心だ」
ハルタシュが偉そうにうなずいたので、アトゥリナは苦笑してしまった。
「使わないで済むのが一番良いんだよ。私一人でお手本も無しに、正確な転移陣が描けるかどうか怪しいし……それでも、何かの目印にはなると思うんだ。もしかしたら、腕の良い魔術師なら、海の向こうからでも見つけられるかも知れない。私が無事に帰りついた、その後で……」
そよ風が通り過ぎたかのように、自然と言葉が途切れる。短い沈黙の後、ハルタシュが束の間の神秘にはまるで気付かなかった様子で朗らかな声を上げた。
「そうなったら、いつでもおまえが遊びに来られるってことか! そりゃすげえな、足が痛いとか泣き言こぼしながら歩かなくても済むじゃないか」
「痛いとは言ったけど、泣き言ってほどじゃないだろう?」
アトゥリナが赤くなって言い返す。ハルタシュは意地悪くにやにや笑うだけで、是とも否とも応じない。アトゥリナは低く唸ると、頭をひっぱたいてやろうと手を振り上げる。それを払いのける動作の延長で、ハルタシュはアトゥリナの肩に腕を回し、強くしっかりと抱きしめた。いなされたアトゥリナは一瞬だけ不満げな顔をしたものの、すぐに諦めて抱擁を返した。
「絶対、また来いよ」
痛みを堪えるような声が、小さくつぶやく。
「俺も、ナヒティも……待ってる。ずっと」
アトゥリナは答えず、ただ、背に回した腕に力を込めた。




