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海を渡る風  作者: 風羽洸海
三章 レクスデイル
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ムバンの町・ナヒティの涙



 それからの道中は、以前よりも和やかな空気になった。

 同じような井戸と小屋を数箇所通り、幸い盗賊の類に襲われることもなく、無事にムバンの町に着く。キルフェほど大きくはないが、ハルタシュの故郷テペシュ村よりは賑やかだ。こぢんまりとした宿があり、アトゥリナ達の他にも何組かの客が泊まっていた。行商や、遠くの親類を訪ねる旅人だ。

 一行は部屋をとると、すっかり慣れた様子でそれぞれの仕事に取りかかった。

 宿の裏庭を借りて、アトゥリナとナヒティが楽曲と舞の打ち合わせと稽古をするかたわら、ハルタシュは道中で幾度もの交換を経て品揃えが変わった荷を整理する。通し稽古を終えたナヒティが汗を拭きながら、敷物一面に品物を広げているハルタシュに歩み寄り、金髪のつむじを見下ろして言った。

「それ全部、ここで銀か塩に換えるの?」

「あー……まあ、それが中心だな」

 ハルタシュの返事は曖昧だ。アトゥリナは五弦琴の手入れをしながら、二人の様子を見比べて首を傾げた。

 ばらつきのある商品を、広い地域で安定した価値を持つ銀や塩に換える。それが意味するところは何なのか。ここで一旦、保存の利かない食料品などを整理して、新たに品物を仕入れ直す手段ということだろうか。

 ハルタシュとナヒティは何か気まずいことでもあったのか、黙って目を合わせようとしないままだ。そのくせ、相手の出方を窺っているかのように、動こうとしない。アトゥリナは目をしばたたき、ああそうか、と不意に得心した。

「ハル、まだ一緒に来てくれるのかい」

 横から割り込まれて、ハルタシュがぎくりと竦み、チーズの塊を取り落とす。ナヒティが慌ててぴょんと飛び退き、取り繕うように少し離れた。アトゥリナは頬が緩みそうになるのを堪え、白々しく素朴な態度を装う。

「銀か塩を中心にするのは、どんな品物が売れるかわからないから、ってことだよね。ここでお別れして来た道を戻るんだったら、売れそうなものはもう大体知ってるんだから、それを仕入れたらいい。でもまだ南へ向かうなら……傷む心配がなくて、どこでも大体確実に売れるもの、ってことだね?」

「う、ぐぅ」

 ハルタシュは是非の不明瞭な声で唸り、小さくうなずく。次いで慌てて顔を上げ、いつもの口調でまくし立てた。

「あっ、誤解するなよ、別におまえのためじゃないぞ! 実際おまえらだけじゃまともに南へ向かうのも無理だろって思うけど、それは案内人を雇えばいいんだし、俺がついてってやる義理はないからな! たまたま行き先が同じってだけだからな! ここに来るまで儲けなんてほとんど出てないし、このままキルフェに戻ったって宿代も出なくて笑いもの……って、にやにやすんな! 気色悪い!」

 照れ隠しに小石を投げつけられ、アトゥリナは堪えきれなくなって朗らかな笑い声を上げた。

「ごめん、ごめん。承知してるよ、でも、ありがとう。私の読みは正解だってわけだね、交易商人の素質があるかな?」

「……まぁ、部族ごとのやり方をちゃんと学べば、おまえにもできるんじゃないか。それより歌ってる方が安全確実だと思うけどな。おまえはとにかく南に行く路銀があればいいだけで、金儲けしたいわけじゃないんだろ?」

 渋々ハルタシュは認め、頭を振って気を取り直すと在庫整理を再開する。アトゥリナは「まあね」と同意して、それ以上この話題に深入りするのは容赦してやることにした。

(私のためじゃないのは承知だよ、そりゃもうはっきりとね)

 心の中で余計な一言を付け足し、ちらりとナヒティを見やる。彼女は視線に込められた意味を敏感に察したらしく、赤くなって怒り顔を作った。アトゥリナは首を竦め、適当な旋律を追いかけてごまかした。故郷の旋律が心に染みこんで、愉快な気分を静謐に塗り替えていく。

(でも――本当にハルは、どこかで引き返すんだろうか)

 弦を弾く指にあわせて、つぶやきのような疑問が浮かんで消えた。

 彼はもう帰らない。何の根拠もなく、ただ確信する。彼はこのまま、南へ移って――

「アトゥリナ様?」

 背後からささやきかけられ、アトゥリナは夢から醒めたように身じろぎした。肩越しに振り向くと、警戒と気遣いを浮かべたビードのまなざしに出会う。アトゥリナは微笑み、小さく首を振った。

「大丈夫。悪い予感じゃない」

 彼がささやき返すと、ビードは安心した様子ですっと身を引き、ふたたび影のように黙って控える。そんな主従のやりとりを、ナヒティは複雑な顔で胡乱げに見つめていた。

 ともあれ翌日には、それぞれ町に繰り出して仕事に精を出すことになった。

 アトゥリナとナヒティは広場で芸を披露し、ビードが護衛につく。ハイラムには、ハルタシュの供をするよう命じた。荷物持ちとしても盗難防止としても、いかつい男の方が役に立つというのが理由だ。

「ごもっともですが、殿下、しかし」

 命を受けたハイラムは言いにくそうに口ごもり、ハルタシュを一瞥する。テペシュ村を出て以来、彼らが二人きりになるのは初めてだ。少年が村を追われる直接の原因を作った身としては、誰かに間を取り持ってもらわないと会話もしづらい。

 だがハルタシュは、ぶっきらぼうに「それでいいぜ」と了承し、ハイラムに向かってうなずいて見せた。許すの許さないのといった言葉はない。だが遺恨があるとしても、ハルタシュはもうそれを表に出さないと態度で示したのだ。キルフェで怒り任せにハイラムを蹴りつけたことを、彼も少し悔いているような表情だった。

 アトゥリナは内心ほっとしつつ彼らを見送ったが、いざ自分達が興行を始めると、他人事を考える余裕など消し飛んでしまった。初日から予想を上回る大入りとなったのだ。

 ムバンの町を訪れる旅芸人はあまり多くないらしく、演奏を始めてすぐに人が集まり、あれよと言う間に人だかりができた。西の海の果てから漂着したのどうのという能書きがなくても、芸人であるというだけで人々は歓迎の笑顔になる。もっともっとと催促する拍手が鳴り止まず、へとへとになるまで演奏を続けるはめになった。

 ナヒティがムシュナのしるしを身に着けず、伝統舞踊も一切無しで独自に振り付けした演目に限定したため、余計な騒ぎも起きなかった。本人はその選択に屈辱的な顔をしたものの、明かすにしてもせめて少しは稼ぎを手に入れてからにしないと、という皆の説得には折れるしかなかったのだ。

 客の前では笑顔を振りまいているが、休憩中には不機嫌を隠そうともせず、ナヒティはアトゥリナとほとんど口をきかないありさまだった。

 五日もそんな状態が続くとさすがにアトゥリナも参ってしまい、機嫌を直してもらうために譲歩を申し出た。

「ナヒティ、そろそろ一曲ぐらいムシュナの舞を入れてもいいんじゃないかな」

「本当!?」

 途端にナヒティはぱっと顔を明るくする。アトゥリナは渋面のビードを苦笑でなだめ、ナヒティに向かってうなずいた。

「初日から大入りだったからね。それなりの稼ぎは手に入れたし、ハルの方も大体品物を揃え終わったみたいだから。万一この後大急ぎで逃げ出すはめになっても、諦めはつくかなって」

 おどけて少し意地の悪い言い方をしたもので、ナヒティに頭をはたかれてしまった。

「馬鹿! あたいだって危ない橋は渡っちゃいけないことぐらい、ちゃんとわかってるんだからね。本当に逃げ出さなきゃいけないんだったら、腹が立つけど我慢するよ。だって……あたいの目標は、『今、ここ』じゃない。いつか部族を立て直して神殿もちゃんとして、昔みたいにムシュナの舞い手が尊敬されるようになったら、いつどこに行っても堂々とあたいの舞を見せられる。そのためには、少しぐらい辛抱しなきゃ。もう、やめてよ、その『無理しちゃって偉いなぁ』って顔!」

「あいたた、ごめん、そんなつもりじゃないんだけど。冗談は置いておくとして、一曲ぐらい入れても大丈夫じゃないか、っていうのは本気だよ。熱心に何度も来てくれる人もいるし、顔ぶれを見ていると若い人が多いからね。ムシュナ族だとばれたら最初のハルみたいに顔をしかめるかもしれないけど、だからって石を投げたりはしてこないと思うんだ」

「……そう、かなぁ」

「不安ならやめておくよ。君が踊りたいなら、っていうだけだから」

「やる! 一曲だけ、最後に」

 あっさり餌を引き上げられて、ナヒティは大慌てで食いついた。アトゥリナが笑い、釣られたナヒティは頬を朱に染める。だが明らかに彼女は機嫌を直し、後ろに置いていた荷物から衣装を引っ張り出した。部族の織り模様が入った、大きな薄布だ。ひらりひらりと風を孕ませて、観客の目を欺く魔法の仕掛け。

 たかが布一枚のことであるのに、それを纏ったナヒティは雰囲気を一変させた。旅芸人ではなく、神々に仕える巫女の誉れ高き舞い手へと。

 演奏を再開すると見て、通りがかった人々が足を止め、期待の面持ちで寄って来る。

 ナヒティが小声で告げた曲を、アトゥリナは緩やかに奏で始めた。

 旱を退け雨を乞い、嵐を鎮めて芽吹きを促す祈りの舞楽。これまでの演目とは一線を画する厳かな雰囲気に、観客は息を飲み、手拍子や口笛もなく、瞬きさえ惜しむようにして見入る。

 しなやかな腕が雲を呼ぶ。指が優しく雨の糸を手繰り、地を踏む爪先の下に草がす。ふわりと広がった布が嵐を包み込み、鎮め、そよ風に変えて解き放つ――

 最後の和音と同時に舞姫が跪き頭を垂れると、つかのま、一切の音が消えた。

 やがて誰かが、ためらいがちに拍手を始める。ナヒティが顔を上げていつもの笑みを見せると、観客はどこか安堵したように、わっと盛んな拍手を送った。

 本日の興行はこれにて終了、との口上をナヒティが述べ、アトゥリナも琴を抱えて優雅にお辞儀をする。その間も敷物の上には小銭が次々と転がってきた。

 何も知らないと思しき子供や若者が、ナヒティを取り囲んで賛辞の雨を降らせる。アトゥリナも他の客に如才なく応じながら、ビードと一緒に片付けを始めた。大丈夫だろうとは言ったものの、噂が広まる前に逃げ出せる準備はしておいた方が良い。

 作業の間もアトゥリナはナヒティの方をちらちら見て、絡まれていないか確認する。数人の若者がなかなか離れようとしないのだが、どうやらすっかり虜になったものらしい。相手をするナヒティは頬を染め、らしくもなくはにかんだ微笑を浮かべている。

 ハルが見たら何と言うやら。アトゥリナはこっそり肩を竦め、手早く片付けを済ませてしまうと、するりと自然に会話の隙間に滑り込んだ。

「ナヒティ、こっちは片付いたよ」

「あっ……ありがと、ごめん」

 驚いたようにナヒティは応じ、なお少し若者らと言葉を交わしてから、連れの方に戻って来た。うきうき上機嫌で、舞の続きのような足取りになっている。若者らの相手をしていた時の態度は本物であって、作り笑いで厭味をいなしていたわけではないことがはっきりした。アトゥリナは肩の力を抜き、笑顔で彼女を迎える。

「随分褒められていたみたいだね」

 石を投げられることさえ予期していただけに、全く逆の反応を得られたことには喜びにもまして安堵が大きい。ナヒティも顔を上気させたまま、うん、と深くうなずいた。そして一言。

「明日、家に行って舞を見せる約束しちゃった!」

「えぇっ!?」

 いきなり足元に段差ができたように、アトゥリナがよろめいた。

 宿に戻ってからもナヒティはすっかり浮かれていた。少ない荷物から衣装をあるだけ引っ張り出して、どれとどれを合わせようか、演目は何にしようかと悩み続けている。

「あの人達も楽器をやるんだって。あたいの舞と合わせたい、って」

「へーぇ」

 気の無い相槌はハルタシュ。しかし彼の反応など気にも留めず、ナヒティは絨毯に広げた衣装から薄布を取り上げ、ぎゅっと胸に抱きしめて夢見心地にしゃべり続けた。

「あれがムシュナの舞だってわかったのに、素晴らしいって褒めてくれたんだ。この町でも奉納舞を復活させたいって言うんだよ、凄いじゃない? ああ、夢みたい!」

「そりゃ良かったな」

 ハルタシュの声に挑発の響きがまじる。それでもナヒティは相手にせず、一人完全に薔薇色の夢想に耽っているようだ。アトゥリナはやれやれと苦笑した。

「ハルも一緒に来るかい? 衣装や小道具を君が手配してるってことすれば良いんじゃないかな」

「無茶言うな」

 不機嫌にハルタシュが唸り、ようやくナヒティも彼の存在を思い出したかのように目をぱちくりさせて振り向く。

「なによ、自分だけお呼びじゃないからって僻んでるの?」

「うるさい! 俺には関係ないんだ、知るか!」

 ハルタシュはつっけんどんに言って、壁の方を向いてごろんと横になってしまう。ナヒティがむっとなったので、アトゥリナは穏やかな声でとりなした。

「そうだね、関係ないね。どんなに褒めそやされたとしても、この町に留まるわけじゃない。ナヒティの目的地はまだ先だし、ハルはそこまで付き合うって決めてるわけだし」

 自然でさりげない話し方だったもので、当の二人が発言の意図を理解するまで間が空いた。ナヒティが小さく息を飲み、ハルタシュの肩がぎくりとこわばる。いつもなら照れ隠しに、勝手に決めるな、などと怒り出すところだが、今日の彼はしかし、そのまま黙りこんでいる。そうなるとナヒティも憎まれ口を叩けず、ややこしい顔になってうつむくと、ひたすら衣装をいじくりまわした。

 少しばかり落ち着かない、しかし居心地が悪いわけでもない、奇妙な沈黙が続く。アトゥリナは思いやるまなざしをハルタシュの背中に向け、微笑んだ。

「というわけだから、今から夫婦喧嘩はやめておくれよね」

「うるさいっ!」

「馬鹿!」

 途端に二人から怒号と悲鳴を浴びせられ、アトゥリナは首を竦めておどけた。



 翌日、まだぎこちない雰囲気のハルタシュに見送られ、アトゥリナとナヒティは招かれた家へ向かった。ナヒティは既に緊張と興奮で目をきらめかせている。ゆうべもあまり眠れなかったらしい。

 アトゥリナは頭の中で旋律を復習しながら、上手く行けばついでに自分の歌も売り込めるかな、などとよこしまな思いを抱いた。最初に建国叙事詩を聞かせたフェーレンには、金持ちの屋敷に招かれた時にとっておけ、と言われたが、今までそんな機会はなかった。今日の招待主がどれほどの家柄かは知らないが、自宅に芸人を呼ぶというのだから、それなりではあるだろう。

 だがそんな期待は、出迎えた若者の態度を見た瞬間に潰えた。

 家は確かに、田舎町の基準で言えば大きい方だ。日干し煉瓦の立派な壁に囲まれ、庭木や花壇もある。門のところで使用人らしき男に呼び止められ、その取次ぎを経てから、昨日の若者が玄関扉を開けてくれた。

 笑顔でナヒティを歓迎した若者は、しかし、次いでアトゥリナに怪訝そうな、不審そうな――はっきり言えば迷惑そうな視線をよこしたのだ。

(お呼びじゃないのは私もだったか)

 どうやら若者達は、魅力的な舞姫だけを招いたつもりだったらしい。アトゥリナは落胆を顔に出さず、当然のような態度で招待に礼を述べて一礼した。若者も今さら追い返せないと判断してか、苦いものを滲ませた笑みで応じる。急な招きにも関らずようこそ、と型通りの挨拶を述べた後で、彼はちらりとビードに視線をやってから続けた。

「すまないが、付き添いは……」

「これは失礼。一度帰らせますのでご心配なく」

 アトゥリナはそつなく詫び、ビードに向き直って素早く一言二言指示を与えた。その短い間だけ、翻訳呪文を解く。ビードは眉一筋動かさず、従者らしい寡黙さと素直さで頭を下げた。

「では後刻、お迎えに上がります」

「頼んだよ」

 短いやりとりの後、ビードが往来を戻っていくと、若者は扉を大きく開けて二人を通してくれた。だがそのまますぐに広間や客間には向かわず、若者は玄関でしばし立ち往生する。自宅で迷ったかのように左右を見渡し、ああそうだ、と独り合点してうなずいた。

「舞姫の着替えが必要だな。ちょっと散らかってるが、こっちの部屋で済ませてくれ。その間に我々は広間で用意をしておこう」

 そうだそれがいい、とばかりに若者はいそいそ二人を別々の部屋に案内する。ナヒティは気を遣われて恐縮そうに礼を言ったが、アトゥリナは鷹揚にうなずいただけだった。

 ナヒティを誰かの私室らしき小部屋に通し、若者はさらに廊下を奥へ進む。その背について行きながら、アトゥリナは周囲をさりげなく観察した。

 壁にかけられた織物、壁龕に飾られた華やかな花器。あちこちから聞こえてくる、家事の様々な物音。暮らし向きは豊かであるらしい。大家族か、大勢の使用人がいるようだ。

 そして恐らく、親は息子が昼日中から旅芸人にうつつを抜かしていても気にしていないか、諦めている。もし家族全員で楽しむつもりなら歓迎の仕方も違ったろうし、思いついたように別室をあてがうこともないだろう。つまりこの招待は、放任された息子の道楽というわけだ。

(規模は小さいけど、ああいう手合いかな)

 王宮にいる頃に接点があった貴族の子弟を思い出す。裕福で不自由なく暮らし、親類が押し付けてくる教育をのらくらとかわして、似たような者同士つるんで遊興に耽る。

 案の定、広間には同じ年頃の青年が三人、だらけた様子で待っていた。昨日ナヒティを熱心に口説いていた面々だ。先に飲み食いしていたらしく、室内には木の実や菓子の香ばしさや甘い匂いが漂っている。三人は戸惑い顔で立ち上がって、屋敷の若者に説明を求める。その周囲には、皿や盃こそあれ、楽器などひとつとして見当たらない。

(なるほど)

 アトゥリナはさして驚きもせずその事実を確認し、小さくふっと息を吐いた。ひそひそとささやき交わす四人を尻目に、平静を装って室内を見回す。ありがたいことに広間は庭に面しており、小さな窓と戸口が開け放たれていた。

「ああ、庭に出られるんですね。これはいい」

 アトゥリナは勝手にそちらへ歩いて行くと、戸口から身を乗り出した。

「花があれば舞も引き立ちます。どれか摘んでも構いませんか?」

 庭を見回しながら、室内を振り向かず朗らかに問いかける。その声は不自然に大きい。

 若者達が何事か相談し、うなずき合う。アトゥリナは背を向けたまま、その気配を間違いなく察知した。

 庭木の枝が、風もないのに揺れる。アトゥリナの背後に足音が迫る。

「おっと」

 いきなりアトゥリナは体勢を崩し、とっとっ、と庭へよろけ出た。かわされて空を掴んだ青年が舌打ちする。

「チッ、逃がすか!」

 だが彼が再び獲物に手を伸ばすより早く、庭の草木がザザッと騒いだ。

「殿下に触れるな!」

 女の鋭い叱声。と同時に、アトゥリナを捕えようとしていた青年が突き飛ばされて宙を舞う。

「うわっ!」

 仲間にぶつかられて残りの面々が混乱している隙に、ビードが戸口に現れて立ちふさがった。

「えっ、あっ!? なんで、帰ったんじゃ」

「おい、なんだよこいつは! 話が違うだろ!」

「くそっ、いつまでもたれてんだ、どけよデブ!」

 仲間内で揉め始めた若者達を、ビードは冷ややかにねめつける。その背後からアトゥリナがひょいと呆れ顔を覗かせた。

「舞姫を連れ込んで皆で楽しむつもりだったようだけど、残念だったね。ナヒティは花売りじゃない、そういう娯楽はよそを当たってくれないか」

 もくろみを看破されて若者達は息を飲み、即応できず石のように固まる。一呼吸の後、彼らは強引に体裁を取り繕いながら闖入者に対峙した。

「わかってるんなら、さっさと失せろ! おまえに用はない」

「大人しく帰るんなら見逃してやるよ」

 四対二との単純な計算が、彼らを滑稽なほど強気にする。アトゥリナはやれやれと頭を振り、わざとらしい口調でビードに問いかけた。

「どうする? 相手をするのは面倒くさいかい?」

「ご心配なく。貧相な狐の四匹程度、すぐに片付けます」

 ビードはいたって事務的に応じ、すらりと短剣を抜いた。若者達の顔色が変わる。その隙に、もう彼女は床を蹴っていた。

 ついさっき突き飛ばされた一人が反射的に逃げようとして仲間につまずく。そこへビードが肩から突っ込み、二人まとめて吹き飛ばした。すぐさまビードは足を踏ん張って姿勢を戻し、横から闇雲に掴みかかろうとした三人目を短剣で牽制する。相手が怯んだ隙に肘打ちをくらわし、さらに足を払って倒すと、残る一人、屋敷のどら息子に躍りかかった。

「ぁわっ……助け」

 て、と言い終えるのを待たず、短剣の柄で顎を打つ。歯が折れない程度に力加減はしたが、衝撃で目を回したどら息子はその場にひっくり返ってしまった。

 わずか数呼吸ほどの間に、ビードは宣言通り四人を沈めた。アトゥリナは感嘆の声を漏らし、ぱちぱちと拍手する。

「さすがだね、本当に君は頼もしいな」

「お褒めに与り恐悦至極にございます」

 ビードは畏まって一礼したものの、次いで若者達に向けた目はあからさまな侮蔑を含んでいた。そのまなざしの不吉さに、四人は揃ってぎくりと竦み、じりじり後ずさって身を寄せ合う。アトゥリナはゆっくりビードの前に進み出ると、処分を考えるように一人一人をじっくりと眺め回してから、暗く冷たいため息をついた。

「お暇しよう、ビード。こんな所に長居は無用だ」



 その日の内にアトゥリナ達は荷物をまとめ、町を後にした。

 問答無用で屋敷から連れ出されたナヒティは目を白黒させたが、事情を聞かされてからはずっと口を閉ざしている。悲憤が溢れ出すのをとどめるように、ぎゅっと唇を噛んで。

 アトゥリナは最低限の説明をしただけだった。広間を去る際に浴びせられた悪罵を、いちいち伝えるような真似はしなかった。

 ――ムシュナの女なんざ、孕ませるしか使い道がないだろうが!

 別室にいたナヒティには聞こえなかったはずだ。だが、若者達に騙されていたこと、やましい目的で連れ込まれたことを知らされたら、想像はついてしまう。

 他の旅芸人でも同じ目に遭ったかもしれない。だが彼女の場合は間違いなく、ムシュナ族であることがあの若者達の欲望を掻き立てたのだ。ムシュナ族になら何をしても良い、そんな暗黙の了解があるから。

 日が落ちて焚き火を囲む頃になってようやく、ナヒティは言葉を漏らした。

 ただ一言、悔しい、と。

 かすれた声と共に堪えていた涙がこぼれ、止まらなくなる。わななく細い肩を、ハルタシュが無言で引き寄せてしっかりと抱きしめた。誰も、何も言わない。火のはぜる音と、か細いすすり泣きだけが、夜の闇に吸い込まれていった。


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