〈未来〉
〈未来〉
男が一人、飢えと渇きによろめきながら歩いていた。
太陽が容赦なく照りつけ、砂を含んだ風が彼を打ち倒そうと吹き荒れる。男は口の中で旱の神を呪った。あともう少し。疲労でかすむ視界に、巨大な鳥の影が映る。男は息をついた。あった。大鷲の岩だ。
ほとんど倒れそうなばかりに前のめりになり、彼は懸命に足を動かす。どうにか岩山の足元を通り過ぎると、今度は転がり落ちるような勢いで坂を下り始めた。
よろけふらつき、つんのめって転びかけては立ち直る。狂ったように目指すのは、豊かな緑の生い茂る村だ。そこまでの荒れた風景とは別世界のように、谷間の村は巨木に取り囲まれている。
木陰に入った途端に倒れ伏した男に、近くで野良仕事をしていた村人が気付いて駆け寄った。すぐに自分の水筒から水を分け与え、仲間にも声をかける。
男は礼を言う余裕もなく、水を貪った。水筒をすっかり空にした後で、ようやく深い息を吐き、まともな人間らしい表情で辺りを見回す。
「すまない、助かった」
「お互い様だよ。追い剥ぎにやられたかね? ほとんど手ぶらじゃないか。こんな乾いた季節に、それじゃ命取りだよ。ほら、これも食べな」
村人が言って、柔らかい果実を差し出した。男は遠慮もためらいもなく口に入れ、ほっと笑顔になる。
「美味い。生のナツメヤシを食べるのは初めてだ。生き返る……っと、のんびりしている場合ではなかった。長に会えるだろうか? 食糧と水を提供してもらいたいのだ」
男が偉そうなことを言い出したので、村人は不審顔になった。改めてしげしげ男を観察し、それからある可能性に思い当たって渋面をする。男は気を悪くした風もなく、ただ苦笑した。
「そんな顔をされると困るんだが。ムシュナの民に戦に加われというのではない。だが目下、私は負けに負け続けて、すぐそこの井戸まで追い立てられていてな。兵達は消耗が酷くて、皆そこで私の帰りを待っている。だがあの井戸は小さくて浅い、皆を潤すにはとても足りんのだ。頼む、彼らのために水と食糧を届けてほしい。むろん代価は払う。……今すぐには無理だが」
最後にしょっぱい一言がついたので、村人は呆れて目を剥いたものの、男の正直さに免じて苦笑した。村人の案内で長の家に入った男を待っていたのは、拍子抜けするほど簡単な、承諾の返事だった。
「承知しました、すぐに用意しましょう」
「いいのか?」
思わず確かめてしまった男に、部族の長を務める老女は微笑んでうなずいた。
「私共ムシュナ族は、かつてレクスの長によって虜囚の身から解き放たれた恩義がございます。それにこの地に暮らす者は、渇きに苦しむ者を損得や敵味方で区別いたしません。幸いこの地の川は細いながらも涸れたことはなく、また、他の作物は乏しくともナツメヤシだけは有り余っております。当座しのぎには充分な量を差し上げられるでしょう」
「これは……かたじけない。今は感謝の言葉以外に報いる術を持たないが、再び我らレクスが王者の地位を取り戻した暁には、ムシュナ族に対する便宜と優遇を約束しよう」
「もったいないお言葉なれど、私共は今のままで結構でございます、レクスの王よ。あくまでも私共は神々と人との仲介役。恩義や権力、縁故などに惑って本分を忘れるようなことがあってはなりませぬゆえ」
応じる老女はあくまでも恬淡としている。男は再度深く頭を下げた。
家を辞する際になって、男はふと、小さな離れに目を留めた。そこだけ古い家の一部が保存されているらしい。何とはなしに気になって、制止されないのを良いことに興味津々と見物に行く。
「中にはお入りにならぬよう」
見送りの家人がそれだけ注意したが、言われるまでもなく、男は扉を開けたその場で立ち尽くした。
「何だこれは」
石の床に描かれている奇怪な模様。全体としては円形だが、中にいくつもの円や曲線、見たこともない記号が組み込まれている。呆然とした男の横に、家人がゆっくり歩み寄って並んだ。
「かつてこの地にナツメヤシをもたらした、異国の魔術師が残したものだと伝えられています。いつかこの『魔法陣』を使って、かの魔術師が戻ってくると、先祖は信じて待ち続けたそうですが」
「戻ってこなかった、と。では何故これをそのままにしているのだ? 消すと祟りでもあるのか」
「さあ、それは存じません。ですがもしかしたら、いつか西の海の彼方にあるという英雄王の国から、優れた魔術師がこの印をたよりに訪れるかもしれないと言って、代々受け継いでいるのです」
「それはまた……」
男は呆れたのと感嘆とが相半ばする声を漏らし、やれやれと頭を振る。次いで、不意に笑いだした。
「日没の彼方から、遙かに時を超えて訪れる誰かを待つとは、夢の膨らむ話だな。かつてこれを残した魔術師は、いまや私の恩人でもあるわけだ。その故国から何者が訪れるにせよ、私は必ず礼を尽くして迎えると決めたぞ! ムシュナの長が、我らの先祖から受けた恩を忘れずにいてくれたように、我らレクスの民もまた、遠い異国の魔術師への恩義を忘れまい」
実現するとは信じていない、夢想と希望のゆえの言葉だ。男は自分の宣誓にまたちょっと笑い、それからおどけて付け足した。
「訪れるのが美女だったら嬉しいんだがな」
「……それこそ夢物語というものでしょう。さあ、今は飢えと渇きに苦しむお仲間のもとへ急がなければ」
「おっと、そうだった」
忘れていた、などと薄情なことを言いつつ、男は急ぎ足にそこを離れる。
彼らが去った後、閉ざされた扉の向こうで床の模様が一瞬だけ微かに光ったが、それを見た者は誰もいなかった。




