南へ・焚火のそばで
「大体よ、こんな大金持たせて何箇月も大人しくしてると思う方が、どうかしてるよな」
知らせを受けてから三日後、一行はキルフェの南門をくぐり、街道に踏み出していた。まだ少し強がりの感じられる声で言ったハルタシュは、荷馬の手綱を握っている。馬はテペシュから連れてきた一頭を含め、三頭が一列に連なっていた。
生活費にと渡された金で、ハルタシュは馬と旅装を調え、商品を仕入れたのだ。元々アトゥリナが、何かついでに小銭稼ぎの交易ができないかと言ったのがきっかけで、色々と手配はしていたのだという。
「ほーんと、博打で全部スッて路地裏で寝起きするはめになりそうなのにね」
ナヒティが明るい口調で厭味を飛ばし、ハルタシュは歯を剥いて唸った。
彼らが南へ向かうと決めた後、ならばとナヒティも同行を申し出たのだ。故郷の正確な位置はわからないが、少なくともずっと南だということは知っている。どうせそろそろ広場でも稼ぎが落ちてきていたから、行くなら一緒に、というわけだ。
ハルタシュは渋ったが、泣き顔を見られた弱みもあってか強硬に反対はせず、アトゥリナが取り成すとじきに承諾した。
総勢五人、それに馬が三頭の大所帯になれば、小さいながらも交易商人らしい体裁は整う。たった三人の異国人が徒歩で物売りをするよりは信用されるだろう。
そんな判断もあってハルタシュは、小さくて嵩張らないが手堅い利益の見込める品物を仕入れていた。どこに行っても必要とされる岩塩、包丁や小刀や銅鍋といった必需品。さらに、とっておきの装飾品も少しだけ。色糸を模様に編んで様々な玉をあしらった贅沢な腕輪や、ごくごく小さな金の欠片を縫い付けた飾り紐。こうしたものがあるだけで、商っている品の全部がなんとなく素敵なもののような印象を与えられるのだから、多少の無理は承知で仕入れる価値があった。
どの商品も、売った店の銘が入っている。キルフェで商っている店であれば、周辺地域一帯での信用があり、安心して売買ができるのだ。
アトゥリナはナヒティが見つけた楽器屋で無事に予備の弦を調達したし、ハイラムとビードの二人も平静を保って務めに集中しており、旅立ちの妨げになるものはない。
先頭を行くハルタシュが、ふと足を止めて振り返った。他の者も、特に別れを惜しむほどの町ではないのだが、見納めとばかり城壁を眺めやる。まるでそれを待っていたかのように、城門から一人の男が大きく手を振りながら走ってきた。
「おぉい! 待ってくれ、そこの……!」
「なんだありゃ? 俺達に用があるのか?」
ハルタシュが眉を寄せる。アトゥリナも目蔭をさしてから、あっ、とナヒティを振り向いた。あの男だ。何か困っていることはないか、と広場で問うてきた男。
アトゥリナはナヒティを庇うように進み出たが、意外にも男の表情に敵意はなかった。
「ああ、間に合った。広場に行ったらいなくて、門に向かったって聞いたから」
一行に追いついた男は、前屈みで両膝に手をつき、息を切らせながらどうにかそう言った。少しかかって呼吸が落ち着くと、彼は背を伸ばし、アトゥリナに手を差し出した。一枚の羊皮紙を握った手を。
「受け取ってくれ」
「……え?」
「ムシュナの町へは、ここからムバンへ向かって、その後ナルンデを通っていくのがいいらしい。目印になるものを描いてもらった。今もあるかどうかは保証できんが」
言葉尻でやや弱気になりながらも、男は紙を広げて見せる。受け取ったアトゥリナの肩越しに、ナヒティが覗き込んで小さく息を飲んだ。そんな彼女を見て、男の顔にちらりと罪悪感がよぎる。アトゥリナはじっと相手の目を覗き込んだ。
「誰からこれを?」
「あぁ……その、親類が何人か、あっちの方に行ったことがあって、覚えていたんでな。役に立てばいいんだが」
口ごもった男を、アトゥリナはさらに無言で見つめ続けた。その瞳が微かに紫色を帯びる。長い沈黙の後、彼はにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、きっと役に立ちますよ。もしほかにもムシュナ族がこの町に寄ることがあれば、同じ情報を教えてくれますか?」
凝視から逃れられて、男は無意識にほっと息をついた。
「そうするよ。……その、ええと」
そこで彼はまた言い淀み、窺うような視線をナヒティに移した。
「あんたの舞はなかなか良かった。すまなかったな、その……色々と」
「あたいは別に迷惑かけられた覚えはないけど。とにかく、道を教えてくれてありがと」
ナヒティの方もやりづらそうに、もぐもぐ礼を言う。男はようやく笑みを浮かべ、軽くうなずいてから、
「それじゃあ、恙無い道中を」
旅人同士の挨拶を残し、重荷を下ろしたような足取りで町へ戻っていった。
「なんか、怪しくない?」
男が完全に見えなくなってから、ナヒティは複雑な声音で誰にともなく言い、改めてアトゥリナの手元を覗き込む。ハルタシュもやってきて、地図に目を落とした。
「俺も一応ムバンの近くまでなら知ってるけど、その限りで言えばこの地図は本物っぽく見えるぞ」
「嘘は言ってないと思うよ」
アトゥリナはさらりと答え、ハルタシュに地図を託した。
「彼の態度がおかしかったのは、道を聞いた親類というのが恐らく、ムシュナ族を攻め滅ぼした戦に加わっていたからだろうね。それも村に直接乗り込んで、殺したり奪ったりしたんだろう。その話を聞いて育った彼にしてみれば、ムシュナ族に親切にするのは色々複雑な心境なんだと思うよ」
ムシュナの町までの道を正確に覚えている親類からすれば、かつての戦は正当な勝ち戦であり、気分を高揚させてくれるものだろう。その薫陶を受けた男にとっても、ムシュナは蔑むべき部族であり、ナヒティに対して不親切であったからとて、責められる謂れはない――そう信じていたに違いない。
だが現実には、ナヒティはただ舞が上手なだけの少女に過ぎないのだ。手助けしてやってほしいとアトゥリナから頼まれて、無視するのは気が引ける程度には、普通で無力に見える少女。
「少しずつでも、ムシュナ族に親切にしてくれる人が増えるといいね」
アトゥリナはナヒティに思いやりのこもった微笑を向けた。途端にナヒティは頬を染めて、うん、とうなずきながらもそわそわした。
「行くぜ」
ぶっきらぼうにハルタシュが声を張り上げ、前へ戻っていく。それに救われたように、ナヒティはアトゥリナのそばを離れ、適当な荷馬の向こう側へ姿を隠した。おや、とアトゥリナは目をしばたたく。だが余計なことを言うと、ハルタシュに怒られそうだ。彼は一人でおどけて小さく肩を竦めると、五弦琴をしっかり背負い直してから歩き出した。
行く手に道はない。踏み固められた白っぽい筋がぼんやりと走っているだけで、それも町から離れると様々な方へと分かれて薄くなっている。カウロンからの長い旅でいくらか慣れたとは言え、アトゥリナはまた少しだけ心細くなった。
帝国内のように主要な街道が石畳で敷設され、一里塚や宿駅も整備されているのが当たり前だと思っていたから、ハルタシュがごく微かな道らしき跡を辿って平気でどんどん進んでいくのが、頼もしいような不思議なような気分になる。実際にはハルタシュも、地上の痕跡だけでなく、遠くの山の位置や、太陽や月星をたよりに方角を決めているのだと知った時には、アトゥリナはすっかり感嘆してしまったものだ。
その日は当然ながら、野宿になった。旅人のための施設があるわけではないから、風除けになる岩場の陰で、馬の手綱を貧相な潅木の茂みにひっかけて荷物を降ろす。
アトゥリナも枯れ枝や枯れ草、燃料になりそうなものは何でも拾い集めて焚き火の用意をした。荷物には薪もあるが、なるべく節約したい。ほかの皆がそれぞれ忙しくしている間に、アトゥリナは地面に簡単な魔法陣を描いて石で囲み、上に枯れ枝を積んだ。
手をかざし、二言三言、単純な古代語の連なりをささやく。お粗末な陣がきらりと星のように光り、パチッと音を立てて生まれた炎が枯れ枝を舐めた。
生乾きの枝が混じっていたらしく、異臭を伴う細い白煙が立ち昇る。アトゥリナは顔をしかめて煙を追うように手を振った。その手の向こうに、ぽかんとしているナヒティの顔が現れる。
「……今、何やったの?」
驚きと疑いのあいまった声に、幸い恐れは含まれていなかった。手品の類を身近にして育った彼女にとっては、これもひとつの仕掛けに見えたのだろう。アトゥリナは安堵の笑みをこぼした。
「魔術だよ。とても簡単な、初歩の初歩だけどね」
「ごまかさないで、何か種があるんでしょ。何を使ったの? あたいにも見せてよ」
ナヒティはずいとアトゥリナに迫り、無遠慮に彼の手や袖を調べ始める。
「うわ、ちょっと、くすぐったいよ、ナヒティ! 何もないって、本当に何も隠してないから!」
「秘伝だってわけ? ケチケチしないで教えてよ。火がつく前に何か光ったよね、火打石だけじゃせいぜい火花だし、どんな細工が……」
「うわぁ! 離してくれなきゃ教えられないよ!」
二の腕まで袖をまくりあげられて、アトゥリナは悲鳴を上げる。護衛の二人は目を丸くしてそれを見ていたが、ハイラムは苦笑し、ビードは呆れ顔になっただけで、止めてはくれなかった。
「何やってんだ、おまえら」
ハルタシュが焚き火に薬缶をかけてから、遊んでんじゃねえ、と二人を引き離す。膨れっ面になったナヒティを軽く睨んで彼は言った。
「こいつの歌を聴いてないのか? 魔法使いが出てくるだろ、あれは本当のことなんだ。こいつもちょっとだけ魔法が使える」
「……えぇ?」
ナヒティは疑わしげに眉を寄せ、確かめるようにアトゥリナを見る。当のアトゥリナは袖を整えながら、焚き火をつついて炎の世話をした。
「ハルも最初は大騒ぎしたからね、ナヒティが驚くのもわかるけど」
「余計なこと言うな」
唸ったハルタシュを無視して、アトゥリナはナヒティに向けて言葉を続けた。
「私達の国では、入門の儀式を済ませて指導を受ければ、誰でも魔術師になれるんだよ。まあ、誰でもと言っても実際には色々と制約があるけれど……ともかく、胡散くさいものでも、不思議で不自然なことでもないんだ。種も仕掛けもない、というか、魔術そのものが仕掛けなんだよ」
「じゃあ、あんたは……雨や雷を呼んだり、薔薇の木に花を咲かせたり、卵を鳩にして飛ばしたり、そういうことができるわけ? 仕込みも道具もなしで?」
「それは無理」笑ってアトゥリナは首を振る。「多分、本職ならいろいろ複雑な呪文を組んで、それらしいことはできると思うよ。天候を変えるのも、狭い地域で短時間だけなら可能だし。でも私はほんのちょっと魔術をかじっただけだから、やって見せろと言われても無理だね」
そう前置きしてから、彼は自国における魔術のあり方や、その技にどんなものがあるかを説明した。ナヒティはすっかり感嘆し、しきりに「へえ」「はぁ」と相槌を打つ。
「それじゃ、あんたの国に行ったら、あたいらみたいなのは用無しだね。うわぁ、こっちで良かった」
「舞い手は私の国でも活躍しているよ。いろんな行事に舞いはつきものだから」
アトゥリナは答え、束の間、懐かしそうなまなざしを焚き火に落とす。ハルタシュが薬缶の湯に茶葉を放り込み、食事の支度をしながら言った。
「それって宮殿の宴会とか、そういうのか? 酒とご馳走に音楽、美女が出てきてひらひら舞い踊るっていう」
「そういう場もあるけど、舞い手の一番の大舞台はやっぱり、建国記念祭とか新年祭とかいった大きな催しの場だね。宮殿の大広間や庭園で、大勢が集って舞うんだ。壮観だよ」
「……王子様なんだなぁ、おまえ」
改めてまたしみじみとつぶやいたハルタシュに、アトゥリナは苦笑するしかない。横からナヒティが、やや沈んだ様子で言った。
「そっか。そうだね。あたいよりずっと上手で、きれいな舞姫が大勢いたんだろうな」
「美女なんか見慣れてそうだよなー」
ハルタシュがにやにや笑って追い討ちをかける。アトゥリナは否定せず、うなずいた。
「それはまあ、王宮にも高地の離宮にも、美男美女は掃いて捨てるほどいたね。もともとの造作がそんなに美人でなくても、服と化粧で飾れば結構見られるようになるし。今から思い返せば、いちいち誰かを美人だなんて考えたりもしなかったかなぁ」
大真面目にそんなことを言って、うーん、と腕組みする。感覚が麻痺しているらしい王子様に、ハルタシュが呆れながら笑った。
「美女ばっかりで飽きたから、護衛はそんなんなのか?」
「……どういう意味だい」
途端にアトゥリナは、すっと冷ややかな目をする。ハルタシュはおどけて身を竦め、黙って控えているビードを見やった。
「王子様の護衛だってのに、ちっとも飾らせてないだろ。腕輪とか指輪のひとつでも邪魔になるってんじゃないだろうに、なんにも着けてないからさ。きらきらするもんはもう見たくもないのか、って」
「そういうわけじゃ……」
アトゥリナは口ごもり、窺うようにビードを見る。ハルタシュの言う通り、貴人の護衛であれば相応の身だしなみをしているのが普通だ。華美ではなくとも、主人の高貴さや財力を示すため、武具や装身具に金銀宝石が多少はついている。だがビードには一切ない。
少年二人の視線を受け、ビードは相変わらず真面目くさった顔のまま小首を傾げた。
「美しく装うことは私の務めではありません。だから身に着けなかっただけです」
「って本人が言ってるよ」
助かった、とばかりアトゥリナが言う。ハルタシュは妙な顔になって首を振った。
「おまえらの関係ってわかんねえな。護衛だって言うけどやけに、なんかこう……べったりだからよ、そういう仲なのかと思ったりもしたけど。でもそうだったら、ちゃんと女らしく扱うよなぁ」
ぶつぶつ。焚き火に向かって独り言のようにこぼされたものだから、その意味をアトゥリナが理解するのにしばし時間がかかった。話がすっかり終わったと思うほどの沈黙があってから、ようやく「ああ!」とアトゥリナが手を打つ。沸いた茶を各自に注いでいたハルタシュが、びっくりして茶碗を落としそうになった。
「なんだよ、いきなり」
「あ、ごめん。君が何を言いたいのか考えていたんだ。違うよハル、ビードは私の大事な友人だけど、そういう関係じゃない。閨の相手はちゃんと別にいたよ」
今度はハルタシュが固まった。焚き火の向こうではナヒティが目を見開き、真っ赤になっている。えもいわれぬ空気に、問題発言をした当人はきょとんとなって首を傾げた。
「あれ? ええと、何か誤解したかな。君は私とビードが床を共にし」
「わああ! なんだそれ、何しれっと言ってんだ! おまっ、信じられねえ!」
ハルタシュが真っ赤になって喚き、アトゥリナの台詞を遮る。その動転の理由がわからず、アトゥリナはただ目をしばたたくばかり。ビードとハイラムも、それが当然の環境で暮らしていたので、主の発言のどこに『信じられねえ』要素があったのか思い当たらず、揃って不思議そうにしている。
ハルタシュはナヒティを振り向き、同じように赤面しているのを確かめると、長々と息を吐き出してがっくりうなだれた。
「はぁ……おまえがいて良かった、こいつらと俺だけだったら、俺の頭がおかしくなるところだった」
「う、うん……」
ほかにどう応じようもなく、ナヒティも曖昧に同意する。
アトゥリナは二人の護衛と顔を見合わせ、
「何か失敬なことを言われた気がするんだけど」
気のせいだよねきっと、と肩を竦めたのだった。




