舞姫ナヒティ
キルフェの中央広場は端から端までを一目で見渡せないほど広かった。
中央の噴水から走る水路が広場を幾何学的に切り取り、所々に植えられた樹木が涼しい陰を提供する。水路縁の段差や木陰のベンチに腰掛けてくつろぎ、談笑する大勢の人々。通り過ぎる人の足も、ここでは少しゆっくりした歩調になるようだ。
屋台も出ているが、定期的な市の日でなければ数が少なく、ほとんどが飲食店である。広場は商売よりも、交流や情報交換のために使われているのだ。
水路による区切りを目安にして、芸人達は互いの邪魔にならないよう場所を空けて興行していた。大掛かりなものは街区を取り仕切る組合に料金を払って特別な許可を取る必要があるとかで、今は単独から数人程度の小さな集団がいるだけである。
「さて、今日も頑張って稼ごうか」
アトゥリナは笑顔でつぶやき、広場の片隅に小さな敷物を広げて胡坐をかいた。ビードとハイラムは、邪魔にならないよう、しかし安全を守れる程度の距離を保って、左右に控える。同じ場所で歌い始めて数日になるが、カウロンで懲りた彼は、歌う時には翻訳呪文を解いていた。実入りは多くないものの揉め事もなく、それなりに客もついている。
彼の珍しい容貌や楽器に興味を惹かれて身の上を尋ねてきた客には、西の海の彼方から難破して漂着したこと、故郷へ向かう船を探して半島まで行くつもりだと正直に話し、南に向かう隊商で同行させてくれそうな心当たりがあれば紹介して欲しい、と頼んだ。もちろん、まだ数日のこととて成果はない。
フェーレンから教わった陽気な曲をいくつか歌った後、アトゥリナは妙な気配を感じて手を止めた。誰かが見ている。通りすがりに興味と好奇の目をちらっと投げてゆく人々のものではない。辺りに視線を巡らせながら、彼は口の中で翻訳呪文をかけ直した。
ビードとハイラムが身構える音が小さく聞こえる。木陰から出てきた一人の少女が、まっすぐこちらに向かってくるところだった。
彼女自身も旅芸人なのか、くたびれた薄い外套を一枚羽織り、小さな背嚢を肩にかけている。茶色がかった金髪を一本の三つ編みにしており、耳には細い銀環が揺れていた。
「きれいな声だね」
アトゥリナの目の前まで来ると、少女はにっこり笑って言い、自分の荷物をぽすんと地面に置いた。
「ありがとう」
とりあえず礼を言ったものの、アトゥリナは手を差し出すでもなく会話を続けるでもなく、微笑のまま相手の出方を窺った。これは客ではない、むしろ自分を獲物にしようと狙っている手合いだ――そう直感したのだ。
少女は彼の警戒に気付いているのかいないのか、素朴で開けっ広げな態度で言った。
「あんた、西の海の彼方から来たんだって? でもさっき、オラーフェンの歌、歌ってたよね」
「知り合いに教えてもらってね」
「ふうん。じゃあ、あれも知ってるかな。『ワファリィの精霊歌』、らーららーららら、ってやつ」
さわりの一節を口ずさんだ少女に、アトゥリナは警戒を緩めて小首を傾げる。
「これのことかい?」
同じ部分を少し前後長めに演奏して聞かせると、少女はぱっと満面の笑みになって大きくうなずいた。日焼けしてそばかすの散った顔に、その笑みは無邪気な愛嬌をもたらす。
「そうそう、それ! ね、それ弾いてよ。歌わなくてもいいから、曲だけでも」
「……いいよ?」
何かたくらんでいる、と確信はしたものの、同時に深刻な害はないとも感じたので、アトゥリナは承諾して五弦琴を持ち直した。少女はその場に立ったまま、わくわくと期待のまなざしで見つめている。
曲が始まると、少女は自分でもふんふんと旋律を口ずさみながら、爪先で拍子を取り始めた。軽く目を閉じ、仰向いて。爪先だけだったのが、指先に、腕に、拍動が伝わっていく。ゆったりした前奏が終わって激しい主題に入った、その瞬間――少女が、化けた。
外套を大きくバサリとはためかせて脱ぎ捨て、両手を天高く突き上げたのだ。アトゥリナは危うく演奏を途切れさせそうになったが、瞬時に気を引き締めて指を走らせた。
軽やかに拍子を取りながら、少女の足が右へ左へ複雑に動く。曲の強弱に合わせて腕がしなり、手が打ち鳴らされ、爪先が頭よりも高く上がる。薄手の布を重ねたスカートが、動きに合わせて波打ち、ひらめいた。
凝った衣装や化粧をしているわけでもなく、飛びぬけて美人だというのでもない。にもかかわらず少女は見る者を魅了する。動作の大小と緩急、観客に向ける一瞥、瞬間の表情で心を掴むのだ。
――舞姫だ。
アトゥリナは見とれそうになるのをなんとか自制し、負けじと演奏に力を入れた。歌わなくてもいい、と言われたが、ただの伴奏に徹するのは癪に障った。瞬く間に客が寄ってきただけに、なおさらのこと。
彼は深く息を吸うと、曲が盛り上がる部分に合わせて歌い出した。華奢な体からほとばしる豊かな声に、今度は少女の方が一瞬、ぎくりとした。客から見えないようにアトゥリナを睨みつけ、舌打ちまでしてくれたが、アトゥリナは歌に集中しているふりで相手にしない。少女の舞に一段と熱がこもった。
共演というよりは競演であったが、客にとってはひたすら見応えのある出し物である。
どうにか破綻することなく楽と舞が終わると、わっと拍手喝采が起こった。少女は額に汗を光らせながら優雅にお辞儀し、スカートの表側の布をつまんで持ち上げる。そこへ、見物人から次々とおひねりが投げ込まれた。銅貨や白銅貨、安物らしいが指輪などの小間物まである。
少女は観衆の前を数回行き来して喝采に応え、やがて人垣がほどけてゆくと、それに紛れて自分も立ち去ろうとした。ずっしり重くなったスカートを器用に片手でまとめ、背嚢をひょいと拾い上げて。その態度があまりに当たり前のようだったので、アトゥリナは危うくぽかんと見送ってしまうところだった。
「ちょっ……ちょっと待って!」
慌てて呼び止めた時には、主よりもしっかり者の護衛が、少女の腕を捕らえていた。
まだ去るつもりでいる少女は素早くそれを振り払おうとした。肘を掴んだのが歳も近そうな娘だったので、大した力は無いと踏んだのだ。むろん見込み違いだった。冷ややかな目をしたビードの手は、小揺るぎもしない。
少女は顔をしかめて、逡巡するように広場の向こうを見やった。その視界を大男の体が遮ると、さすがに諦めてため息をつく。
「ちぇっ。大層なお供を二人も雇えるんなら、ケチケチしなくたっていいじゃないのさ」
ぶつくさぼやきながら、少女はくるりと向き直り、不機嫌そうに戻ってくる。アトゥリナは苦笑を返した。
「お供を二人も養わなきゃならないから、ケチケチしてるんだよ。人に伴奏させておいて全部持ち逃げするのは不誠実じゃないかな。七割とか六割とか交渉はしない。半分ずつにしよう」
「はいはい」
投げ遣りに言いつつ、少女はしゃがんでスカートを開き、アトゥリナの木皿に儲けを移していく。その手つきを、アトゥリナはじっくり見つめて感心した。
「すごいね。ちっとも不自然に見えないのに硬貨が選り分けられていくなんて、手品みたいだ。言い方が悪かったみたいだから訂正するよ、枚数でじゃなくて価値で半分ずつに」
「あーもう! 厭味な奴! 何よもう、調子狂うわね……ぼやっとしてそうなくせに」
「生憎だけど、こう見えて結構、勘が働く方なんだ」
アトゥリナはとぼけて応じ、次いで抑えきれずにくすくす笑いだした。
「君は面白いね。人をだしにしておいて謝りもしないけど、逃げも言い訳もしない。こっちの人は皆そうなのかい」
「皆がどうかなんて知らないわよ。ぼさっとしてて騙される方が間抜けだ、ってのは当たり前でしょ」
少女は答えて鼻を鳴らし、ほら分けたわよ、と手で示す。ぱっと見た限りでは、だいたい等分にされているようだった。もしかしたらまだ何か細工をしているかもしれなかったが、アトゥリナはそれ以上はこだわらず、礼を言って己の取り分を革の財布に移した。
そんな彼の態度に、少女は毒気を抜かれたのか妙な表情になった。改めてしげしげとアトゥリナを観察し、彼女は首を傾げて問うた。
「海の彼方から来たっていうの、もしかして本当なの?」
「えっ、嘘だと思ってたのかい。本当だよ、私達三人はデニス帝国の生まれで、こっちの大陸のことは偶然漂着するまで存在さえ知らなかったんだ」
「ちょっと待って、じゃあなんで言葉が通じてるの」
「ああ、それは魔術で」
「――はァ?」
少女は素っ頓狂な声を上げ、ひどく胡乱げに三人を順に見つめて、どの顔にも冗談や騙りの気配がないのを確かめると絶句してしまった。アトゥリナは微笑み、手を差し出す。
「改めて、初めまして。私は帝国の語り部、アトゥリナ=カゼス=イ・アフシャール。どうぞお見知りおきを」
「って……ええと」
少女は戸惑って忙しなく三人を見比べ、それから諦めた風情で握手を返した。
「なんか妙なのと係り合いになっちゃったなぁ。あたいはナヒティ。ただのナヒティだけだよ。一応、舞姫」
「よろしく、ナヒティ。私のこともただのアトゥリナと呼んでくれたら構わないよ。護衛の二人は、こっちがビードで、そっちがハイラム」
紹介された二人がそれぞれ小さく会釈する。まだ警戒の色を残す二人に、ナヒティはしかめっ面で礼を返したのだった。
ひとまず興行を切り上げて木陰のベンチで休憩にすると、彼らはお互いの情報を少しずつ交換した。アトゥリナが自分の身の上について、嘘ではないと重ねて誓うと、その返礼か、ナヒティは一人旅なのだと打ち明けた。
「危ないことをするものだね! 事情があるんだろうけど」
アトゥリナは驚き呆れ、次いで心配そうに顔を曇らせる。ナヒティは妙な表情になり、屋台で買ってきた果汁水を飲み干す動作でそれをごまかした。
「そりゃあね、好きでやってるわけじゃないよ。でもま、一人は一人で助かることもあるしね。何かあっても身軽に逃げたり隠れたりできるからさ」
あらぬ方を向いたまま、空になった容器をもてあそぶ。それから不意に彼女は、思いついたようにアトゥリナを振り返った。
「ねえ、しばらくこの町にいるんなら、あたいと組まない? さっきみたいに」
「構わないよ」
けろりと即答するアトゥリナ。訊いたナヒティの方が目を丸くし、ビードとハイラムも何やら言いたげな顔になった。周囲の当惑をよそに、アトゥリナは弦を軽く弾きながら機嫌良く続ける。
「君の舞は素晴らしかったけど、音楽無しでは成り立たない。私の方はそれなりだけど、君の舞があればずっと人目を引くし、お客さんも喜んでくれるみたいだからね」
「えっ……い、いいの? 本当に?」
「あれ、冗談だったかい」
「違う違う、本気! でも、だって」
さっき騙そうとしたばかりなのに、とでも言いたいのだろうか。今さらだな、とアトゥリナは苦笑し、屈託なく言い添えた。
「それに私も楽しかったしね。私の演奏で君が気分良く踊れるのなら、お互いにとって損にはならないだろう?」
「……あ、ありがと……」
礼を言ったナヒティの頬に少しばかり赤みが差す。意外と素直なところもあるんだな、とアトゥリナは内心可愛らしく思ったものの、口には出さなかった。言えばきっと怒られるだろう。と、そこへ、そんな遠慮憶測とは無縁の声が飛んできた。
「何やってるんだ、稼ぎもしないで女ひっかけて。それとも逆に口説かれてるのか?」
「あ、ハル」
顔を上げるとハルタシュがにやにや笑いでやって来るところだった。途端にナヒティは毛を逆立てた猫のように身構え、険しい目になって彼を睨む。
「何よあんた。大事な話の途中だよ、邪魔するならあっち行きな」
「あァ? おまえこそなんだよ、俺はそいつの連れだぞ。カモるなら別の相手にしな」
「もう『カモられ』たよ」
アトゥリナが機嫌良く言ったもので、ハルタシュは呆れ顔になった。
「ほんとに何やってんだ、おまえ」
「ハルは見逃して惜しいことをしたね。すごく綺麗な舞だったのにな。そうそう、彼女はナヒティ、舞姫なんだって」
「舞姫?」
ハルタシュは胡散くさげにナヒティを睨み、無遠慮に観察した。その顔から徐々に険が取れ、理解の色が浮かぶ。だが、彼の機嫌は斜めに傾く一方だった。
「……ムシュナの舞い手かよ、厄介なのにかかわっちまったなぁ」
頭痛がするとばかり額に手を当て、はあ、と盛大なため息をつく。
何のことかとアトゥリナは目をしばたたき、傍らのナヒティを見る。少女はぎゅっと唇を噛んで、言い返したいのを堪えているようだった。アトゥリナは自然な動作で手を伸ばし、軽く彼女の肩をさする。そうしながら、彼はハルタシュに問うた。
「どういう意味だい?」




