物語を記すこと
着いた初日にいきなり興行とはゆかず、アトゥリナ達は場所の下見と条件の確認だけを済ませた。ハルタシュの方はこの町にも慣れているので、ついでに数軒の店を回って、託された品物をいくつか売ってしまい、身軽になる。
夕方には、宿で久しぶりのまともな食事をとった。テペシュからキルフェまでの旅路では、水分をとことんまで飛ばした堅焼きパンや、塩辛い干し肉、顎がだるくなるほど筋張った干し野菜と果物、そんな食事とも言えない食事ばかりだったのだ。途中で一度、テペシュと似た村に泊まったものの、宿屋などは無く、屋根を借りただけである。
汁気のたっぷりある食事をとると、心身が隅々まで潤いを取り戻す。麦ではなく稗の類をどろどろに煮た粥には、芋や青菜や根菜の切れ端が無節操にまじっているが、味は無難だ。新鮮なチーズと果物がついてきたのが、アトゥリナには何より嬉しかった。少しだけ故郷の味を思い出させてくれる。
食事を終えて部屋に引き上げると、アトゥリナは手遊びがてら五弦琴の調律を始めた。途端に、満腹でひっくり返っていたはずのハルタシュが起き上がり、そばに寄ってくる。
「あそこ弾いてくれよ、あの、エンリル帝と敵の武将が戦う場面の」
嬉しそうに言って、勇壮な旋律を口ずさむ。拍子も音程もいい加減だが、幸いどの曲かわかる程度には特徴を捉えている。アトゥリナは笑い、気楽にその部分を爪弾いた。
「君は本当にこういう話が好きだねぇ」
「なんだよ、おまえは違うのか? あ、まさか、べったべたの甘ったるい場面が好きだとか言うなよ」
ハルタシュは嫌そうに顔をしかめた。建国叙事詩とは言え、名高い武将に守られる乙女だとか、若き皇帝とその妻となる王女のなれそめなど、恋物語の要素もしっかり入っているのだ。アトゥリナは苦笑しながら首を振った。
「特にどの場面ということはないかな。私にとってこの詩は、どの一節も、一言一句も、すべておろそかにできないものだから……まあ、旋律だけで言えばこれとか気に入っているけどね」
答えつつ、別の穏やかな曲を奏でる。ラウシールの主題だ。優雅で柔らかいが甘さはなく、神秘的な叡智と崇高さを帯びた旋律。一通り奏でたところで、ふと彼は手を止め、しげしげとハルタシュを見つめた。
「そういえば、私が聞かせてばかりで、君からは何も聞いたことがないね。英雄物語が好きだ、ってタハラハさんにも言われてたけど、君が知っている物語を教えて欲しいな」
「えぇー、俺、語りはできないぞ。あらすじぐらいなら教えてやれるけど」
「それでもいいよ。折角こんな遠い国に来たのに、手ぶらでただ通り過ぎるだけなんて勿体ないし……明日にでも、何か書き留められるものを買いに行くから、それから聞かせてくれるかい。覚えてしまえると思うけど、間違えたり混じったりしたら困るから」
アトゥリナの話を何気なく聞き流していたハルタシュは、一拍置いて、驚きに目を丸くした。
「書けるのか!?」
あまりに素っ頓狂な声だったので、アトゥリナはぎょっと怯んでしまう。ハルタシュは構わず、掴みかからんばかりに迫った。
「俺が話したら書いてくれるのか? ああそうか、王子様だもんな、書けるよな。すげえな!」
「え……ええっと」
騒ぎを聞きつけ、隣室からビードが素早く静かに入ってくる。アトゥリナは彼女を振り返り、助けを求めるように訊いた。
「ビード、何か書くものあったっけ? 紙と葦筆じゃなくてもいいんだけど」
「借りてくる!」
ビードの返事より早く、ハルタシュはアトゥリナを放り出してばたばた階下へ降りて行く。帳をくぐりかけたまま、ハイラムが目をぱちくりさせた。
「何の騒ぎですか」
短い一言は、話すのに不慣れなような声音だった。以前は大言壮語を次々と放っていた口も、いまやすっかり萎縮してしまっているらしい。
アトゥリナはそれに気付かないふりで、廊下を見たまま小首を傾げた。
「私が文字を書けると聞いて、急に興奮しだしたんだ。もしかしてハルタシュは、読み書きができないのかな」
「商売をするのにそれでは困ると思いますが」
はて、と応じたのはビードである。そうだよねぇ、とアトゥリナもさらに首を捻った。故郷と違って紙の書類が一般的ではないこの土地でも、品物の製造元を証明する書付や、品名と量を記した荷札などはあり、商売をするなら読み書きが必要であるのは明らかだ。
じきに戻って来たハルタシュは、宿屋の帳場で書付に使う石盤と白石を手にしていた。ほらほら、と押し付けられたアトゥリナは、恐る恐る確認する。
「ハル、念のために訊くけど、君だって読み書きはできるよね?」
「そりゃ、基本はな。けどなんて言うか、ほら……詩とか物語とか、そういうのはさ」
当然だろうとばかり応じたハルタシュは、途中で恥ずかしそうに言葉を濁し、ごまかすように肩を竦める。彼の心情はいまいちよくわからなかったが、アトゥリナはせっつかれるままに、不慣れな筆記具で叙事詩の冒頭を記し始めた。
石盤に、白い軌跡が優雅に踊り、魔法のように連なってゆく。紙と葦筆に慣れた手には難しかったが、なんとか見栄え良く文字を並べ終えると、彼は「ほら」とハルタシュに差し出して見せた。
「建国叙事詩の冒頭だよ」
と言っても、意味不明の記号にしか見えないだろうが……とのアトゥリナの懸念は、まったく余計なお世話だった。ハルタシュは目を輝かせて石盤を見つめ、
「おお、すげえ! 格好いいなぁ、すげーなぁ!」
ひたすら無邪気に感激する。彼の喜びようにアトゥリナは呆気に取られたが、ふと、自分が初めて建国叙事詩の原典を手にした時の興奮を思い出し、口元をほころばせた。
(ああ、そうか。書物……わけても物語は、特別だってことか)
識字率の高いデニスであっても、誰もが文章を書き記すわけではない。契約や会計などの実務書類、あるいは建築学や薬学などの手引きや学術書ならばそれなりに普及しているが、歴史書や物語はまったく別物だ。
この一冊に、建国の時代がそっくり詰まっている。
そんな、痺れるような感動を覚えたことを、今でもはっきり鮮やかに思い出せた。自然とアトゥリナの口調は優しいものになる。
「君だって、文字が書けるのなら物語を記すことは可能だよ。口で話すそのままを書き留めるのとは、少し勝手が違うけど」
「無理言うなよ。そんな暇ねえって」
ハルタシュは苦笑して、あっさり首を振る。何ら悪気のない言葉だったが、アトゥリナは急所を突かれたように声を飲み込んだ。生活するのに懸命な一般庶民には、対価を生み出さない労働に割く時間はない。多少の余暇があるにしても、紙とインクよりも安上がりで快楽の得られる遊びを選ぶだろう。
改めて自分が特権階級なのだと認識させられたアトゥリナは、複雑な気分で石盤を受け取り、布で文字を拭き消した。
「……帰れたら」
ぽつり、と口から言葉がこぼれる。
「君に教わった物語を、デニスまで持って帰れたら。ちゃんとした羊皮紙に清書して、本にするよ。立派な表紙をつけて、東の大陸の伝承として王宮の図書館に収蔵する」
風の噂すら届かない遠い異国であっても、彼に代わってささやかな夢を実現させたい。そう願ったアトゥリナに、ハルタシュは屈託のない笑みを見せた。
「へえ、そりゃ楽しみだな! じゃあ、面白くて格好いい話を選ばなくちゃな。何がいいかな。まあ、そんなに数はないから、この町にいる間に全部聞かせてやれると思うけど」
「うん。よろしくお願いするよ」
アトゥリナは胸がちくりと痛むのを隠すように、微笑を作ってうなずいた。
南へ行く隊商が見付かったら、ハルタシュとはお別れだ。自分達は去り、彼は今まで通りの日常の中へ、束の間の夢だけを手にして帰る。安定した地盤に立つ堅実な生活、けれど夢想を形に表す余裕などない毎日へと。
先の見えない旅を続ける自分達と、先が見えている日常に立ち戻る彼。
この時アトゥリナは、両者の落差はあまりに大きく、決して埋められないもののように感じていた。その認識がじきに覆されるとは夢にも思わず。




