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海を渡る風  作者: 風羽洸海
三章 レクスデイル
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厄介払い


 意識を取り戻した時、アトゥリナはすぐに状況が思い出せず、ぼうっとしたまま宙を見つめていた。ハイラムの声が聞こえて、ここは王宮だったかしらと訝る。その視界に、心配そうなビードがひょこりと顔を出した。続いてハルタシュが覗き込んできたので、ようやっとアトゥリナは、ここがどこで、何がどうなったかを思い出した。

「ああ、残念。自分の部屋で目が覚めて、美味しいお茶を淹れてもらえるのかと思ったんだけど」

 冗談めかして嘆息し、ゆっくりと上体を起こして頭を振る。ごわごわした毛皮の上に寝かされていたので、腕や首筋がちくちくした。

「状況は?」

 アトゥリナはうんと伸びをしてから、ビードに問いかけた。その肩越しにハイラムの姿が見える。薄暗い部屋の隅にうずくまっている彼は、あれから顔を洗ってさえいないようだ。ビードは主君の視線を追って、苦い声で答えた。

「幸いなことに、ひとまず袋叩きにされそうな状況からは脱しました。ですが、あまり良いとは言えません。殿下、申し訳ありませんが、ハイラムにも翻訳呪文をかけて頂けますか。余力がおありなら、ですが」

 いちいちハルタシュに通訳して聞かせるのも業腹だ、と険しい表情が物語っている。

 アトゥリナは余計なことは言わず、うなずいてハイラムを手招きした。膝でにじり寄ってきた大男に、軽く手をかざして呪文を唱える。効果が及んだのが感覚でわかり、アトゥリナはほっと息をついた。

「……それで、ハイラム? どうしておまえがここにいるんだい。この大陸に漂着したわけではないだろう?」

 自分達の場合は、無茶な『跳躍』を試みた結果、この大陸まで飛ばされたのである。魔術師でないハイラムが、嵐で遭難したからとてここまで流れ着くとは考えられない。

 そう考えて問うたのだが、ハイラムは見る見る両目を潤ませ、またぼろぼろと大粒の涙をこぼした。ビードがうんざりと天を仰ぎ、ハルタシュは困惑にそわそわする。

「申し訳、ありま……、っ……俺は、ヒスティアの海岸で……助けられて、なんとかデニスに戻ってから、……で、殿下が……見付からないと……」

 嗚咽まじりに彼が語ったのは、予想外のことだった。

 ハイラムは何人かの水夫と共に救助され、本来の目的地であった北国で療養した後、デニス本国に戻った。その間ずっと彼は己を責めていたが、帰国後はいっそうのこと、皇族や身内の視線に、これ以上ないほど苛まれることになった。

 嵐ではどうしようもない、ゆえに罰されることはなかったが、冷遇と言うのも生易しい状況だった。元々彼は、軍に仕官するにはいささか難があるゆえにアトゥリナの護衛につけられたのだ。庇護者でもある主君がいなくなった途端、あからさまに風当たりが強まった。だから、アトゥリナの遺体が見付かっていないと知らされた時、彼はやぶれかぶれに自ら罰を受けることを申し出たのだ。

 ご遺体が見付からないのであれば、どこか離れた岸に打ち上げられ、ご存命であるやもしれぬ。だから魔術師達よ、この俺を殿下の元へと送るが良い。そこが凍てつく海の底だろうと、異世だろうと構いはせぬ!

「なんて無謀なことを」

 聞いたアトゥリナは嘆息するしかなかった。行き先を確定せずに『跳躍』させるなど、ほぼ間違いなく時空の狭間に呑み込まれておしまいだというのに。

 だが魔術師達はやってのけた。行き先をアトゥリナという一人の人物に絞り、同じところへハイラムを送り込む術を組み立てたのだ。ただし彼らの予想をはるかに超えて、アトゥリナは近場の海底に沈んではいなかった。あまりにも遠い、魔術師らがまったく知りもしない大陸に、生きて存在していたのだ。

 そのため、ハイラムを『跳躍』させた術は歪み混乱し、正常に働かなくなった。結果、彼は一人で見知らぬ大地に放り出されることになったのだ。

「この村にたどり着いたのは、半月ほど、前で……、言葉の通じぬ俺に、何人かの者が、食べ物を恵んでくれました。しかし、俺は、……殿下、殿下を、探しに……っ」

 どうにかそこまで言うと、ハイラムは堪えきれなくなって突っ伏した。床に擦りつけた額の下から、嗚咽だけが漏れ続ける。

 船出の時とはまるで別人のようなそのありさまに、アトゥリナは言葉を失った。大柄な体躯は縮みこそせぬものの、げっそりとやつれ、髪も髭もぼさぼさ。何より、常に満ち満ちていたあの自信が、影も形も無い。本当にこれがあのハイラムなのか。驚きと共に、アトゥリナは罪悪感に打ちのめされた。人ひとりをこれほどまでに変えてしまった、その原因を作ったのは己だ。

(私が言い出したからだ。王宮を離れて北へ行く、などと。私が、船室にこもりきりで嵐を警戒しなかったから。まともな魔術も使えず、船を守る手助けもできなかったから)

 血の気が引いて、指先が冷たくなっていく。そこへ、ちっ、と舌打ちが聞こえた。ぎくりとアトゥリナは竦んだが、むろんそれは、彼に対するものではなかった。

 ビードが険しい顔でハイラムを見下ろし、鞭打つがごとく言い放つ。

「顔を上げろ、涙を拭え! 殿下をお守りすると誓った身でありながら、それを果たせなかったばかりか、当の殿下に憐れみとお許しを乞うとは情けない! 過剰なまでに抱いていた誇りはどこへ行った! 貴殿も栄えある帝国貴族の端くれならば、せめて殿下にこのようなお顔をさせぬほどの努力をして見せろ!」

「ビード、よすんだ」

 あまりに厳しい言葉を聞くに堪えず、アトゥリナは制止した。だがビードはじっと彼の目を見つめ、そこに何を読み取ったのか、微かに眉を寄せた。

「憐れんでおいでですか、殿下。運命に屈して自らの命を投げ捨てようとし、それもかなわず虫けらのように這いずって生き延び、みじめで理性も失いかけているこの男を、可哀想だから責めてくれるな、と仰せになるのですか」

「――っ」

 アトゥリナが息を飲み、ハイラムがぎくりとわななく。

 重く暗い沈黙が落ち、ややあってビードは、ふっと小さく息をついた。

「殿下がそれで良しとされるのなら、私もこれ以上は申しません。憐れな乞食と成り果てた同郷の者に手を貸し、この者が引き起こした面倒事の始末を引き受け、共に国へ帰れるように世話を見てやりましょう」

「っぐ……」

 ハイラムが歯を食いしばり、屈辱と怒りの呻きをこぼした。床についた手が固く握り締められ、ぶるぶる震えだす。アトゥリナは顔をひきつらせて、無意識に後ずさった。今にも彼が、獣のように吼えて襲いかかってくるのではないか、そんな恐怖に身が竦む。

「っ、くそおぉぉッッ!」

 咆哮は上がった、だがハイラムは拳を床に打ちつけただけで、立ち上がりもしない。

 アトゥリナはほっとして、まだ激しい動悸をなだめながら、ビードに言われたことを反芻した。深い呼吸ひとつの後、彼は手を伸ばしてハイラムの肩にそっと触れた。

「ビード、君の言うことも解るけれど、彼は今、両足が折れているようなものだよ。立てと言っても気力だけでは無理だ、支えがなければ。……ハイラム、おまえはもう充分苦しんだ。さあ、また歩きだすために顔を上げるんだ。おまえは私を守れなかったと言うけれど、私もおまえを守れなかった。だから、ここからはお互いに肩を貸し合って行こう」

 優しく励まし、アトゥリナは言葉尻で自分に苦笑する。

「もっとも、おまえの肩を借りようとしたら、私はぶら下がってしまうけれどね」

 後ろでハルタシュが失笑を堪え損なって、妙な声を漏らした。アトゥリナは大袈裟に傷ついた顔をして背後を睨む。彼が前に向き直った時には、ハイラムが慎重に身を起こしていた。うつむいたままではあったが、彼は居住まいを正し、改めて深く一礼した。

「お言葉、肝に銘じます。今一度、殿下の護衛を務めることを、お許し下さい」

「許す」

 アトゥリナは短く応じた。彼にはその言葉が必要なのだとわかったから、こちらこそ頼む、だとかいった余計なことは言わなかった。代わりに、少しおどけて付け足す。

「ただしその前に、顔を洗って、髪と髭を整えておくれよ。でないと、護衛されているのか、山賊に連れ去られかけているのか、自分でも混乱しそうだから」

「――はっ」

 ハイラムは再び頭を下げ、のそりと立ち上がった。表情はこわばり、まだ彼の精神が危うい縁に立っていることがありありと見て取れたが、彼は何も言わずに外へ出て行った。

 戸口をふさぐ帳がばさりと揺れ、足音が遠ざかっていくと、残された三人は一様に深く息をついた。ビードまでが安堵した様子なので、アトゥリナは思わず訊ねた。

「君のそれは、『やれやれ』のため息かい、それとも『良かった』のため息?」

 嫌な突っ込みを入れられた、とばかりビードは顔をしかめ、渋々の風情で答える。

「両方です。あの男には『やれやれ』ですし、殿下に害なされなくて『良かった』でもあります」

「害なすなんて、大袈裟な」

「取り乱して殿下を乱暴に揺さぶるくらいは、やりかねないと思いましたよ。仮に暴力はふるわずとも、恨み言や泣き言を山ほど吐き出して、殿下を窒息させたかもしれません」

「そうされても仕方がないよ。言い出したのは私なのだから」

 アトゥリナがうつむくと、ビードは呆れたように眉を上げた。

「そんなことを仰せられては、皇族の方々は一歩も動けなくなってしまいますよ。危険があると考えたなら、従うばかりでなくお諫めするのが我らの務め。そうしなかったのであれば、結果は他ならぬ己自身の責に帰するのであり、主君に償わせるなど心得違いも甚だしいというものです」

 理路整然と諭されて、アトゥリナはもう何も言えず目を落とす。そこへ、

「ふぇー……」

 間の抜けた嘆息がこぼれ、アトゥリナとビードは揃ってその主、ハルタシュを胡乱げに振り返った。彼は二人の視線にもなんら頓着せず、頭を振ってつくづくと言った。

「本っ当に、おまえ、王子様なんだなぁ。あんなでかくてゴツい奴に土下座されて、しかも『許す』とか! はぁー、この目で見てもまだ信じられない。まったく世界は広いよなぁ、いや本当に驚きだ」

「なんだか引っかかる言い方だけど、今までずっと、私達が嘘をついているとでも思っていたのかい」

 アトゥリナが顔をしかめると、ハルタシュは大袈裟に首を竦めた。

「いやいや、滅相もない。ただちょっと、実感してなかったってだけさ。おまえの弱っちさを見てりゃ、いいとこの坊ちゃんだってのはわかるけど。大人に命令する立場だってのは、ちょっとな」

「ああ……それは確かにね。私にとっては昔から当たり前のことだけれど、年長者に対して年少者が命令するのは、どうやら奇妙に見えるらしいから。それより、私はどのぐらい気を失っていたんだい? そんなに長くはないようだけれど、状況があまり良くないというのはどういう意味?」

 アトゥリナの問いかけに、ハルタシュとビードはちらっと視線を交わした。どちらも言いにくそうだったが、ややあってハルタシュが「あー」と曖昧に切り出した。

「悪いな。やっと村についてのんびりできると思ったろうけど、明日にはまた出発だ」

 大した問題ではないような口調だったが、言外の意味を悟ったアトゥリナは肩を落としてうつむいた。出て行け、ということだ。村人達の総意なのか、石もて追われる前に逃げ出した方が良いというハルタシュの配慮なのか。どちらにせよ、ここには留まれない。

「一日の猶予をもらえただけ、良しとするべきなのかな」

 つぶやいたアトゥリナの肩を、ハルタシュが勢い良く叩いた。

「そう落ち込むなって! どうせこの村じゃたいした稼ぎは期待できないんだし、キルフェの方が色々便利だしな。あ、キルフェってのはここからまた南に行ったとこにある、市場町なんだ。俺が案内してやるよ、心配すんな」

「良いのかい? これ以上、私達とかかわり合ったら」

 言いかけて、アトゥリナは言葉を飲み込んだ。ハルタシュの顔に痛みを伴う苦笑が閃いたから。アトゥリナは唇を噛み、ごめん、と小さく謝る。もう遅い。彼らをこの村へ連れてきたことで、ハルタシュも白眼視されてしまったのだろう。だが当人は、強引ながらも明るい声で励ました。

「王子様が余計な気を遣うなって! なぁに、どうせ皆、すぐに忘れるさ。俺達レクスデイルの人間は、いろんな部族がいるけど、総じて短気だからな。怒りっぽいけど、すぐ冷める。過ぎたことにはこだわらないのが身上なんだよ。キルフェまで往復するのは、ほとぼりを冷ますのに好都合ってわけだ。おまえは自分の足の心配だけしてろって」

「うっ……。足といえば、あの人はどうなった? ちゃんと治せたのかな」

 一瞬詰まってから、アトゥリナはごまかすように話をそらせる。ビードがわずかに首を傾げて、肯定とも否定ともつかない仕草をした。

「傷口は完全にふさがっていました。ですが、まだ何とも……。殿下が治療されるまでに大量に血を失ったようですし、数日するまでは結果がわからないでしょう。見る限り、命に別状はなさそうでしたが」

「そうか……」

「だーかーらー、辛気くさい顔すんな!」

 途端にハルタシュが背中を叩き、アトゥリナはケホッと咳き込んだ。抗議の目を向けたアトゥリナに、ハルタシュは屈託無く笑って見せる。

「まぁとにかく、おまえは大人しくしてな。必要なもんは俺と母さんで揃えるし、足の疲れを楽にする湿布も用意しといてやるよ」

 言うと彼は早速立ち上がり、外へ出て行った。残されたアトゥリナは途方に暮れて戸口を見つめる。ビードが静かに言った。

「彼の言う通りです。殿下がそのように沈んだ顔をされていては、彼までが『悪いことをした』と感じざるを得ないでしょう。彼も殿下も、責められること、恥ずべきことは何ひとつ無いのです。どうか愁眉を開かれますように」

「……うん」

 返す言葉もなく、アトゥリナは素直にうなずく。ひとつ深呼吸すると、彼はよしと気合を入れて立ち上がった。

「そうだね、私が落ち込んでいても何にもならない。少しでも村の人達の心証を良くしておかないと、ハルタシュが帰りづらくなってしまう。私にできることといったらこれしかないけれど」

 アトゥリナが五弦琴を取ると、ビードが先に外の安全を確認してから「どうぞ」と声をかけた。アトゥリナは戸口をくぐる手前で、ぎゅっと目を瞑る。

(私には歌しかない、だからこそすべてを託すんだ)

 それは、語り部として暮らしていた時には感じることのない使命感だった。

 過去の出来事、偉業や歴史を語り伝え広めることの大切さを教え込まれ、また自身もそれを使命と心得ていたけれど。こんな風に、己の想いやなすべきことをすべて、歌に込めようとはしなかった。

(よし、やろう)

 目を開き、意志を固めて一歩踏み出す。立ち止まっているべきではないのだ、現実のみならず心の中であっても。

 だが残念ながら、外に出るなり彼を迎えたのは、村人達の鋭い警戒のまなざしだった。アトゥリナはこほんと咳払いし、数人の女にびくりと竦まれて寂しくなる。

(咳払いひとつで皆を縮み上がらせるなんて、皇帝陛下でもなかなかできやしないのに)

 苦い可笑しみも感じたが、それを表に出せる立場ではない。

 そこかしこで数人ずつの集まりがひそひそ話していたが、皆、一様に口をつぐんだ。こっそり指で魔除けのしるしを作った者もいる。恐らく、厄介者の処遇をどうするか、今この時に災いが持ち込まれたことをどう解釈すべきか、あれこれ相談していたのだろう。

 アトゥリナはぐるりを見回し、広場まで行くのは諦めて、戸口の近くで頭を下げた。

「改めて、お詫びします。平穏を乱し騒がせ、怪我人を出し、皆さんを不安にして、申し訳ありません。……私は、故郷では語り部を務めています。こんな時にどうすれば一番良いのか、きっとレクスデイルの流儀でなすべき償いがあるのでしょうが、私は歌う他に術を知りません。せめてこれが、お詫びのしるしになればと願います」

 それだけ言うと、彼は小声で翻訳呪文を解除した。術の効果で問答無用に心の中まで届かせるのは、不誠実だと思ったのだ。

 その場に胡坐をかいて五弦琴を抱えると、静かに息を整えながら調律する。係り合いを厭った村人が次々家へ逃げ込んでしまったが、彼はめげなかった。

 閑散とした界隈に、異国の楽の音がゆっくりと広がっていく。カウロンで最初に歌ったのと同じ、故郷を想う歌だ。だがあの時よりも遥かに強い感情がこもっていた。続けてもう一曲、乾いた大地に水を乞うティリス伝統の歌を。そして、雪解けと春を喜ぶ高地の歌を、次々と高らかに歌い上げる。

 これほど故郷を懐かしく愛しく感じたことはなかった。歌いながら、アトゥリナの胸が熱くなる。あまりに当たり前で、自分の一部として認識してもいなかった大地が、空が、すべてが愛しく、それを紡ぐ言葉の一音一音が、かけがえのない宝石にも思えてくる。

(こんなに美しかったんだ)

 いつしかアトゥリナは母国語の響きを慈しんでいた。

 ――帰りたい。

 強く切ない慕情が、歌と旋律を巻き込み膨れ上がって、洪水のように広がっていく。

 四曲歌って、さすがに息が切れたアトゥリナは指を止めた。相変わらず辺りには誰もいない。だが、数軒の戸口でちらっと人影が動いた。

(聴いてくれた)

 ほっ、とアトゥリナの口元がほころぶ。そこへ、耳慣れた声が意味のわからない音を乗せて、飛んできた。おやと振り向くと、ハルタシュである。アトゥリナは慌てて翻訳呪文を唱えかけ、ふと思いついて小首を傾げたまま動きを止めた。

 ハルタシュが不審げな顔になり、何事かしゃべりながらこちらへやって来る。手には既に包みや袋など、旅支度の品をあれこれ抱えていた。

「キ・エティアナハシュフェル・リエト?」

 そんな風に聞こえただろうか。早口なので、どこが単語の区切りかよくわからない。アトゥリナは面白くなって、興味津々とハルタシュの言葉を待ち受ける。だが相手の短気をすっかり忘れていた。

「あいた!」

 ビシッと額を弾かれて、アトゥリナは悲鳴を上げた。ハルタシュがさらに速度を上げてまくし立て始めたので、もう響きを楽しむどころではなくなってしまった。「ごめん、ごめん」と苦笑しながら手振りで待つように頼み、呪文を唱える。

「歌を歌うのに翻訳呪文を解いていたんだ。なんて言ってたんだい?」

「はァ? 何やってんだよ、面倒くさい奴だな!」

 ハルタシュは呆れ怒ったが、例によってすぐにけろりと機嫌を直した。

「ってことはさっき、ベバとかなんとか聞こえたのは、おまえの国の言葉ってことか。へえ、変なの」

「失敬だね君は。そっちの言葉こそ、やたら忙しなくてカサカサ乾いて味気ないよ」

「なんだとぉ? けっ、偉そうに。やだやだ、王子様は。こっちはあれこれ旅支度に走り回ってたってのによ」

「ごめん、ありがとう……あっ! そうだ、何を用意してくれたのか知らないけど、代金なら私も」

 出せる、と言いかけたところでまた額を弾かれる。アトゥリナが渋面で睨みつけると、ハルタシュは肩を竦めて応じた。

「気にすんな。ここじゃ大体、カネじゃなくてモノで交換したり、お互い適当に融通したりしてるから、村の者じゃない上にすぐいなくなるおまえが買い物するのは無理だよ」

「え……、でも、それじゃ」

「キルフェではオラーフェンの銀貨銅貨も使えるから、あっちに着いてから頼まァ。そうだ、あのでかいおっさん、バハルん家の前でまた土下座してたぞ」

 さらっと言われ、アトゥリナはぎょっとなって腰を浮かせる。ハルタシュが首を振り、それを止めた。

「ちゃんと言葉が通じるようになったから、自分の罪は自分で償いたいっつってた。おまえがのこのこ出てったら、おっさんの面目が立たないだろ。怪我したバハル本人が、あれは事故だった、って家族をなだめてたから、心配ないさ」

「あぁ、あの人……意識が戻ったのかい」

「みたいだな。家ん中まで入って聞いたわけじゃねえけど、そんな感じだったよ。あのおっさんは、馬を借りておまえを探しに出たかったらしいけど、それが通じなくて揉めちまったんだな。詳しい話は後で聞けよ。とにかく、おまえが出て行く場面じゃないさ」

 ハルタシュの説明に、ずっと黙って立っていたビードが鼻を鳴らした。ハルタシュはちらっと彼女を見てから、腰を屈めてアトゥリナにささやく。

「なぁ、もしかしてこいつとあのおっさん、仲悪いのか?」

「……えぇと。仲が悪いというか、ちょっと反りが合わないというか、見解の相違があるというか」

 ごまかそうとしたアトゥリナの頭上から、氷塊のごとき一言が落とされた。

「心底嫌いです」

 潔いまでにきっぱりと、情けの微塵も感じられない声。ハルタシュは顔をひきつらせ、アトゥリナは曖昧な微苦笑で詫びるしかなかった。

「道中気苦労をかけそうだね、ごめん」

「うぅ……」

 ハルタシュが呻く。ビードは二人のやりとりが耳に入らないふりで、どこか彼方の空を眺めていた。


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