テペシュ村・予期せぬ再会
予定よりも二日余分にかけて、アトゥリナ達はテペシュの村に着いた。
遅れたのはビードの体調だけが理由ではなく、むしろアトゥリナのせいである。一日歩き通した翌日、足裏には血豆ができ、ふくらはぎはパンパンに腫れ、少しでも足を上げようものなら太腿に激痛が走るという、なかなかに悲惨な状態となったからだ。
ハルタシュには、それでよく半島まで行こうだとか考えられるな、と呆れられ、ビードには本気でおんぶされそうになりつつ、なんとか意地と見栄で歩き続けた。
同じ年頃のハルタシュが平気なのに、自分だけもう駄目だと音を上げるなど、悔しくてできなかったのだ。彼がいなければ、あるいはもっと年長であれば、アトゥリナは甘えていたに違いない。
丘陵は雨の少ない土地柄か森林が少なく、吹き抜ける風は、ともすれば倒れそうになるほど強い。ハルタシュが馬を風上に立たせてアトゥリナを守ってくれたが、それでもひ弱な足はしょっちゅうふらついた。
途中、草を食む山羊の一群とすれ違ったりしつつ、いくつもの丘を越えて。ようやく村らしき影が見えると、アトゥリナはその場で気絶するかと思うほど、心底安堵した。
「ああ、やっと着いた! これで当分、歩かなくて済むんだね」
盛大に息をついたアトゥリナに、ハルタシュは呆れ顔を見せて頭を振った。
「やっぱりおまえは、カウロンにいた方が良かったな。次に町に向かう時に送ってってやるから、大人しく帰ったらどうだ? その頃にはほとぼりも冷めてるだろ」
「冗談じゃない、同じ歩くなら少しでもデニスに近付く方向へ歩くよ。それにしても……随分その、変わった村だね?」
近付くにつれ、アトゥリナの顔が不審げになる。彼がこれまでに見た世界のどこにも、テペシュのような村はなかった。
「こっちじゃ、これが普通だよ」
ハルタシュが笑ったが、アトゥリナにはやはり、物珍しかった。カウロンの規模を小さくしたようなものだろうかと予想していたのに、まったく違うのだから。
建物が異様に低い。と思ったら、斜面や窪地を利用して、半分地下に隠れるように造られているのだ。入り口は皆、同じ方角を向いていた。恐らく、厳しい風を避けるためだろう。完全に地上に出ている建物はひとつとしてない。せいぜい家禽小屋ぐらいだ。
道沿いに流れる小川は村の向こうから続いており、川岸にはまばらな人影がある。洗濯や、炊事の支度をしているのだろうか。
「……? 様子が変だな」
先頭に立つハルタシュが小首を傾げた。アトゥリナはぎくりとする。
「物騒な話は勘弁してくれないかな、私は休みたいんだけど」
「おまえの都合なんか知るかよ」
ハルタシュは突き放すような返事をくれたが、悪意があってのことではないらしく、注意をすっかり村へ向けている。しょげたアトゥリナに一瞥もくれない。
「騒がしいですね」
ビードがつぶやき、眉を寄せた。風に乗って、怒鳴り声や喚き声が切れ切れに届く。アトゥリナもそれを聞き取り、表情を改めた。
「喧嘩か揉め事みたいだな。見物に行く前に、家で荷を降ろさないと」
ハルタシュが渋面で唸り、騒ぎの元へは近寄らないよう、集落の縁を回るようにして進んでいく。アトゥリナは変事の気配にそわそわしながらも、彼の後に従った。幸いハルタシュの家は遠くなく、じきに彼は立ち止まって戸口前の杭に荷馬をつないだ。
ちょうどそこへ、女が一人、慌てた様子で中から飛び出してきた。
「母さん!」
急いでハルタシュが声をかけると、女は振り返り、ぎょっと目を剥いた。
「ハル! なんなの、そいつらは!」
「えぇっ、『そいつら』はないだろ、客人だよ。そっちこそなんだよ、そんなに慌てて。何か騒がしいけど、関係あるのか?」
「客って……」
顔をしかめて視線を落とし、こんな時に、と舌打ちせんばかりにつぶやく。しっかり聞いてしまったアトゥリナは首を竦め、後ろからアトゥリナの袖を引いた。
「何だか悪い時に来合わせたみたいだね。しばらくここでじっとしていた方がいいかな」
「言葉がわかるの?」
応じたのは、ハルタシュの母親だった。ほっと表情を緩め、すぐにまた気を取り直す。
「それなら良かった。さっき、よそ者が面倒を起こしてね……言葉が通じないのか、頭がおかしいのかはわからないけど、それで揉めてるのよ。収まるまで引っ込んでた方がいいでしょうね。ああそうだハル、あんたアレ買ってきたわよね、アレ」
言いながら彼女は馬に積んだままの荷物を手早く解き始めた。
「アレってなんだよ」
わかんねーだろ、とぼやきながらハルタシュも手を貸す。じきに母親が見つけたのは、乾した薬草の包みだった。
「これで効くかどうか……」
眉を寄せて独りごち、説明はせずに走りだす。ちょっと母さん、と呼び止めるハルタシュの声も届かない。アトゥリナはビードに不安げな顔を向け、相談をもちかけた。
「ああ言われたけど、行ってみた方が良くないかな」
ビードは黙って眉を上げる。殿下の仰せとあらば従いますが感心はしませんね、という意味だ。はっきり口に出されるよりも堪える。だがアトゥリナはめげずに続けた。
「言葉が通じないのかどうとか言っていたし、もし異国の人が困っているなら、同じよそ者同士、助け合うべきだと思わないか? 幸い私だって、翻訳呪文ぐらいはまともに使えるんだから。揉め事が何にせよ、言い分を理解されないのじゃあまりにも不利だろう」
「いざとなったら、すぐに走れますか」
「うっ……ん、うん、走れる。走れるよ。多分。……いや、絶対」
まるで説得力のない返事だったが、それを言質にビードは諦めをつけた。短剣の位置を確かめ、鞄を持ち直して、いざとなったら村から逃げ出せるように備える。
「ハルタシュ殿、申し訳ありませんが少し付き合って頂けますか」
「おう、どうせ俺も野次馬に行こうと思ってたから構わないさ。おまえら二人だけで首突っ込んだら、さすがにまずそうだからな。まあ、いくらなんでも荷物は置いてけよ。手ぶらで逃げ出さなきゃならないぐらい、ひどいことにはならねーだろ」
ハルタシュは気軽に応じ、アトゥリナ達の荷物をほいほいと家の中に運んでから、こっちだ、と先に立って歩き出した。
間もなく、一軒の家の前に人だかりが見えてきた。
「殺しちまえ!」
「この恩知らずの下衆が!」
拳が振り上げられ、かなり剣呑な罵詈雑言が飛び交う。女や子供の泣き声も聞こえた。そして、渦巻く怒号に飲まれそうながらも、釈明する声が――
「違う、そんなつもりではなかったんだ、俺はただ……!」
涙まじりの訴えが聞こえた瞬間、アトゥリナは目を見開いてその場に立ち竦んだ。横でビードも、ぎくりとわなないて足を止める。
馬鹿な。アトゥリナの唇が、声にならない言葉を紡ぐ。まさか、今の声は。
「こんな事になるなんて、俺は……っ、くそ、くそぉっ! 頼む、聞いてくれ、誰か!」
悲痛な哀願は、翻訳呪文を通してではない、生の言語として頭に入ってきた。
取り囲む村人達は、そんな釈明など聞こえていないかのように、猛烈な怒りを浴びせ続けている。アトゥリナは青ざめ、震えながら、無我夢中で走りだした。
「すみません、通して、……どいてッ!」
喧騒に負けじと声を張り上げ、細腕で強引に人垣を掻き分ける。唸りと共に肘鉄を食らわされそうになったが、ビードがそれを受け止め、庇ってくれた。罵られても、どさくさ紛れに蹴られても小突かれても、アトゥリナは無視して突き進む。
やっとのことで人垣の内側に出ると、彼は息を切らせて絶句した。
「……っ!?」
取り囲まれていたのは、二人の人物だった。一人は怪我人。敷物に寝かされて、ハルタシュの母親はじめ数人の女が必死に手当てをしているが、血の染みが広がり続けている。
もう一人は、数人がかりで組み伏せられている男。黒髪は乱れ、村人とは明らかに異なる形の衣服は色がわからないほど汚れている。地面に押し付けられた顔は土埃にまみれ、鼻と口から血が流れていた。泣き叫びながら振りほどこうと暴れるさまは、狂人とみなされても不思議ではない。
いきなり飛び出してきた異国の少年に、何事かと村人が一時静まる。その空白に、アトゥリナの声が響いた。
「ハイラム……?」
愕然とつぶやかれた名前に、男はがばっと顔を上げた。鳶色の目を限界まで見開いてアトゥリナを凝視し、一呼吸の後、
「アトゥリナ様……、あぁぁ!」
獣の如く咆哮して、油断していた村人を跳ね飛ばした。そのまま彼は、つんのめるようにして駆け寄ってくる。アトゥリナが思わずたじろいで後ずさりかけたその足に、彼は平伏しながらすがりついた。
「殿下、殿下……っ! うあああぁぁ!!」
もはや言葉もなく、ひたすらの号泣。アトゥリナは、足元に丸まって震える背中を見つめ、無意識に小さく首を振っていた。
「ハイラム? 本当におまえなのかい?」
恐る恐る手を伸ばし、肩に触れる。
「申し訳ございません、申し訳……っ、お守り、できず、こんな……うう、うぅぅ」
「落ち着いて、泣くのはおよし。嵐が相手では仕方がない、とにかく私はこうして無事なのだし、おまえも生きていたのだから。頼むから足を離しておくれ。転んでしまうよ」
なだめすかして、がっちり掴まれていた足をどうにか引き抜く。ほっと息をついて顔を上げると、今度こそ彼は本気で逃げ出しそうになった。
強烈な悪意と敵意をむき出しにしたまなざしが、いまやアトゥリナにも無数に突き刺さっていた。彼が息を詰まらせて怯むと、先ほどまでハイラムを押さえつけていた男が、こめかみに血管を浮かせながら唸った。
「小僧、こいつの仲間か」
声が出てこず、アトゥリナは震えながらうなずいた。途端に激しい怒号が四方八方から上がる。アトゥリナはびくっと身を竦めたが、その拍子に、まだうずくまったままのハイラムにつまずいてよろけた。咄嗟にビードが腕を掴み、支えてくれる。
アトゥリナは急いで体勢を立て直し、背を伸ばした。うつむいた途端、敵意に押しつぶされるかと感じられたのだ。素早く息を吸い込み、両足を踏ん張る。
「聞いてください!」
耳にではなく腹に響く大音声。さすがにこれには、村人達もぎょっとなった。アトゥリナはその隙を逃さず、早口に続けた。
「私はたった今、ここに着いたばかりです。彼とは一月余り前、船が難破した際にはぐれました。彼が何かしたのなら、私が償います」
そこへ、焦った様子で人垣を押し分けてハルタシュが現れ、言い添えてくれる。
「長! それに皆も、こいつが言ったことは俺が保証する。こいつはずっとカウロンにいたんだ。この連れの女の他に仲間はいなかったし、二人共、何も悪いことはしてない」
「おまえが連れてきたのか、ハルタシュ」
さきほどの男が、やはり不機嫌にこめかみをひくつかせて唸った。睨まれたハルタシュが縮み上がる。その間にアトゥリナは、素早く怪我人のもとへと向かった。
「来るなっ、この悪魔!」
手当てしていた女が、威嚇するように身構える。ハルタシュの母親は、態度を決めかねて困惑していた。
「何をする気なの?」
「お手伝いできる、と思います」
アトゥリナは用心しながら答え、さらに近寄る。女達の頭越しに、寝かされているのが中年の男であり、その太腿に深い傷が峡谷のように開いて、赤い流れを伝わらせているのが見て取れた。アトゥリナは堪えきれずに身震いしたが、胃がひっくり返るのだけはどうにか抑えこんだ。一旦顔を背けて深呼吸し、意を決して再び向き直る。
腿の付け根に近い場所を縛ってあるので、少しは出血もましになっているようだ。しかし止まる気配は一向にないし、完全に止まるまで縛っていたら、足が使い物にならなくなってしまう。
アトゥリナは魔術の師から教わった治癒術の、基礎中の基礎を思い出しながら、ゆっくり傍らにしゃがんだ。鼻をつく血臭と生々しい肉の色に、ふたたび吐き気が強まる。だが強いて彼は、傷口を凝視した。
周囲のざわめきと怒鳴り声、抉るような視線が、すうっと遠のいてゆく。彼は静かに、過去からの声に耳を澄ませていた。
(殿下、人の体には太い血管がこのように走っておりまして、いわゆる急所とは――)
ぴくぴく脈打つ血管が、浮き上がるように見えてくる。
(病はまず診立てを正確にしなければなりませぬが、どこがどう傷ついたのかがはっきり見えている外傷であるなら、このような組織を修復してやることで――)
脳裏にはっきりと、術を織り込んだ陣が浮かび上がった。それを、眼前の傷に合わせて変更してゆく。知識が足りないところは呪文の構成を変え、融通が利くように工夫して。
慎重に、慎重に。細心の注意を払って術を組み立てる。世界に偏在する力を、精神を媒体として取り込み、意図した作用を発現させるのが魔術であるが、なかでも治癒術のように生命に働きかける場合は、特に厳密に行わなければならない。下手なことをすれば、癒すどころか悪化させてしまう。
組み終えた陣を意識の中で何度も確認し、精神の筆で丁寧になぞってゆく。実際に手を動かしているかのように、指先がピクッと反応したが、それ以外には身じろぎもせず、彼は術に没頭していた。傷口の上に、薄い光の模様となって魔法陣が現れる。それはまだ術者の目にしか見えない。アトゥリナは構成と呪文が間違っていないことを最後に今一度確かめながら、それを声に出して唱え、解放した。
キラリ、と光が瞬く。続いて陣の模様が次々に正しい色と強度で輝き、燃え上がった。
「ヒッ!?」
「いやぁっ、助けて!」
傍にいた女達が我先に逃げ出したが、既に術の発動は終わっており、支障はない。男達がアトゥリナに襲いかかろうとしたが、もちろんビードが剣を抜いて立ちふさがった。
「早まるな! 殿下はこの男を救おうとされているのだ、死なせたくなければ下がっていろ!」
毅然と言い放って村人達をねめまわし、最後に視界に入った人物に対して忌々しげに顔をしかめる。言うまでもなく、まだ這いつくばっているハイラムだ。
(どこまでも役に立たぬ男め、武門の誉れが聞いて呆れる)
唾棄したいのを堪えて目を背ける。村人が自分達への侮辱と取って怒り狂うと面倒だ。彼女は油断なく身構えながら、ちらっと背後の主君を窺った。
「アトゥリナ様?」
「……待って、もうちょっと」
返事はあったが上の空だ。アトゥリナは何かを探すように右手を宙にさまよわせたが、結局その何かを掴み損ね、もどかしげに指を動かしただけでぱたりと手を落とした。
鉛のごとき沈黙。それから彼は、ふうっと息をついた。残念そうな気配の漂う吐息に、怪我人の身内らしき女が両手を口に当てて嗚咽を堪える。だがアトゥリナはゆっくり立ち上がり、小さくよろけてから、姿勢を正して村人を見回した。
「一応、出血は止めました。どうにか傷はふさぎましたが、完全にはいかなくて……あとは、お願いします」
すみません、と頭を下げ、ふらふらと数歩離れる。それが限界で、アトゥリナはがくんと膝をついた。ビードがそれを抱きとめ、華奢な肩越しに怪我人の様子を確かめる。
「殿下、ご安心を。見る限り、傷は癒えております。さすがはアトゥリナ様ですね」
「……何か、何か足りない気がするんだ。あと少し……」
寝言のようにつぶやいて、アトゥリナはかくんと頭を垂れた。極度の集中で一気に消耗してしまい、それ以上は意識を保っていられず、どうなるか見届けられないまま暗い水底へ沈み込んでいった。




