護衛と王子
難を逃れて歩き続けるうち、いつの間にか道は坂ばかりになっていた。人馬の往来で踏み固められた道筋は、計画的に敷設されたものではないらしく、歩きやすい場所を探して迷いながら曲がりくねり、小さな丘をひとつ、またひとつと越えて行く。アトゥリナは幾つ目かの上り坂で、笑い出しそうな膝を押さえつけ、後ろを振り返った。
「うわぁ……!」
知らず、嘆声がこぼれる。いつの間にこんな遠くまで来たのか、自分の足で踏破したのが信じられない景色が広がっていた。眼下には今まさに登っているものよりも低い丘が三つばかりうずくまり、その向こうには平地が開け、さらに北には大河がきらめく巨体を横たえている。
「もうあんなに町が遠いよ」
滞在中は広いと感じたカウロンも、こうして見ると大地の隅にぽつんと生えた小さな苔のようだ。
「随分歩いたねぇ。今度こそ本当に休憩しないかい?」
アトゥリナは期待を込めて先頭のハルタシュに呼びかける。そうだな、とありがたい返事を聞くやいなや、彼はよろけながら道端に寄り、糸が切れたように座り込んだ。一呼吸遅れて、後尾を歩いていたビードが隣に腰を下ろす。
そこでふとアトゥリナは違和感をおぼえた。いつもなら彼女は、休む前に必ず一度は周囲を確認する。今は、その動作がなかった。
「……ビード?」
不審に思って声をかけた直後、ぎょっとなった。ビードは苦痛を堪えて歯を食いしばっていた。歪んだ顔は土気色で、汗が滲んでいる。両腕で腹を抱えるようにして、休むというよりは耐えきれずにくずおれたような姿勢になっていた。
「大変だ、まさかさっき怪我を?」
自分の方が真っ青になってアトゥリナが叫ぶ。ハルタシュも慌てて駆け寄ってきた。しかしビードは無言で首を振るだけ。傷を見せろとアトゥリナが肩に手をかけても、石になったように動かない。
「何を意地になっているんだ、早く手当てをしないと」
「……ちが……、傷は、ありません。ただ……」
ビードは苦しげな息の下から、さも屈辱とばかりの声を絞り出す。
「月の、ものが」
予想外の言葉を耳にして、少年二人は凍りついた。そして、
「ど……どどど、どうしよう、ハル」
「俺に訊くな!」
先ほどよりも激しく狼狽し、無意味におたおたした。当のビードが芋虫のように身を丸めたまま、切れ切れに呻く。
「自分で……対処は、できます。ですが、今、これ以上、歩くのは……」
そこまで言って耐え切れずに喘ぎ、口汚い罵りの言葉を吐き出す。
アトゥリナはどうすることもできず、手をつかねて途方に暮れる。背をさすろうとしたが、逆効果らしく拒絶されてしまった。
ただの役立たずと化した二人を無視して、ビードは野営用の毛布を引きずり出し、くるまりたいのか握りしめたいのか、半端な状態で身にまとった。そんな彼女に目つきで追い払われ、アトゥリナはその場を離れるしかなかった。気になって振り返り振り返りする度に、威嚇のような唸り声を浴びせられる。結局、十数歩ばかり遠ざかった上に、背中を向けて腰を下ろした。ハルタシュも逃げるようにやって来て横に座る。
気詰まりな沈黙が続いた後、ハルタシュが小声でささやいた。
「なんで女なんか連れてきたんだよ?」
「ついさっき助けられたことを、もう忘れたらしいね」
途端にアトゥリナは、険しい目つきになって彼を睨みつけた。ハルタシュは首を竦め、慌てて弁解する。
「噛みつくなよ。忘れちゃいないし、あいつがお荷物だって言うんじゃない。でも、なんで女なんだ? おまえの国じゃ、王子の護衛は女がやるって決まりなのか?」
男の護衛ならばこんな不便もなかろうに、と言いたいらしい。アトゥリナはため息をつき、ビードをちらりと振り返ってから答えた。
「そうじゃない。国を出た時は、別の護衛もいたよ。それにビードだって、今まではこんなこと、一度も……。私には見せないようにしていただけかもしれないけれど」
つぶやいて、唇を噛む。彼女が一人で耐えている間、それに気付きもしなかったのか。
(他にも一体、どれだけのことを私の目から隠しているんだろう)
わざわざ知らせて煩わせるには及ばないと、隠していることがきっとあるに違いない。それを良いことに、自分だけ安穏と過ごしてきたのだ。
(不甲斐ない)
己を責めるアトゥリナに、ハルタシュが見透かしたような問いを投げかけた。
「そもそも、あいつとはどういう関係なんだ? 護衛で友人だとか言ってたよな」
その声は単純に不思議そうだった。そういうのがおまえの国では普通なのか、と訝るように。ハルタシュにとっては見知らぬ異国のことだし、そうでなくとも高貴な身分の人々については、想像がつかないのだろう。
アトゥリナは瞼を閉じて、昔の記憶を舌の奥で転がすように味わった。
「……特別なんだ。私とビードは、……特別なんだよ」
他に言いようがなく、そう繰り返す。ハルタシュは黙って続きを待っていたが、それ以上の説明がないもので変な顔になった。
「特別って、つまり? 実は許婚だとか、それとも何か込み入った契約があるとか」
「ごめん、話せない」
アトゥリナは微笑み、首を振った。相手が渋面になったので、もう一度ごめんと謝る。
「君だからじゃない。他の誰にも……父上や母上にも、もっと親しい他の誰にも言えないことなんだ。私とビードだけが理解し共有している、言葉にするべきでないことだから。君にもひとつぐらいは、そういう秘密があるんじゃないかい」
怒られるのを覚悟で言ったのだが、ハルタシュは曖昧な顔で目をそらしただけだった。ちょっと頭を掻いて、照れくさそうな、複雑な表情で空を見上げる。思いがけず相手の心の深みに手を突っ込んでしまったと気付き、ばつが悪くなったらしい。彼が察してくれたので、アトゥリナはほっとして笑みをこぼした。
ハルタシュは雰囲気をごまかすように、実際的な口調を作って言った。
「そんなに大事なんだったら、魔術でぱぱっと治してやればいいじゃないか。おまえも使えるんだろ」
「できるならとっくにやってるよ」
今度はアトゥリナが渋面になった。なぜ、とばかり不審顔のハルタシュを、殴りつけたくなる。もちろん、本当に殴りたいのは自分自身なのだが。
「私は癒しのわざは使えないんだ。ものすごく基本的なことだけは教わったから、目に見えている浅い切り傷とか擦り傷ぐらいなら、何とかできると思うけれどね。でも、体の中のことや病気のことは何も知らないから」
「でも、ラウシールは怪我人でも病人でも、何十人でもいっぺんに治せたんだろ?」
「あんな人と一緒にしないでおくれよ。本職の魔術師だって、ラウシール様のようなことができる人はいないんだから、かじっただけの私じゃ話にならない。せめて痛みだけでも和らげてあげられたら良いんだけど……」
それすらも無理なのだ。彼が教わった魔術は、非常に限定された内容だけ。萎れてしまったアトゥリナに、ハルタシュが容赦ない一言をくれる。
「案外、役に立たないんだな」
言葉に質量があれば、アトゥリナは地面にめりこんだに違いない。頭が膝の間に落ち、しばし息もできなくなる。ハルタシュが慌てて肩を揺さぶった。
「ちょ、おい、息をしろ息を! そうじゃねえって、おまえのことじゃなくって」
「仕方ないだろう!?」
アトゥリナは肩に置かれた手を振り払い、皆まで言わせず声を上げた。彼は当惑したハルタシュから顔を背け、地面を睨みつけたまま弁解がましく続けた。
「普通、魔術師には中立公平が求められるんだ。本来なら入門の誓約を立てる時に、身分も肩書きも捨てなければならない。でも私は語り部だから、特例としてほんの少し――歌を深めるのに必要な程度だけ、教わることを許されたんだ。魔術師として一人前になってはいけない立場なんだよ」
そもそも過去多くの語り部は、魔術も剣術も自ら行うことはなく、ただひたすら憶え、歌い聴かせるという役目に徹してきた。それが嫌で、歌のためだと周囲を説得して、なんとか魔術だけはもぎ取ったのだ。剣も弓も馬も、手を傷めてはいけないという理由でろくに触れさせてもらえなかったから。
それでも結局、ものの役に立たない程度でしかなかったわけだが。
(自己満足にすぎなかった。ただ過去の木霊を繰り返すだけの存在ではないと、自分に言い訳するために学んだだけで……肝心な時に、誰一人助けられない)
悔しさと自己嫌悪に唇を噛みしめる。両手で己の腕に爪を立てて。だがしかし、彼の苦悩にハルタシュは頓着しなかった。
「そうか。じゃあ、しょうがないな」
何の屈託もなく言われてしまい、アトゥリナは胡乱な目つきをする。ハルタシュは肩を竦め、なんだよ文句あるのか、とばかり眉を上げた。
「役に立ってないのは俺も同じだし。そもそも、こんな時に役に立つ男がいたら驚くよ。いたたまれねえけど、しばらく小さくなってるさ。せいぜい足を休めとけばいいだろ、後であいつの荷物も持ってやれるぐらいにな」
ハルタシュはそう言うと、やれやれと足を伸ばして草の上にひっくり返った。小さくなる、どころか大の字である。アトゥリナは呆れて頭を振った。
「その通りなんだろうけどね……」
ぼやきつつ、また背後を振り返る。相変わらずビードはうずくまって呻いていた。
(本当に、何もできないんだろうか)
改めてつくづくと考えた時、地べたについている尻の冷たさから、カウロン滞在中の記憶がよみがえった。腹を下して苦しんだ数日間のことだ。寒い季節ではないのに、ちょっと風が吹くだけで腹がキリキリ痛んだし、その痛みを堪えるために、しばしば手近なものをとにかく何でも握りしめていた。
(せめてそのぐらいの役には立てるよな)
うなずくと、彼は腰を上げてビードのそばまで戻った。
「ビード、私がそばにいては邪魔かもしれないけど、それなら私のことは荷物か丸太とでも思ってくれて構わないから。痛みを紛らすのに殴りつけても、しがみついてもいいよ。ここにいさせておくれ」
返事はなかったが、言うだけ言って、背を向けて座る。じきに震える手が伸びてきて、上着をぎゅっと掴んだ。背中に爪を立てられたが、アトゥリナは気にしなかった。
上着だけだったのが、腕をつかまれ、やがて胴に腕を回して抱きつかれた。骨が軋みそうなほど締めつけられたが、彼は声ひとつ立てず、本当に丸太にでもなったかのようにじっと動かなかった。
――そうしてどのぐらい経ったか、気が付くと、腕の力が緩んでいた。背中に寄りかかっているビードの頭が、深くゆっくりとした呼吸に合わせて上下している。アトゥリナはそっと肩越しに声をかけた。
「……大丈夫かい、ビード?」
はい、とかすれ声が答える。アトゥリナは安堵の息をつき、用心しながら、彼女の手をさすってやった。冷え切っていた指先に、少しずつ温もりが戻ってくる。今度はビードも拒まなかった。
「申し訳ありません、殿下」
「気にしないで」
「ですが」
「誰より君が苦しんでいるんじゃないか、どうして謝る必要があるんだい。女性を連れているのに、何も考えていなかった私こそ、謝らないと。配慮が足りなくて、本当にすまなかったね」
「勿体ない、それこそ無用の謝罪です。実際、今まではこんなに酷くなったことはありませんでしたし」
「そうか。私に隠していたわけじゃないんだね?」
アトゥリナは思わず確認する。一呼吸の間があって、ビードが小さく笑った。
「殿下、あなたという方は……。ええ、隠し事などしていませんよ。やせ我慢も虚勢も、殿下には何ひとつ」
「それを聞いて安心した。これからも、つらくなったら必ず言っておくれよ」
「はい。殿下も」
「私もかい? 少しぐらい見栄を張らせて欲しいな。主の面目が立たないじゃないか」
おどけて抗議したアトゥリナに、ビードは微かな声を立てて笑うだけで、あえて何とも答えない。向こうの方で、ひっくり返ったままのハルタシュが、のんきに小さないびきをかいているのが聞こえた。




