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海を渡る風  作者: 風羽洸海
三章 レクスデイル
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11/24

出発早々盗賊

  三章 レクスデイル



 カウロンを発つその日になって、アトゥリナは初めて大河を渡った。

 この一月の間、彼はずっと北岸で暮らしていたのだ。南岸まで行かずとも稼ぎは得られたし、渡し賃を節約したかったし、――白状すると、船に乗るのが嫌だったから。

 しかし南に向けて出発するなら、是が非でも大河を渡らなければならない。今さらながらアトゥリナは、フェーレンがこのことを見越して、最初に北岸に着けたのではないかと恨めしく思った。

 船は大小様々だったが、ハルタシュは大型の筏を選んだ。連れている二頭の荷馬も一緒に乗せるためだ。アトゥリナはすっかり血の気が引いてしまい、水上にいる間ずっと、鞄をぎゅっと抱きしめたまま石のように固まっていた。その顔があまりにあんまりだったので、ハルタシュもさすがにからかえなかった。気を紛らしてやろうと話しかけても、まったく反応なし。結局、彼は困惑顔で沈黙するしかなかった。

 ようやく対岸に着くと、アトゥリナはビードに支えられ、老人よりもおぼつかない足取りで桟橋に移った。緊張を共に強いられたハルタシュも、思わずほっと安堵の息をつく。

「やれやれ、どうにか渡ったな。歩けるか? こっちだ」

 ハルタシュが先導し、アトゥリナはぎくしゃくと手足を動かす。しばらくして石化が解けた頃、行く手に城壁と門が見えてきた。衛兵が出入りする人を一旦止まらせ、検問しているようだ。アトゥリナは不安に眉をひそめて小声で問いかけた。

「出入りに規制があるのかい?」

 訊かれたハルタシュは怪訝な顔をし、それから、ああと笑った。

「心配すんなよ、ほとんどは形だけだ。一応、あそこが国境だからな」

「え、国境?」

「本当は大河を境にして、南側は俺達レクスデイルの民の土地なんだ。けど、前も言ったように、俺達は元々あんまり定住する性質じゃない。町へは売り買いに来るけど、そのためにわざわざ北岸まで船を頼むのは面倒だし、金もかかる。だからオラーフェンの商人が南岸に住み着きはじめた時も、便利になっていいやってぐらいで気にしなかったらしいんだ。けどそうすっと、オラーフェンの偉いさんにしてみれば、取れる税金が取れなくなっちまうだろ。で、南岸だけど町の中はオラーフェンの領地、ってことになった」

 すらすらとハルタシュは説明してくれる。どうやら彼らの間ではよく知られた経緯らしい。検問は、入る方に比べて出る者には緩いようで、アトゥリナ達三人は止められることもなく門を通過した。街道を少し進んでから、ハルタシュが城壁を振り返った。

「……でも、それも昔の話だ。俺達も少しずつ変わってきてる。レクスの部族が皆をまとめて、一応ひとつの国だってことになった後、向こうで都を築いているらしい。テペシュにも新しい取り決めが知らされたりして、窮屈になってきた。そのうち、この南岸の町も火種になるかもしれないな。俺が生きてる間でなきゃいいけど」

 ハルタシュは肩を竦め、迷惑そうな顔をする。アトゥリナは同情的に相槌を打った。

「人が住むところには必ず争いが生じる、ってわけか。どこでも同じだね」

「まあなー。ああ、辛気くさい話はやめようぜ、なんか聞かせてくれよ。あの話じゃなくてもいいからさ」

「歩きながら歌えって言うのかい?」

「できないのか?」

「鼻歌じゃないんだよ」

 アトゥリナはげんなりして呻いた。身分にこだわるつもりはないが、語り部としての自負ぐらいはある。歩きながら適当な歌い方で、何でもいいから聞かせてくれ、などと言われては面白くない。そんなアトゥリナに、ハルタシュは「面倒くさい奴だな」と失敬千万な感想をくれた。

「面倒はひどいよ。それより、君の話を聞かせて欲しいな。随分いろいろ積んでいるみたいだけど、これ全部が君の買い物じゃないよね」

「当たり前だろ、頼まれ物がほとんどさ。村で作った毛皮とか織物とか、あとは宝石なんかも少し、こっちに運んで売るんだ。で、代わりに鍋とか鋏とか、えーっと今回は薬も頼まれてたっけな。そんなのを仕入れて帰る。お使いに毛が生えたようなもんだよ」

 ハルタシュは鼻を鳴らした。商売の世界ではまだ子供扱いされているのが不満なのだろう。それでも一人で往復するのを許されているだけ、お使いよりはましということか。

「タハラハ叔父に言わせりゃ、俺なんかまだ勉強を始めてもいないヒヨっ子だとさ。季節や気候でものの値段はころころ変わる。どんな時に、どこで何が高く売れるか、安く買えるか、それをわかってなきゃ損するだけだ、ってな。言われなくても知ってるっての」

 ハルタシュは憤懣もあらわに唸り、宙に向かっていーっと歯を剥く。今回のカウロン滞在中にも、あれこれとお説教を頂戴したらしい。

 アトゥリナは商売の極意については触れないことにして、適当に相槌を打ちながら興味津々と荷馬の背中を眺めた。その馬の顔つきや体格も、故郷で見慣れたものとはかなり違う。そういえば街にいた時も、鴉が黒くないと知って仰天したものだ。彼の知っている鴉と言ったら全身真っ黒なものだったが、オラーフェンのそれは腹が白かった。

(所変われば、か。当たり前だけど、実際に経験すると驚きだなぁ)

 否、むしろハルタシュはじめ大陸側の人間にとっては、大海の彼方の見知らぬ国に、差異はあれども同じ馬や鳥がいるということの方が驚愕だろう。

(少なくとも、人間はだいたい同じで良かったよ)

 無意識にほっと息をつく。気付いたハルタシュが怪訝な顔をしたので、アトゥリナは、何でもない、と首を振った。

 その後は、ハルタシュが主にしゃべり、アトゥリナは時々質問を挟む程度になった。話題がなかったわけではない。ハルタシュに合わせて歩こうと思ったら、喋りながらではすぐに息が切れると学んだからだ。石畳で舗装された平坦な道ならまだしも楽に歩けるのだが、それも町の近くだけで、小さな川にかかる橋を渡った先は土のままだった。往来する荷馬車の轍が深々と残り、でこぼこで、意地悪な小石が所々に顔を出す。

 そんなわけで、おしゃべりは控えたにもかかわらず、彼はすぐに音を上げてしまった。

「ねえハルタシュ、そろそろ少し休まないかい?」

 返事があるまでに、一呼吸の間があった。そして、

「はァ!?」

 ありえない言葉を聞いたとばかり、ハルタシュは目を剥いて叫んだ。

「なんだよ、まだほとんど歩いてないだろ! おまえ赤ん坊かよ」

「……悪かったね」

 アトゥリナはむっとなって唸り、上がった息を整えながら額の汗を拭く。

 故郷にいた頃は、宮殿の敷地内を移動したり、城下町にこそっと遊びに行く程度しか歩かなかった。王宮内でさえ、あまり長距離の場合は輿が用意されたものだ。カウロン滞在中も、演奏場所を変える時には歩いたものの、一日の大半は座って過ごした。

 つまり彼にとっては、朝から昼までまったく休みなしに歩き通すなど、生まれて初めての経験だったのだ。赤ん坊というのもあながち外れてはいない。

 立ち止まってしまうと余計に疲れを感じ、彼は道の真ん中でしゃがみ込んでしまった。

「はぁ……叙事詩には旅の場面も出てくるけど、皆よく歩けるものだねぇ。ただ鞄ひとつ持っているだけでもつらいのに、銀の胸当てに鉄の盾だとか、冗談としか思えない。あぁビード、いいよ、自分の荷物は自分で持つから」

 やれやれと嘆息しつつ、アトゥリナは天を仰いだ。故郷より北にある土地だとは言え、季節はもう夏だ。照りつける日光が肌に痛い。この一月、外で弾き語りをして太陽にも親しみ、以前より体力がついたと密かに満足していたのだが、とんだ自惚れだったようだ。

「おい、大丈夫か?」

 さすがに心配になったようで、ハルタシュが気遣う。アトゥリナはおどけたまなざしを返し、よいしょ、と声を出しつつ立ち上がった。

「大丈夫じゃないけど、仕方がないね。歩くよ。ああ、故郷だったら、馬を引け、の一言で馬どころか輿が用意されたんだけどなぁ」

「そんなだから赤ん坊並に弱っちいんだよ、王子様。とにかく、ちょっと無理してでも今日は頑張って歩いてくれ。あんまりこの辺りにぐずぐずしていたくないんだ」

 罵倒するかと思いきや、ハルタシュは意外なことを言い出した。アトゥリナはきょとんとし、目をしばたたきながら周囲を見回した。

「なぜ?」

「追い剥ぎがよく出るんだよ。町に逃げ込んだら、オラーフェンの法が幅を利かせてる。本当なら俺達の掟では、盗賊は腕を斬り落とすことになってるけど、町だとそれが通用しないんだ。だから、奪うだけ奪って城壁の向こうに逃げる奴が多い」

 ハルタシュは忌々しげに唸り、頭を振る。だがそれを聞いたアトゥリナの方は、発言者の意図とは外れたところで眉をひそめた。

「……腕」

 つぶやくように繰り返し、自分の右腕をさすった。いきなり腕を落とすとは、苛烈な掟もあったものだ。気が荒い、粗野なヤギ飼い、などと評されるのには、それなりの理由があるらしい。

「私も気をつけなければね。片腕では演奏できない」

「はぁ? 何言ってんだ。おまえに強盗ができるなら、俺は空を飛ぶぞ。盗みと殺し以外の罰は厳しくないし、おまえはよそ者なんだから少々ヘマしても許してもらえるさ。ま、心配する必要があるとしたら、嘘つきの罰かな」

 言葉尻でハルタシュがにやりとしたので、アトゥリナは顔をしかめた。

「ここがデニスなら、語り部を嘘つき呼ばわりした君は今すぐ投獄されるところだよ」

「残念ながら、ここはレクスデイルなんだ。俺はあの歌が嘘だとは言ってないぞ。むしろ本当だったらいいと思ってる。格好いいよなぁ、英雄王に、偉大なる青き魔術師! 俺もそんな時代に生きてたらなぁ」

 憧れに瞳を輝かせ、ハルタシュは馬追いの笞で風を切る。アトゥリナは微笑んだ。

「君なら、ひとかどの武将になれたかもしれないね」

 言いながら、相手が帯に差している小刀に目をやる。緩く反った形の実用的なものだ。彼の視線を追い、ハルタシュは肩を竦めてその柄を叩いた。

「これは武器ってより、野営の道具だよ。人間相手に使ったのは、二、三回だけだ。追い剥ぎに出くわして抜いたら、さっさと逃げてった。まあな、いくら掟で腕を落としていいってことになってても、その場でとっ捕まえてズバッ、なんて、よっぽどいい武器を持ってる腕利きでもないとできやしないさ」

「ふうん。そういうものなんだね。叙事詩のようにはいかないか」

「ありゃ特別だろ。王様がぶん回す剣と、この小刀じゃ、比べ物にならねえって」

「使い手もね」

「てめえ、人が言わずにおいたことをっ」

「うわぁ!?」

 生意気な、とハルタシュが手を伸ばし、アトゥリナの頭をくしゃくしゃにかき回す。荒っぽい扱いに、アトゥリナは思わず悲鳴を上げた。

 ――と、その時。

「殿下、後ろへ!」

 ビードが鋭く叫び、素早く前へ出る。手には既に抜き身の短剣が光っていた。

 ぎょっとなって少年二人が竦んだと同時に、馬がいななき、足を止めた。そして、

「おい、あれが女であっちは坊主みたいだぞ」

「なんだよ、ヒョロい護衛とガキと嬢ちゃんで楽勝かと思ったら」

「どっちにしても、いいカモだろ」

 侮った軽口を叩きながら男達が現れ、道をふさいだ。ちょうど緩い曲がり角にさしかかっており、貧相ながらも木立があって、見通しが悪くなっていたのだ。

 咄嗟にアトゥリナは背後を振り返ったが、そちらにも二人ほどの姿が見えた。まだ草むらに隠れているかも知れない。風体はあきらかに宿無しごろつきの類で、手にしているのは棍棒や小刀など、安っぽいものばかりだ。武装した商人を襲うのは無理でも、女子供の一行なら、頭数だけで充分だと踏んだらしい。

「言った端から……」

 ちっと舌打ちしてハルタシュは小刀を抜く。馬の手綱は左手でしっかり握ったままだ。アトゥリナは初めてのことに焦り、むやみにきょろきょろする。

「慌てるな。はぐれないように走ることだけ考えろ。前を突き破るだけだ」

 ハルタシュがささやき、アトゥリナはごくりと唾を飲んでうなずいた。

 じわりと包囲が狭まる。ビードが油断なく敵を睨みつけながら、静かに問うた。

「ハルタシュ殿。盗人は腕を落とす掟だと、さきほど伺いましたが。片腕ですか、両腕ですか」

 途端に盗賊どもはふきだし、下卑た笑いを上げながら口々に嘲った。

「強がってんなよ、雌犬が。おとなしく荷物を置いて行きゃ、てめえは見逃してやるよ」

「まぁ是非にも相手して欲しいってんなら、遊んでやらなくもねえがな」

「おい本気かよ、趣味悪いぞ。こんなブス」

 卑猥な侮辱を浴びせられても、ビードは眉ひとつ動かさない。むしろアトゥリナの方が怒りに顔を歪めた。だが彼女を庇護すべき主人の立場でありながら、今の彼には言い返すことさえできない。応酬すれば調子付かせるだけだし、何より、間合いをはかっているビードの邪魔をしてしまう。

 せめて何か役に立ちそうな術はないかと焦って考えを巡らせたが、自分だけ逃げ出したがる心臓のせいでさっぱり答えは見付からなかった。

(甘かった)

 今さらながら、己の見通しの甘さにほぞを噛む。せめてハイラムが一緒だったなら、見た目だけでこうも侮られることはなかったろうに。

「ツイてねえな」

 横でハルタシュが、アトゥリナの考えをなぞるかのようにつぶやいた。

 と同時に、ビードが素早く踏み込んだ。

「あっ――」

 不意を突かれた盗賊が、咄嗟に腕を上げて我が身を庇う。だが遅い。鋭い突きが閃き、血が噴き出した。油断しきっていた男は獣じみた叫びを放ち、思わずのように傷口を押さえる。次いで顔を歪め、悪夢かと疑うような目で己の利き腕を凝視した。

「……っ? う、腕ぇぇ!」

 動かせない。肩からだらりとぶら下がった、ただの肉塊かのように。

 男は痛みと動転のあまり、狂ったように泣き叫ぶ。腕一本、切断せずとも『落とす』ことは可能だと見せつけられて、盗賊達が青ざめた。

 軽く舞うようにして再び間合いを取ったビードは、素早く反撃に備えて身構えた。

 圧倒的優位に立っていたはずの盗賊どもは、しかし、予想外の先制攻撃を受けて脆さを露呈した。退路をふさいでいた二人が、いきなり役目を放棄して逃げ出したのだ。

「冗談じゃねえ!」

「やってられっかよ、くそ!」

 捨て台詞を残し、わき目もふらず走り去る。冷静に考えれば獲物の戦力は女一人で、彼らはその背後にいたのに、その有利を逃走に使うことしか思いつかなかったらしい。

 アトゥリナはほっと小さく息をついた。むろんその間もビードは正面の敵から注意をそらしていない。鋭い視線で、残った盗賊を一人一人射抜いてゆく。

 緊張に耐え切れず、一番前にいた男が雄叫びを上げた。続いて残りの仲間も喚き、小刀や棍棒を振りかざして攻め寄せる。

「走って!」

 ビードが指示すると同時に前へ飛び出し、迎え撃つ。引っ張られるように、アトゥリナとハルタシュも駆けだした。

 まともな戦士を相手取ったことがないのか、盗賊の攻撃はまるでなっていなかった。ビードは軽々と棍棒をかわし、がら空きの胴に強烈な蹴りをくらわす。よろけて大きく一歩後ずさった男は、仲間にぶつかって邪魔をし、もつれ合って倒れた。

 ビードが空けてくれた逃げ道を、二人の少年は一目散に駆け抜けた。

「どけどけぇ!」

 ハルタシュは闇雲に小刀を振り回して威嚇する。効果があったかどうかは怪しいが、ともかく一呼吸の後には、三人は盗賊の囲みを突破していた。

「止まらないで!」

 ビードが鋭く叫ぶ。背後を振り返っていたアトゥリナは、慌てて走ることに専念した。

 このまま逃げ切れるか、と一度は楽観したものの、じきにアトゥリナはその望みを捨てた。あっという間に息が上がり、脇腹が燃えるように痛みだす。彼が遅れるのを見た盗賊は、群からはぐれた仔を襲う野獣さながら、勢いづいて猛追する。

「殿下!」

 ビードがすぐに、ハルタシュを行かせて戻って来た。アトゥリナは己に舌打ちすると、彼女に向かって首を振って見せた。重い鞄を肩から外し、手放す前に未練を断ち切るかのごとく一度抱きしめ、小さく一言つぶやく。

 それから彼は、振り返りざま追っ手の先頭めがけて鞄を力いっぱい投げつけた。

「おぁっ!?」

 面食らった叫びが上がるのを無視し、アトゥリナは前へ向き直って手を伸ばす。ビードがそれを掴み、軽くなった主をほとんど引きずるようにして再び走りだした。

「おいッ、荷物……!」

 道の先からハルタシュが悲痛な声を上げる。アトゥリナは怒鳴り返した。

「命の方が大事だろ!?」

 どうやらその言葉は、追っ手の心にも届いたらしい。それもそうだ、ひとつは収穫があったのだから、とばかりに足を止める。その隙に三人は、さらに先へ逃げた。

 とはいえ、完全に互いが見えなくなるまでは、アトゥリナの息がもたなかった。

「も……、駄目、ちょっ……ま……」

 切れ切れに懇願し、心配そうに背後を振り返りながらも、道端の草むらに倒れこむ。ビードが傍らに立ち、盗賊の動きを警戒しながら主人を気遣った。

「今のところ追ってくる様子はありません。少し息を整えて下さい。また向かってくるようなら、私が殿下をおぶって走ります。無礼をお許し頂けるなら、ですが」

「それは、いくら、君でも……無理じゃ、ないかな」

 全身で息をしながら、アトゥリナはなんとか気力を振り絞り、体を起こす。ハルタシュが馬をなだめながら、悔しそうに盗賊の影を睨んだ。

「おまえの全財産だろ、あんな奴らにくれてやるなんて! くそっ! 村に着いたら弁償するから、何が入ってたのか覚えとけよ」

「……? 君に、そんな責任は、ないよ」

「おまえが自分の大事な荷物を手放したから、俺の荷は無傷で済んだんだ。埋め合わせをするのが筋ってもんだろ。その……なくしたもの全部、ってわけにはいかねえけど」

 ハルタシュは屈辱を堪えるように、眉間に険しい皺を刻み、歯を食いしばっている。アトゥリナは意外な気分でそれを見上げていたが、ようやく少し息が整うと、よろけながら立ち上がった。

「君の誠意はよくわかったけど、本当にそんな必要はないんだ。五弦琴はちゃんと、別にしてあるから無事だし……とにかく、今のうちにもう少し離れよう。でないと」

 言いかけた語尾に、乾いた破裂音と悲鳴がかぶさった。

 ハルタシュがぎょっと立ち竦むと同時に、

「ああもう、言わないことじゃない!」

 嘆きつつアトゥリナが掲げた両手の中に、捨てたはずの鞄がいきなりぽんと現れた。

「なっ……な、な」

 何がどうなっているのか。驚倒しているハルタシュをよそに、アトゥリナはさっと鞄を肩に提げ、逃げる態勢に入った。

「盗難よけの術だよ! 早く逃げないと、怒り狂って追いかけてくる」

「心配はなさそうですよ、殿下」

 ビードが静かに言葉を引き継いだので、勢い込んでいたアトゥリナはたたらを踏んだ。

「え?」

 困惑して聞き返した彼に、ビードは無言で、ほら、と後方を指差す。盗賊達が、なにやらよくわからないことを泣き叫びながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「……あれ?」

 アトゥリナは呆気に取られた。力の抜けた肩から鞄が滑り落ちたが、それを拾うことも忘れ、ぽかんと立ち尽くす。

「てっきり、小賢しい真似を、とか、余計に怒らせたと思ったのにな」

「殿下の御威光のなせるわざでしょう」

「まさか」

 アトゥリナは失笑し、それでやっと緊張が解けて、半笑いのままその場に座り込んだ。そこで彼はハルタシュの凝視に気付き、ああ、と理解した。

「そうか、この国にこんな魔術はないんだね。だからあんなに驚いて、……多分、呪いだとか天罰だとか、そんな感じに恐れおののいて逃げ出したんだ。そうだろう?」

「おまえ……」

 ハルタシュはかすれ声を漏らし、ごほんと咳払いして、体面を取り繕った。動揺していないふりを装い、興味津々とアトゥリナのそばにしゃがんで鞄を眺める。だが手を触れる勇気までは出ないらしい。

 アトゥリナは笑いがこみ上げるのをなんとか堪え、「大丈夫だよ」と安心させた。

「盗難よけの術はね、事前にかけておいて、自分がそばを離れる時や、何かで目を離す時に、鍵となる短い呪文を唱えるだけで発動するものなんだ。術をかけた本人以外の者が、持ち主からある程度以上遠くまで持ち去ったり、あるいは勝手に口を開けて中身を取ろうとしたりすると、その瞬間に持ち主の元へぽんと『跳躍』してくる。便利だろう?」

 彼の説明にも、ハルタシュはまだとても納得のいかない顔をしていた。言葉もなく、ただじっと、何が見えるというわけでもなかろうに鞄の紐を睨んでいる。アトゥリナは不安になり、眉をひそめた。

「……歌で聞くのと、実際に目にするのとでは違うかい」

 やはり魔術など忌まわしいと感じられるのか。こんな恐ろしい異邦人を、村へ連れては行けないと思うのか。そう具体的に尋ねるのは、さすがに怖くてできなかった。アトゥリナが身をこわばらせて返事を待っていると、ハルタシュはしかめっ面で小さく唸り、じろりと剣呑な目をくれて言った。

「違うだろ」

「…………」

「ただぽんと戻ってくる、だけじゃないだろ」

「え?」

「おまえ、性質の悪い罠も仕掛けてたんだろ。ただ消えてなくなっただけで、あの連中が子供みたいに泣き叫んで逃げ出すわけないだろが。何やったんだ、この極悪人!」

「極悪って、ひどいな! 当たり前の仕掛けだけだよ。大きな音がして、手にちょっと火傷させるぐらい、可愛いものじゃないか!」

 思わずアトゥリナは憤然と言い返した。ハルタシュは胡散くさげに片眉を上げて、「本当かぁ?」などとことさら意地悪く疑って見せる。アトゥリナは渋面になった。

「本当に極悪だったら、自分の持ち物に他人が触っただけで、その手が三日ぐらいかぶれて真っ赤に腫れて痒くて夜も眠れなくなるような術をかけるよ。なんだったらハル、試しに経験してみるかい」

「遠慮する」

 ハルタシュは大袈裟にのけぞり、両手を鞄から遠ざけた。

「おまえの荷物には指一本触れないぞ。重くてもう歩けないとか言われても、絶対に代わりに持ってやったりしない。馬に運ばせるなんてもってのほかだ。だからせいぜいその細腕で頑張れよ、王子様」

「……どうして君はそう、いちいち私を挑発するのかな。言われなくても自分で持つよ」

 うんざり気味に応じ、アトゥリナはやれやれと立ち上がる。ハルタシュはわざとらしく慌てて離れ、これ見よがしに指で魔除けのしるしを組んで突きつけた。本気でないのはわかるが、されて気分の良いものではない。アトゥリナは彼を睨みつけてから、小さく首を振った。

「その手つきを見せられたら、注意しろってことだね。どう思う、ハル? さっきのような魔術を私が使って見せたら、君の村の人は皆、今の君みたいな態度をとるかな」

「まあ、そうだろうなぁ」

 ハルタシュはあっけらかんと応じ、指を解いて肩を竦めた。馬の様子を確かめながら、軽い世間話のように続ける。

「少なくとも、遠巻きにはするだろうな。石を投げて追い出すことはないだろうけど、進んでお近付きになろうってのは少ないと思う。だから俺もおまえのことは、歌い手として紹介するつもりだよ。先に少しは知り合いになっておけば、後から、実は呪い師でした、って言ってもそんなにびくつかれることはないだろうしな。……でも、村にも色んなやつがいるから。何人かにこれ、やられる覚悟はしとけよ」

 言って彼はもう一度、独特の手つきを見せる。アトゥリナは寂しい気分でため息をついた。しょぼくれたその肩を、ハルタシュが勢い良く叩く。

「気落ちすんなって! そんなことより、あの歌、皆にも聞かせてやってくれよな。タハラハ叔父は馬鹿にするけど、あの手の物語が好きなのは俺だけじゃないんだ。呪い師……じゃなかったな、魔術師か。それがあんなに活躍するのは珍しいから、最初はちょっと違和感あるかもしれないけどさ、それで皆がラウシールのことを気に入ったら、おまえが魔術師だってばれても逃げられる心配はしなくていいだろ」

「魔術師だなんて言えるほどのものじゃないよ」

 アトゥリナは否定したが、それでも少し気分が軽くなって微笑んだ。

「でも、そうだね。魔術師だろうと語り部だろうと、ここの人々にとって私が得体の知れないよそ者であることに変わりはないね。だからまず歌で好きになってもらえたら良いだろうな」

「ああ。おまえのあの歌なら、気に入らない奴はいないって!」

 贔屓の引き倒しだろうが、ハルタシュは明るく笑ってそう請け合う。アトゥリナは改めてつくづくと、こうして自分を信じてくれる友人ができた幸運を噛みしめた。

「……ありがとう、ハル。君がいてくれて心強いよ」

 真摯な想いをこめて感謝を告げる。むろん返ってきたのは予想通り、

「痒っ! やめろ気色悪い!」

 いつもの如くの悪態であったが。


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