学園編 99 「古武術」
森を抜け目の前に広がっていた山を登ること丸一日分。ついにソラとユークリウスは雲の上に到達した。雲は三〇〇〇メートル弱の所にあると言われるが、一歩踏み間違えれば転落しそうな断崖絶壁を、指先でしか掴めない凸凹を必死に手繰り寄せ登った先は霧に隠された岩の山々だった。
「魔物は出なかったね」
「魔物がいるなんて言ってないけどな」
安心するユークリウスにソラは軽口をたたく。その様子にユークリウスはくすりと笑った。
「もう、大丈夫そうだね?」
「気にしても仕方ねえことが理解できただけだ」
標高数千メートルのつり橋を、白い息を吐き出しながら歩いていく。こんなところに架かっているのも架けた者も謎なつり橋だが、二人が乗っても揺れはするが壊れそうには無かった。
「ここから京には五日もかからず着けるんじゃないかな?」
今まで歩いてきた日数と地図の大きさで判断したユークリウスは言う。しかし、ソラは首を横に振って答えた。
「俺たちは多分、ここまでだ」
「え?なんで?」
ソラの言葉に驚いたユークリウスは一度ソラの方を向く。それから、ソラの向いていた方向を見てそれを察した。
霧が出て視界の悪い山の上に、像のような老人が一人。無論、ユークリウスにはその老人の実力を測ることが出来ない。だが、まだ豆粒ほどにしか見えないというのに庇うように自らの背にユークリウスを隠すソラにその老人の実力を測ることが出来た。
「ユー、絶対に離れるな」
「……わかった」
橋を渡り終え二人はその老人と相対する。よく見ると、その老人は片足で立ち空気イス状態で瞑想をしていた。
「こいつだ、山の下から感じた嫌な気配はこいつだ」
苦虫を噛み潰したような表情でソラは老人を見る。餓鬼のようにやせ細った体からは一切のエネルギーを感じられない。しかし、ソラの本能はこの老人が危険だと叫んでいた。
二人は老人から目を離さずに老人の後ろに回る。すると、老人が話し出した。
「待たれ、少年たちよ」
その声は全く老いを感じさせずどこか別の世界のもののようにも思えるものだった。
老人は体勢を変えずに二人に前に来るように言う。二人が前に行き老人に合わせて腰を下ろすと老人はついに動き出し同じく地面に腰を下ろした。
「旅人じゃな?」
流麗なチャイ語で話す老人は二人に砦はどう超えたかと問いかける。何でも、この老人は違法に砦を越えた者をこの先に行かせないように番をしている人物らしい。ここ四十年ほどはずっと山に籠っているという話だった。
「僕たちは海を越えてきました」
「では、なぜここを通った。直接船で東端に着ければよかろう?」
この老人は二人が船で来たのだと思ったらしい。言い方も悪かったか、とユークリウスはすぐにそれを訂正した。
「全毒の海を越えてきました」
「ほぅ……それは」
よほど驚いたのか老人はゆっくりとした動作で顎髭を触ると鼻から息を吐く。少しの間無言になりやがて大きく息を吸うと話し出した。
「なおさらわしはお主らをここより先に行かせることはできん。おそらくお主らがここを越えれば生きて帰れなくなるか、国が一つ滅ぶことになる」
「そんな大げさな」
「大げさに言わねば若者は止められぬ」
「一理あるな」
若く人生経験のない者ほど過小評価しがちなのは良くある話だ。この老人はこの先に行ってはいけないのだという事を強調したかったのだろう。
「だからって、俺らはこんなところで止まるわけには行かねえんだ。どうしたら、どうすれば通れる?」
どうしたら通してもらえるか、そう聞こうとしてソラは言い直した。通してもらうのではなく通る方法を聞くことで、ソラは実力行使をしてでも通りたいという事を言外に老人に伝えたのだ。
ソラの言葉に老人は黒曜石を思わせるその瞳をソラの背後のユークリウスに向ける。それから、大きくため息を吐くと片足で立ち上がった。
「良かろう、わしを越えてゆけ」
老人は手のひらを外側に向け構えを取る。それを見てソラはどこか兄のリクの構えに似たものを感じた。日本神話がインド神話を起源とするように、兄の我流の構えの起源を見ているような、より洗練されたその構えはソラに尊敬さえ抱かせた。
「構えよ」
老人がソラに言う。ソラはユークリウスを下がらせるとリクに習った通りの構えで迎え撃つ。老人はそれを見てさらに体を強張らせた。
「西のカラテかね?」
この場合、大陸のことではなくジーニンの西側の事を言っているのだろう。しかし、ソラのこれは西のカラテでも前世での空手でもない。小さいころに空手を習っていたリクの我流だから空手も含まれてはいるのだろうが。
「西のじゃねえよ」
ソラが返す。それに何を思ったか老人は型組手でもするかのように綺麗なフォームで拳を放ってきた。それを不審に思いながらもソラはいくつかの攻撃を受け流していく。
いつの間にか警鐘を鳴らしていた本能は真意の窺えない老人に疑問符を浮かべ、攻撃しようにもする気になれずただ攻撃を受け流すのみとなっていた。だからこそ気が付かなかったのだろう。気付けば限りなく実戦に近い速度での組手を始めていた。
ソラがそれに気づいた瞬間、老人はソラの体を軽々と持ち上げると投げ飛ばした。
「なんでそんなごぼうみたいな腕で俺を投げ飛ばせる」
ソラはすぐに立ち上がると老人に問いかける。しかし、老人はゆっくりと手招きをするのみ。
体で覚えろという事か。ソラは再度地面を蹴ると走り出した。




