第3話 助ける理由
第3話を読みに来ていただき、ありがとうございます!
少しずつ動き始めた物語。
これからタツヤたちに何が待ち受けているのでしょうか。
今回も楽しんでいただけたら嬉しいです!
足音が、一つ多い。
俺とリンが歩くたび、少し遅れて靴底の鳴る音が返ってくる。
足を止めた。
音も止まった。
「……どうしたの?」
「俺、いつから三人パーティーになったんだっけ」
「何言ってるの。二人でしょ」
「だよね。じゃあ、もう一人はどこにいるんだろう」
リンがゆっくり振り返る。
シャッターの下りた地下街。長い通路の先には、薄暗い非常灯が点々と続いている。
人影はない。
「……怖いこと言わないでよ」
「ごめん。俺もちょっと怖い」
「だったら、もっと怖くない言い方を考えなさい」
「気のせいでありますように、とか?」
「……それなら、まだましね」
リンは氷話杖を持ち直した。
俺も焔銃剣の柄を握り直す。
ここまで倒したのは、スクラップラットが五匹、ブレードモスが三匹。
たった八匹。それなのに腕は重いし、ふくらはぎには嫌な張りがある。昨夜ベンチで眠ったせいもあるだろう。
怪我は安全区域で治る。でも疲労まで消えるわけじゃない。
そして、入ってしまったダンジョンは攻略するまで出られない。
この世界で一番親切に教えてほしいことほど、説明が雑なのはどういうことだろう。
「タツヤ、顔が険しい」
「今、ダンジョンの運営に苦情を考えてた」
「送る先はあるの?」
「ない。だから俺の中で審議中」
「……元気そうでよかったわ」
呆れた声だったけれど、リンの肩から少し力が抜けた。
そのとき、頭上で金属が擦れた。
カリ、カリ。
今度は気のせいじゃない。
◇ ◇ ◇
角を曲がった先は、十字路になっていた。
正面は幅の狭い通路。左右には閉まった店舗が並び、中央寄りに太い柱が一本立っている。
天井の案内板は片側の金具が外れ、斜めに垂れ下がっていた。
その下に、金属片を背負ったネズミが四匹。
案内板の周囲には、刃のような羽を持つ蛾が四匹。
「……また八匹」
「さっきと同じ種類ね」
「うん。でも、歓迎の仕方はだいぶ雑だな」
蛾が羽を震わせた。
銀色の破片が飛び、柱の横の床に突き刺さる。
俺は咄嗟にリンの前へ腕を出した。
「ちょっと下がって」
「分かってる。……でも、私も戦うわよ」
「もちろん。むしろ、頼りにしてる」
リンが一瞬だけ俺を見る。
「……そういうの、急に言わないで」
「褒めるのに予約が必要だった?」
「今は集中して!」
はいはい、と言いかけて飲み込んだ。
敵はもう、こちらを見つけている。
足元を確かめる。
天井の配管から水が滴り、正面の通路には薄い水たまりが広がっていた。左は床が割れ、右にはショーウインドウのガラス片が散っている。
走り回れば、すぐに足を取られる。
だったら、走り回らなければいい。
「リン。ネズミを水たまりまで引きつけたい」
「……氷で滑らせるのね?」
「正解。説明を省略できて助かるよ」
「さっきの戦いで、少しは分かったもの」
リンの声には、かすかな自信が混じっていた。
ただ、問題は上にいる四匹だ。
俺たちがネズミを相手にしている間、頭上から切り刻まれたら終わる。
「俺が前に出る。リンは柱の陰から――」
「……待って」
リンが斜めの案内板を指した。
「あの蛾、看板のところでは一列になって飛んでる。羽がぶつからないようにしてるのかも」
見上げる。
確かに、広い天井では四方へ散っているのに、案内板の下だけは同じ高さを順番に通っていた。
「……よく見てるね」
「あなたの観察眼が、ずっと頼りになるとは限らないでしょ?」
「ごもっとも」
リンが小さく笑う。
作戦は決まった。
ただし、うまくいくかどうかは別の話だ。
先頭のネズミが駆け出した。
「来る!」
「まだ!」
俺は柱の手前で銃剣を下げたまま待つ。
二匹がこちらへ一直線に突っ込み、後ろの二匹が左右へ散ろうとした。
水たまりまで、あと二歩。
頭上で蛾の羽が鳴った。
銀の破片が頬をかすめる。
……まずい、上も速い。
「タツヤ!」
「リン、今!」
「――氷針!」
放たれた氷の針が濡れた床を貫く。
水たまりの中央に白い霜が走り、そこへ踏み込んだ先頭のネズミが滑った。
一匹が転び、後ろの一匹がぶつかる。
残る二匹も行き場を失い、わずかに足を止めた。
「よし!」
焔銃剣の刃に炎をまとわせ、横へ薙ぐ。
転倒した二匹が光へ変わった。
だが、三匹目は凍った仲間を踏み台にして跳び上がる。
「……っ!」
刃を戻すには近すぎた。
銃身を横にして身体を守る。
鋭い歯が金属へ食い込み、衝撃で腕が痺れた。
押し返したところへ、四匹目が足首を狙う。
その瞬間、横から氷が走った。
「――氷針!」
短い針がネズミの前脚を打つ。
噛みつきが外れた。
「タツヤ、左!」
「助かった!」
銃口を下げ、炎弾を撃つ。
足元の一匹が光にほどける。最後の一匹は噛みついた銃身を離さなかったが、柄をひねって床へ落とし、刃の腹で押しとどめた。
赤い光が弾ける。
《スクラップラット四体を撃破しました》
「……やった!」
「まだ上が――」
言い終わるより先に、金属の羽が降ってきた。
ガキンッ!
銃剣で受けた一撃が、腕を跳ね上げる。
四匹の蛾が、案内板の下へ殺到していた。
俺はリンを柱の裏へ引き寄せる。
「今度は私が先に言うわ」
「何を?」
「……私を信じて!」
リンは柱から半歩だけ身を乗り出した。
案内板の真下。先頭の蛾が羽を畳んだ瞬間を狙う。
「――氷針!」
一本の針が左の羽に当たった。
蛾は回転し、すぐ後ろの一匹へ激突する。
二匹がもつれて床へ落ちた。
「見事!」
「感想はあと!」
俺が落ちた二匹へ踏み込もうとした、そのとき。
案内板が、ぎしりと大きく揺れた。
残る二匹が羽を打ちつけている。
外れかけた金具が、天井から抜けた。
「リン、離れろ!」
案内板が落ちる。
金属板は柱へぶつかり、火花とともに通路を塞いだ。
俺とリンの間に、斜めの障害物ができた。
「タツヤ!」
「そっちは大丈夫!?」
「大丈夫。でも、一匹こっちに来た!」
リンの声がすぐ横から聞こえる。
姿は見えない。
案内板の向こうで、刃の羽が唸った。
……俺が戻るには、柱を回り込むしかない。
「リン、柱の内側へ! 無理に倒さなくていい!」
「……ううん!」
氷の砕ける音。
「私だって、できる!」
青白い光が、案内板の隙間から閃いた。
直後、魔物の影がこちらへ飛び出してくる。
リンの氷で姿勢を崩した一匹だった。
「……ありがとう!」
俺はそのまま銃剣を振り抜く。
魔物が光になった。
残る三匹。
落下した二匹が起き上がろうとしている。その上を、最後の一匹が滑空する。
……一直線には来ない。
上の一匹がこちらへ向かった瞬間、俺はわざと半歩下がった。
魔物は追ってくる。
狙いどおり、落ちた案内板の縁へ翼が触れた。
カンッ!
体勢を崩したところへ、炎弾を撃ち込む。
二匹目。
だが、床の二匹はすでに動き出していた。
左右から、刃の羽が迫る。
どちらか一方しか受けられない。
「リン!」
「分かってる!」
案内板の反対側から氷針が伸び、右の一匹の羽を地面へ縫い止めた。
俺は左へ身体をひねり、もう一匹の腹を銃剣で払う。
光が弾けた。
最後の一匹は、氷を引きちぎって飛び上がろうとしていた。
銃剣を構え直す。
けれど、その必要はなかった。
「――氷針!」
リンの二本目の氷が、魔物の胸を貫いた。
青白い光が、静かに消えた。
《ブレードモス四体を撃破しました》
《ドロップアイテムを各自の所持品に収納しました》
しばらく、二人とも動かなかった。
俺は剣先を下ろす。
足が震えている。
「……リン」
「……何?」
「今の、かなり格好よかった」
案内板の向こうから、息を切らした声が返ってきた。
「……そういうのは、ちゃんと顔を見て言いなさいよ」
回り込むと、リンは柱にもたれていた。
額に汗が浮いている。
それでも、少し得意そうに笑っていた。
「じゃあ、改めて。助かったよ」
「……私も。ありがとう」
俺たちは顔を見合わせた。
そこへ、腹の音が鳴った。
……俺のだった。
「命懸けの戦闘直後に、すごい音ね」
「生存確認に便利だと思わない?」
「……あなたって、本当に」
リンが吹き出す。
今まで閉まったままだった店の並び。その一番奥に、橙色の灯りが見えた。
「……ねえ、タツヤ」
「うん」
「まさか、あれ……」
古い木の扉。
丸いランプ。
窓の向こうには、テーブルと椅子が並んでいた。
《CAFÉ ORBIT》
《ダンジョン内休憩エリア》
《飲食サービス:無料》
「……カフェ?」
「みたいだね」
「どうしてダンジョンの中に?」
「それを聞ける相手がいるといいんだけど」
俺は扉の前で足を止めた。
窓ガラスに、二人の姿が映っている。
その少し奥。
一瞬だけ、見覚えのない影が横切った気がした。
振り向く。
誰もいない。
「……タツヤ?」
「……いや、何でもない」
今、確認しに行く気にはなれなかった。
◇ ◇ ◇
店内は、拍子抜けするほど普通だった。
木目のテーブル。柔らかな照明。壁に掛かった時計。
コーヒーの香りまで、ちゃんとする。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
カウンターの女性が微笑んだ。
頭上には《NPC》の表示。
それがなければ、梅田のどこかの喫茶店だと言われても疑わないだろう。
俺は入口が見える席を選んだ。
リンは向かいに座り、肩から力を抜く。
「……生き返る」
「大げさね」
「さっきまで羽で細切れにされかけてたからね」
「……それを聞いたら、大げさとも言い切れないわ」
店員が水を運んできた。
「すみません。この店って、いつから営業しているんですか?」
俺が尋ねると、店員は笑顔のまま答えた。
「本日も、いつもどおり営業しております」
「……昨日も?」
「お客様がいらっしゃる限り、お待ちしております」
質問の答えになっていない。
「外の魔物は、ここへ入ってこないんですか?」
「店内では、どうぞごゆっくりお過ごしください」
店員は丁寧に頭を下げ、カウンターへ戻っていった。
リンが声を潜める。
「……会話になってるようで、なってないわね」
「それでも、ちゃんと聞き取ってはいるみたいだ」
「変な世界」
「そこだけは、今日一番の共通認識かな」
入口の表示どおり、料金は無料らしい。
俺たちはコーヒーとカフェラテ、それからチーズケーキを注文した。
皿が運ばれてくると、リンはようやく表情を緩めた。
「……美味しそう」
「お腹すいてた?」
「少しね。でも、それより……」
リンはフォークを取ったまま、しばらく皿を見ていた。
「こういう時間、久しぶりだなって」
俺はコーヒーに口をつける。
苦い。
いつもの味がする。
さっきまでネズミと蛾に命を狙われていたのが、嘘みたいだった。
「……大学の近くに、よく行くカフェがあったの」
リンがぽつりと言った。
「東京の?」
「ええ。授業が終わると、いつも同じ子に連れていかれてた」
「友達?」
「……一ノ瀬詩織。詩織っていう子。私の親友だったの」
名前を口にしたとき、リンの目元が少しだけ柔らかくなった。
「その子がね、『今日の反省会をしましょう』って、毎回言うのよ」
「真面目な人だったんだ」
「全然。ただケーキが食べたいだけ」
「……なかなかの策士だ」
「しかも、自分が一番大きいのを注文するの。それで私が文句を言うと、半分くれる」
「最初から分ける気だったのかもしれないね」
「……そう。たぶん、そういう子だった」
リンは笑った。
けれど、フォークの先が途中で止まった。
「試験の前になるとね、詩織は『リンがいれば何とかなる』って言うの。自分で頑張りなさいって何回も言ったのに、全然聞かなくて」
「それ、相当信頼されてたんじゃない?」
「……そうだったら、よかったんだけど」
最後の言葉だけ、少し違う声だった。
カップがソーサーに触れ、乾いた音を立てる。
「私、あの頃は……明日も当たり前に会えると思ってた」
湯気の向こうで、青い瞳が伏せられた。
「大学は、途中で辞めたの」
「……うん」
「いろいろあってね。それから、人の目を見るのが怖くなった。すれ違う人が笑っているだけで、私のことを話してるんじゃないかって」
俺はコーヒーカップを置いた。
「ちゃんと普通にしてるつもりだったのよ。笑って、大丈夫だって言って。でも、誰かが私を見るだけで、何か言われる気がして……」
リンは、小さく笑おうとした。
失敗したみたいに、すぐ口を閉じた。
「ここへ来たとき、少しだけほっとしたの。誰も私のことを知らない場所なら、普通に話せるかもしれないって」
「……そうだったんだ」
「最低よね。こんな世界に連れてこられたのに」
「別に、最低じゃないと思う」
リンが顔を上げる。
「怖い場所でも、前より息がしやすいことってあるでしょ」
「……タツヤにも、あるの?」
「まあね。俺も、元の屋上へ戻りたいとは思ってないし」
それ以上は、言わなかった。
リンも聞かなかった。
しばらくして、彼女が膝の上の氷話杖へ目を落とした。
杖の一部には、古い受話器を思わせる形がある。リンはそこへ指を伸ばしかけて、やめた。
「……詩織が一番苦しかったとき、私は味方になれると思ってたの」
カフェの時計が、秒を刻む。
「でも、肝心なところで……違う言葉を選んだ」
聞き間違いかと思った。
何を言ったのか。誰に言ったのか。
リンの顔を見ると、今は聞かない方がいいと分かった。
「……それを、ずっと後悔してる」
彼女は両手でカップを包んだ。
「詩織と最後に話したときの声も、忘れられない」
指先が、白くなるほどカップを握っている。
「今は……もう会えないの」
その先は聞けなかった。
聞かないでほしいことと、話したくても話せないことがある。
今の俺にも、少しだけ覚えがあった。
俺はテーブルの上のケーキを見た。
「……反省会、まだ終わってないのかもしれないね」
「……え?」
「その子との時間、楽しかったんでしょ」
「……うん。すごく」
「だったら、楽しかったことまで無かったことにしなくていいと思う」
リンは黙ったまま、カップの取っ手に触れた。
「……でも、タツヤは私の過去を何も知らないでしょ?」
「うん。知らない」
「だったら、どうしてそんなこと言えるの?」
「そうだね。リンが何を後悔してるのか、俺には分からない。でもさ」
俺はリンの顔を見た。
「さっき、その子の話をしてるとき、リン、少し笑ってたから」
「……私が?」
「うん。だから、きっと大切な思い出なんだろうなって」
リンは驚いたように目を瞬かせ、それから視線を落とした。
「……勝手なこと言うのね」
「ごめん。勝手なことしか言えないから」
「……そこは否定しなさいよ」
「じゃあ、半分だけ」
「なにそれ……」
リンが小さく笑った。
「……でも、ありがとう」
その笑顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。
俺は頷いて、コーヒーを飲んだ。
冷めかけていたけれど、不思議と苦くは感じなかった。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、タツヤ」
少し時間がたってから、リンが顔を上げた。
「昨日、どうして私を助けてくれたの?」
「美人だったから」
「……そう」
リンはカフェラテを一口飲んだ。
反応が薄い。
「……あれ、怒らないの?」
「そうやってごまかすんだなって、分かっただけ」
「手厳しいね」
「……本当のことを聞きたいの」
まっすぐな目だった。
昨日、路地の奥で杖を抱えていた彼女の姿を思い出す。
斧の男が迫っていた。
そのとき、俺には逃げる道もあった。
「……助けてって聞こえたから」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
「……駄目じゃない。でも、あなたは自分が傷ついてまで助けてくれた」
俺は返事を探した。
答えは、たぶんある。
ただ、今ここで話せる形には、まだなっていなかった。
「昔から、見過ごせないものがあるんだよ」
「……何を?」
「それは、もう少し仲良くなったら」
リンは少しだけ眉を寄せた。
「秘密主義なのね」
「秘密というより、説明が下手なんだ」
「冗談は上手なのに?」
「そっちも上手とは限らないよ」
「それは知ってる」
「……即答しないでくれる?」
リンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、一つだけ教えて」
「今度は何でしょう」
「その武器。前に、大切な人のものだって言ってたでしょ」
俺は焔銃剣の柄へ視線を落とした。
今は武器になっているけれど、握る部分の感触だけは、昔から変わらない。
「……おやっさん、って呼んでた人の形見なんだ」
「おやっさん?」
「昔、同じ会社で働いてた設備員さん。俺にとっては、じいちゃんみたいな人だった」
リンはカップを置き、続きを待った。
「その人の管理室がさ、四畳くらいしかなくて。しかも携帯の電波が入らなかったんだよ」
「それは不便ね」
「でしょ。暇ができると遊びに行ってたんだけど、やることがないから、結局ずっとおしゃべりしてた」
「……それ、最初からお話ししに行ってたんじゃない?」
「鋭い指摘だね」
狭い部屋。大きな机。扉を開けると、いつも「また来たのか」という顔で笑う人。
仕事で困れば嫌な顔ひとつせず教えてくれたし、孫の話をするときだけは、こっちが口を挟む隙もなかった。
「電波が入らないからって、DVDプレーヤーをあげたこともある。すごく喜んでくれてさ」
「タツヤがそんな気の利いたことを?」
「ちょっと。俺を何だと思ってるの」
「……ふふ。いい人だったのね」
「うん。すごく」
そう答えると、笑い方を忘れたみたいに、口元が動かなくなった。
「……三年前に亡くなったんだ」
リンが、そっとカップを置いた。
「あの日、あの人が仕事場に来てないって連絡があってさ。電話にも出ないから、清掃の人に聞いて病院に問い合わせて……最後は家まで走った」
「……家まで?」
「うん。何度呼んでも返事がなくて、管理人さんにも警察にも助けを求めた。でも、俺には勝手に部屋を開けることができなかった」
扉の前で待ち続けた時間を、今でも覚えている。
「できることはやったよ。自分のせいだとは思ってない。でも……助けたかったんだ。あの人を」
リンは何も言わず、静かに頷いた。
あの人がいなくなってから、後任が決まるまで俺がその建物に常駐した。
誰もいない管理室は、前よりずっと広く感じた。携帯の電波が入らないのも、相変わらずだった。
「備品庫を片づけてたら、段ボール箱が出てきたんだ。中に、いつもあの人が使ってたペンインパクトと、俺宛ての手紙が入ってた」
焔銃剣の柄を指でなぞる。
「……これが、そうなんだね」
「うん。手紙には、今までありがとうって。それから、自分のやりたいことを悔いのないように頑張れって書いてあった」
あの管理室で、一人で読んだ。
最後まで読んだあとも、しばらく立ち上がれなかった。
「……そんなこと言われたら、頑張るしかないよね」
軽く笑ったつもりだった。
リンは笑わずに、まっすぐ俺を見ていた。
「大切な人だったのね」
「うん。……まだ、話したいことがたくさんあった」
口にした途端、胸の奥が痛んだ。
助けようと走り回ったあの日も、管理室で一人きり手紙を読んだ日も、きっと忘れない。
ただ、俺の中には、あの人とは違う理由で思い出すのがつらい相手もいる。
「……もう一人、いるんだ」
「え?」
「ミカゲってやつ。御影朔也。俺より二つ上で、昔の同僚」
リンが小さく首を傾げる。
「その人も、タツヤにとって大切な人?」
「……うん。今でも、大切な友達だよ」
少しだけ、懐かしい気持ちになった。
「同じ時期に会社へ入ったんだ。仕事が終わると一緒に晩飯を食べて、それからよくゲームをしてた。でっかいモンスターを四人で狩るやつ」
「ふふ。楽しそうね」
「楽しかったよ。『ひと狩り行こうぜ』って、あいつが誘ってくるんだ。気づけば終電で帰るのが当たり前になってた」
「タツヤ、ゲームでも無茶してそう」
「ひどいな。ちゃんと回復薬は持ってたよ」
「持ってるだけだったんじゃない?」
「……何で分かったの?」
リンが笑う。
俺もつられて笑った。
あいつと遊んでいた頃も、こんなふうに笑っていた気がする。
「……今は、会ってないの?」
その問いに、笑いが止まった。
「……もう会えない。あいつは亡くなったんだ」
「……ごめんなさい。知らなくて」
「リンが謝ることじゃないよ。……俺も、楽しかったことなら話せるんだけどね」
何があったのか。
なぜ、あいつがいなくなったのか。
そこに触れようとすると、言葉が喉で止まる。
「……あいつがつらいとき、俺は一番近くにいたはずなんだ」
カップの底に残ったコーヒーを見る。
「なのに、今思い出すと……あの頃の自分が嫌になる」
それ以上は、うまく言葉にできなかった。
いや、違う。
言葉にしたくなかった。
「……ごめん。話し始めたくせに、肝心なところは言えなくて」
リンは首を横に振った。
「私だって、詩織のことを全部話せてないもの」
「……そうだったね」
「だから、今はそれでいいわ。話したくなったときに、聞かせて」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
「それに、ミカゲさんとゲームをしてたタツヤは、楽しそうだった」
「うん。……本当に楽しかった」
あの頃の笑顔まで、後悔だけで塗りつぶしたくはなかった。
「……おやっさんの手紙、まだ持ってる?」
「もちろん。忘れたくないからね」
リンが、俺の焔銃剣へ目を落とす。
「じゃあ、その武器には、ちゃんと帰る場所があるのね」
「……帰る場所?」
「タツヤの手の中」
少し、面食らった。
「……リン、たまに格好いいこと言うね」
「たまに、は余計」
「次から改善するよ」
リンが笑った。
俺も、ようやく自然に笑えた。
おやっさんが残してくれた言葉も、ミカゲと笑い合った時間も、俺の中に残っている。
ただ、あいつに何があったのか、そのとき俺が何をしたのか――そこまで誰かに話せる日は、まだ遠そうだった。
◇ ◇ ◇
店を出る前、リンはチーズケーキの残りを俺の方へ寄せた。
「……はい」
「え、いいの?」
「話してくれたお礼」
「そんな大した話じゃないよ」
リンは首を振る。
「大した話よ。少なくとも、私には」
フォークを受け取る。
一口食べると、甘さが広がった。
誰かとケーキを分けること。
失った人の話をしても、誰かが途中で遮らずに聞いてくれること。
そういう時間を、忘れていた気がした。
「……ありがとう、リン」
「こちらこそ。少し、話せてよかった」
リンはカップの底を見つめた。
「……あの子の話、いつかちゃんとするわ」
「うん。話したくなったら、聞く」
「タツヤの、さっき話さなかったことも?」
俺は一瞬、動きを止めた。
リンが、まっすぐこちらを見ている。
「……気づいてた?」
「あなた、話すことを選んでたもの」
「……鋭いなあ」
「人のことはよく見てるつもりよ」
俺は笑ってごまかそうとした。
けれど、その笑顔がうまく作れない。
「……いつかね」
それだけ答えた。
リンは頷く。
「……約束よ」
「うん。忘れない」
まだ、話せないことがある。
言葉にしようとするだけで、思い出したくない自分に触れてしまうことが。
でも、いつか話す相手ができた。
今は、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
《CAFÉ ORBIT》を出ると、地下街の空気はひんやりしていた。
扉が閉まる。
振り返ったとき、窓の向こうでNPCの女性がカップを拭いているのが見えた。
「……ねえ、タツヤ」
「何?」
「次にカフェへ行くときは、ダンジョンの外がいいわ」
「全面的に同意するよ」
「それと、今度はちゃんとお金を払ってね」
「……今のうちに素材をたくさん売っておかないと」
「ふふ。そういうところ、現実的ね」
「設備屋だからね。見積もりは大事なんだ」
「それ、何にでも使える言い訳じゃない?」
「……便利な職業だな」
リンが笑う。
俺たちは並んで歩き出した。
床には、二人分の影が伸びている。
ふと、ショーウインドウに目をやった。
映っているのは、俺とリン。
……二人だけ。
なのに、ほんの一拍遅れて、ガラスの奥で何かが動いた気がした。
振り返る。
誰もいない。
俺は黙って前を向いた。
今は追いかけるべきじゃない。
目の前には、リンがいる。
少し歩くと、通路の先に分厚い金属の扉が現れた。
これまでのシャッターとは、まるで違う。
表面には深い傷が走り、床には何か重いものを引きずった跡が何本も刻まれている。
扉の向こうから、硬いものが床を叩く音がした。
ギリ……ギリ……。
その音が、いくつも重なる。
「……タツヤ」
「うん。あまり歓迎されてなさそうだね」
「……怖い?」
「ものすごく」
リンが小さく息を吸う。
「……私も」
「じゃあ、同じだ」
俺は焔銃剣を構え直した。
リンも氷話杖を握る。
『自分のやりたいことを、悔いのないように頑張れ』。
あの人の言葉が、今も手の中に残っている気がした。
これから何が待っているのかは分からない。
でも、隣にはリンがいる。
一人ではできないことが、二人ならできるかもしれない。
「行こうか、リン」
「……うん。今度も、二人で」
俺たちは互いの位置を確かめ、扉へ手を伸ばした。
その向こうで、金属を引き裂くような音が響いた。
――第3話 完――
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
物語が進むにつれ、登場人物たちが抱える過去も少しずつ明らかになってきました。
それぞれがどんな過去を背負い、これからどう向き合っていくのか。
そんなところにも注目していただけると嬉しいです。
そして次回、第4話はいよいよ初のダンジョンボス戦!
タツヤたちは無事に乗り越えることができるのでしょうか?
次回、第4話は10月29日(木)公開予定です!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります!
引き続き『REALITY LOGOUT』をよろしくお願いいたします!




