第2話 初めてのダンジョン
第2話を読みに来ていただき、ありがとうございます!
タツヤとリン、二人の冒険がいよいよ始まります。
今回もよろしくお願いします!
青い光が、泉の広場の真ん中に弾けた。
人影が一つ、何もない空間から現れる。
その男は着地と同時に膝をつき、震える手で自分の頭上を指さした。
《残機:1》
「……あと、一回しかない」
男の呟きは、朝の地下街に不気味なくらいはっきり響いた。
駆け寄った女性が肩を支える。けれど男は顔を上げず、ただ何度も数字を確かめていた。
「……朝から嫌なものを見たな」
「タツヤ」
隣のベンチからリンの声がした。
銀白色の髪を指で整えながら、こちらをじっと見ている。
「あなた、全然寝てないでしょ」
「失礼だな。ちゃんと三回は寝たよ」
「三回起きた、の間違いじゃない?」
「……まだ朝なのに、もう調子がいいね」
「あなたの顔に書いてあるのよ」
初対面から一日も経っていないのに、俺の言い訳が通用しなくなりつつある。
それもそのはずだ。昨夜はベンチで何度も目を覚ました。
寝返りを打てば背もたれに肘が当たる。ようやく眠れたと思えば、遠くで誰かが叫ぶ。
昔の会社の仮眠室が、あれほど立派な施設だったとは知らなかった。
「腕は?」
「傷はきれいさっぱり。安全区域って便利だね」
「傷じゃなくて、疲れの話」
「……まだ少し重いかな」
「さっきから左腕をかばってるもの」
隠すのを諦めて、両手を膝に置いた。
「観察力が高すぎない?」
「あなたが分かりやすすぎるの」
リンは呆れたように息を吐き、それから広場の奥へ視線を向けた。
壁際には上着を毛布代わりに眠る人たち。情報を交換する集団。入口の前で仲間を募る声。
そして、人だかりの向こうに、地下街とは明らかに不釣り合いな黒い扉が立っていた。
《ダンジョン:梅田地下迷宮》
その文字は、昨夜からずっと消えていない。
「……気になってるんでしょ」
リンが言った。
「そりゃね。ゲームだったら、最初に確認したい場所だし」
「ここは、普通のゲームじゃないわよ」
「分かってる」
俺は先ほどの男を見た。
初期残機は二つ。死ねば一つ減り、安全区域で復活する。
そして、残機がゼロになれば二度と復活できない。
昨日、斧の男に向けて引き金を引いた。
男の身体が光になって消えたときの顔は、今でも鮮明に覚えている。
安全区域で復活する。それが分かっていても、人の命を一つ奪った感覚までは消えてくれなかった。
「……でもさ」
俺は黒い扉を見つめた。
「何も分からないまま、次も誰かに襲われたら困るんだ。昨日は運がよかっただけだから」
「……うん」
「武器の使い方も、この世界のルールも、ちゃんと知っておきたい。今度、誰かが助けを求めたときに動けるように」
口に出してから、少し格好をつけすぎた気がした。
けれどリンは笑わなかった。
「私も行く」
即答だった。
「……まだ何も言ってないけど」
「一人で入るつもりだったでしょ」
「まあ、最悪それも考えてた」
「ほら」
リンは立ち上がり、膝についた埃を払った。
「昨日、私は杖を握ってるだけで、何もできなかった。魔法も出せなかったし、あなたに助けてもらうことしかできなかった」
「しゃがんでくれたおかげで、俺は撃てたよ」
「それはそうかもしれない。でも、次も誰かが助けに来てくれるとは限らないでしょ」
その声には、迷いがなかった。
「だから、自分で戦えるようになりたい」
……なるほど。
昨日は俺が彼女を助けた。
だからといって、今日も俺の後ろにいなければならない理由はない。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。でも条件が一つ」
「何でしょう」
「怪我を隠さない。無理だと思ったら、ちゃんと言う」
「……厳しい契約内容ですね」
「昨日の実績を考えたら、妥当だと思うけど」
返す言葉がなかった。
この試験官、採点が容赦ない。
◇ ◇ ◇
入口へ向かう前に、俺たちはメニューを開いた。
昨夜は名前を交換し、握手をしたところで終わっている。正式なパーティーはまだ組んでいなかった。
「この項目よね」
リンが画面に指を触れる。
《パーティー招待》
《招待先:ミヤジマ タツヤ》
「もう名前を覚えてくれてるとは」
「昨日、何回も呼んだもの」
「ありがたいね。俺なんて、自分の苗字を言う機会も減ってきたところだよ」
「そんなに長くこの世界にいるつもり?」
「まだ二日目だった」
俺の視界に青い窓が現れた。
《キリシマ リンからパーティーに招待されました》
《承認/拒否》
迷わず承認を選ぶ。
《パーティー結成》
《ミヤジマ タツヤ/キリシマ リン》
二つの名前が横に並んだ。
たったそれだけの表示なのに、少し胸が軽くなる。
「……よろしく、リン」
「うん。よろしく」
右手を差し出すと、リンはそこへ小さな拳を当ててきた。
「……グータッチ?」
「昨日は握手したでしょ。今日はこっち」
「ゲームのパーティー結成って、そういう儀式だったかな」
「知らないわよ。雰囲気よ、雰囲気」
どうやら、彼女なりに合わせてくれたらしい。
……そういうところは、ちょっとかわいい。
黒い扉の前には、何人かが順番を待っていた。
《入場待機中》
先に入ったパーティーがいるらしい。
しばらくして扉の表示が変わり、疲れ切った数人が安全区域へ戻ってきた。
互いの肩を貸して歩く彼らの頭上には、二つの残機が残っている者も、一つしかない者もいた。
笑顔は、ほとんどなかった。
「……初級、なんだよね」
リンが確認するように言った。
《ダンジョン:梅田地下迷宮》
《難易度:初級》
《入場後、クリアするまで退出できません》
《死亡した場合は残機を消費し、安全区域で復活します》
《残機がない場合、復活は行われません》
俺は最後の一行を読み直した。
「初級って、初心者歓迎の意味じゃないのかもね」
「……怖くなってきた」
「俺も」
「そこは冗談を言わないの?」
「笑える注意書きじゃないから」
リンは一度、ゆっくり息を吸った。
「……でも、行くわ」
「引き返すなら、今だよ」
「タツヤ」
「はい」
「私が自分で決めたことまで、あなたが決めないで」
まっすぐに見返されて、俺は苦笑した。
「……そうだった。ごめん」
「分かればよろしい」
彼女は俺の隣へ立つ。
扉の中央には縦の継ぎ目があり、両側に浅い窪みがついていた。
俺が右側の窪みに手を伸ばした、その瞬間。
指が止まった。
――扉。
古いマンションの廊下。
何度押しても、誰も出てこない呼び鈴。
名前を呼んでも、返事のない部屋。
三年前。あの扉の前で、俺はずっと立ち尽くしていた。
管理人を呼んだ。連絡できる人に連絡した。それでも、あの人の声は返ってこなかった。
もっと早く何かできたんじゃないか。
今でも、答えは見つかっていない。
「……タツヤ?」
リンの声に、現実へ引き戻された。
彼女は扉ではなく、俺の顔を見ている。
「大丈夫? 顔色が悪い」
「……昔のことを思い出しただけ」
「そう」
リンはそれ以上聞かなかった。
ただ、左側の窪みに手を添えた。
「一緒に開けるよ」
「……力仕事ですよ?」
「私だって、扉くらい押せるわ」
「失礼しました」
二人で力を込める。
最初は、びくともしなかった。
「……これ、本当に開くの?」
「開かなかったら、受付に苦情かな」
「受付なんてないでしょ」
「では管理会社へ」
「どこよ!」
そう言いながら、リンは手を離さない。
ごごっ、と低い音がした。
重い扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
向こうには、青白い非常灯だけが点る、長い地下通路が続いていた。
「……行こう」
「うん」
一歩、踏み出す。
背後で扉が閉じた。
ガンッ。
思っていたよりも重い音だった。
《入場を確認しました》
《攻略完了まで退出できません》
振り返って、継ぎ目に手を当てる。
押しても、引いても、動かない。
「……本当に閉まった」
「注意書きどおりだね」
「分かってたけど、嫌な感じ」
「同感」
冗談を言ってみても、背中の緊張は取れなかった。
ただ、今回は一人じゃない。
俺は焔銃剣を呼び出し、リンの半歩前へ出た。
◇ ◇ ◇
ダンジョンは、見慣れた梅田の地下街を誰かが悪趣味に作り直したような場所だった。
白いタイル。シャッターの下りた店。天井から吊られた案内板。
ただし、案内板の矢印は不自然に曲がり、文字は意味の分からない記号に変わっている。
照明は一列おきに消えていた。
俺たちが歩くたび、足音が長い通路の奥で何度も跳ね返る。
「……本当に梅田なのかしら」
「服屋の前を通ってるから、そう信じたいね」
「全部シャッターが閉まってるけど」
「商売する気がない店ばっかりだな」
軽口を返しながら、俺は床と天井を見ていた。
閉じた店舗ばかりなら、不意に飛び出される場所は限られる。
けれど、割れたガラスや開いた通路があれば話は別だ。
「ねえ、タツヤ。その武器、重くない?」
「そこそこ。でも、手に馴染むんだよね」
「元は工具なんでしょ」
「うん。ずっと使ってたペンインパクト。……大切な人の形見なんだ」
「……そうだったんだ」
リンはそれ以上、聞いてこなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
ふいに、右側のシャッターが鳴った。
かり、かり。
俺は足を止める。
音がした店の前には、引っかき傷が何本も走っていた。
「……リン、ちょっと下がって」
「何かいるの?」
「いると思う。まだ見えないけど」
通路が、十字路のように広がっている。
正面には洋服店。左側に靴屋。右にはガラスの割れたショーウインドウ。
その中央に、灰色の塊がうずくまっていた。
犬ほどの大きさ。尖った鼻。長い尾。
背中には、折れた刃物を何枚も突き刺したような金属片が並んでいる。
《スクラップラット》
「……ネズミ?」
「たぶん。愛玩用ではなさそうだけど」
「それは見れば分かるわ」
灰色の塊が顔を上げた。
かり、と床を爪で掻く。
もう一匹が左の靴屋から現れる。
正面の奥に二匹。
そして右の割れたガラスの陰で、小さな影が動いた。
合計、五匹。
中央の一匹がこちらを見ている。左から一匹、奥から二匹、右のガラスの裏に一匹。
この位置を忘れたら、横から噛まれる。
「リン、左側を見て。右のガラスも気にしておいて」
「前は?」
「俺が見る。全部を一人で見ようとしたら、たぶん間に合わない」
彼女が小さく頷いた。
「分かった。でも、私、まだ魔法を……」
「出せなくてもいい。何が見えたか教えてくれるだけで助かるから」
「……うん」
先頭のネズミが、腹を低くして走り出した。
次の瞬間、床を蹴る。
「来る!」
牙が俺の胸元へ迫った。
反射的に銃剣を振る。
ガキンッ!
刃が背中の金属片に弾かれ、手首に鈍い衝撃が走った。
「……硬いな!」
相手は着地と同時に向きを変える。
あの背中へ何度斬りつけても、刃が欠けるだけだ。
俺は銃剣の切っ先を下げた。
次の跳躍に合わせて身体を沈める。
飛びかかってきた腹は、金属で覆われていない。
「そこだ!」
下から刃を突き上げる。
黒い刀身に炎が走り、ネズミの身体が青白い光へほどけた。
《スクラップラットを撃破しました》
《素材を所持品へ収納しました》
一匹。
「タツヤ、左!」
リンの声で顔を向ける。
靴屋の陰にいた一匹が、低い姿勢で俺の足首を狙っていた。
踏み込まれたら、転ばされる。
俺は銃口を下げた。
「炎弾!」
赤い弾が床すれすれを走り、ネズミの鼻先に炸裂する。
相手は光になって消えた。
二匹。
「……すごい。ちゃんと撃てるようになったのね」
「昨日は火花だけで喜んでたからね」
「感想はあと! 正面から二匹!」
言われるまでもなく見えていた。
奥にいた二匹が、左右に分かれたのだ。
右の一匹は俺へ。左の一匹は、リンへ。
……俺の注意を引きつけて、後ろを狙うつもりか。
「リン、こっちへ!」
リンがシャッターから離れた。
しかし、ネズミの方が速い。
牙を剥き、リンの首元へ跳ぶ。
「しゃがんで!」
リンが身を沈めた。
ネズミは彼女の頭上を越え、背後のシャッターに激突する。
ガァン!
右から飛び込んできた一匹が、俺の脇を抜けようとした。
追いかける余裕はない。
俺は半歩だけ身体を入れ替え、焔銃剣の柄をその顎へ打ちつけた。
相手の頭が上がる。
露出した喉元に刃を突き込み、三匹目が消えた。
「……タツヤ!」
振り返ると、シャッターにぶつかった四匹目が立ち直っていた。
リンは杖を構えている。
けれど杖先に集まった淡い青は、すぐに散ってしまった。
「……っ、また出ない!」
「大丈夫。こっちへ下がって!」
俺はリンを背に入れ、ネズミとの距離を測った。
相手は小刻みに跳ねている。
こちらが剣を振ると、金属片で受けるつもりらしい。
なら、振らなければいい。
肩の力を抜いて待つ。
隙ができたと思ったのか、ネズミが跳んだ。
その瞬間に銃口を合わせる。
「――炎弾!」
炎が大きく弾け、四匹目も光になった。
息を吐く。
……あと一匹。
右のショーウインドウだ。
俺はガラスへ視線を向けた。
割れた窓の奥には、何もいない。
「……どこだ?」
そのとき、足元でガラスが鳴った。
――近い。
最後の一匹が、ショーウインドウの下を這い抜けていた。
俺の右後ろ。
低く走ってきた相手が床を蹴る。
「タツヤ、後ろ!」
振り向く。
見えたのは、開いた牙だった。
近すぎる。
銃口を向ける時間がない。
剣を引き寄せようとした左腕が、思うように上がらなかった。
疲れだ。
傷は治っても、昨日から無理を重ねた身体まで新品になったわけじゃない。
……まずい。
喉のすぐ前で、金属の牙が光った。
「……っ!」
冷たい風が頬を横切る。
キンッ!
俺の横を、青白い針が飛び抜けた。
ネズミの胴を貫き、床のタイルへ深く刺さる。
牙は俺に届かなかった。
光の粒が、鼻先でほどけていく。
――五匹目。
……生きてる。
俺は、ようやく息を吸った。
「……助かった」
振り返る。
リンは氷話杖を突き出したまま、呆然と立っていた。
杖先から、細い冷気が流れている。
「……今の、私がやったの?」
「たぶんね。ほかに氷を出せそうな人はいないし」
「でも、さっきまでは何も……」
彼女は床に突き刺さった氷を見つめた。
手が震えている。
「……タツヤが、噛まれると思ったら」
声が小さくなった。
「怖くて……それで、必死だったの」
俺はさっきまで牙があった場所へ、もう一度目を向けた。
あと少し遅れていたら、残機が一つ減っていたかもしれない。
「……ありがとう、リン。本当に助かった」
「……うん」
彼女は、やっとこちらを見た。
「でも、もう一回できるか分からないわ」
「なら、一緒に練習しよう」
「簡単に言うのね」
「俺だって、昨日は火花しか出なかったんだよ」
「……それ、しばらく言い続けるつもり?」
「便利な実例だからね」
リンが、かすかに笑った。
その笑顔を見て、俺もようやく肩の力を抜いた。
「……ねえ、タツヤ」
「ん?」
「さっき、あなたが振り向くの、間に合ってなかった」
「……うん。自分でも分かった」
「だから、次からは背中も私に見せて。あなたが前を見るなら、私は後ろを見る」
俺は少し黙った。
助けたつもりが、助けられた。
妙に悔しいかと思ったけれど、そんな気持ちはなかった。
むしろ、ほっとしていた。
「……分かった。頼りにしてる」
「うん。任せて」
リンは小さな拳を差し出した。
「……また?」
「初めて魔法が出た記念」
「記念行事が増えてきたね」
「嫌ならいいけど」
「誰も嫌とは言ってないよ」
軽く拳を合わせる。
リンの指先は、ひんやりしていた。
◇ ◇ ◇
戦いが終わり、所持品を開くと、見覚えのない素材が増えていた。
《スクラップラットの毛皮》
《戦利品の素材を所持品へ収納しました》
どうやら倒した敵の素材は、各自の所持品へ自動で入るらしい。
「……これ、何に使うの?」
リンが毛皮の表示をつつく。
「防寒着かな」
「まだ十月なんだけど」
「冬まで大事に保管しておこう」
「用途を知らないだけでしょ」
「……鋭いね」
換金できるかどうかは、外へ出てから確かめるしかない。
ひとまず荷物にならないのは助かった。
俺は銃剣を握り直し、割れたショーウインドウの前へ近づいた。
さっきまで、最後のネズミが隠れていた場所だ。
床には細かいガラス片が散っている。
その向こうに、俺とリンが映っていた。
……いや。
二人の間に、もう一人いる。
黒っぽい人影が、ほんの一瞬。
「……え?」
振り向く。
背後には、誰もいない。
「どうしたの?」
「今、ここに誰かいた?」
「……いないわよ。ずっと見てたもの」
もう一度、ガラスを見る。
そこにいるのは、俺とリンだけだった。
照明のちらつきか。疲れ目か。
鏡みたいなガラスに、何か別のものが重なっただけかもしれない。
……それでも。
あの人影は、俺たちのすぐ後ろに立っているように見えた。
「……タツヤ?」
「いや。見間違いかな」
「疲れてるんじゃない?」
「それは間違いなく」
「じゃあ、少し休む?」
「安全そうな場所があればね。ここはガラスが多すぎる」
そう言って、通路の奥へ視線を移す。
いつからだろう。
俺たちの靴音が、やけに遠くまで響くようになっていた。
◇ ◇ ◇
次の区画は、天井が高かった。
閉じた店舗の間に案内板が幾つも吊られ、その上の暗がりには、白い粉のようなものが漂っている。
「……雪?」
リンが手を伸ばしかけた。
「ちょっと待って」
「何?」
「あれ、落ちてない」
白い粒は、ふわふわと上へ戻っていく。
目で追うと、天井近くで何かが羽ばたいた。
ぱさり。
薄い金属板のような翼。
大人の顔ほどある蛾が、案内板の裏から滑り出てきた。
続けて二匹。
《ブレードモス》
「……蛾、よね?」
「そう見える。羽だけはあんまり触りたくないね」
「刃物みたい……」
「試し切りされる前に、何とかしよう」
三匹が天井近くを旋回する。
銃剣の刃は届かない。
撃つことはできる。でも、さっきの戦闘で腕は重く、炎を連射すればどこまで動けるか分からない。
俺は通路の形を見た。
左には低い案内板。右には壁。正面は広いが、上からの攻撃に遮るものがない。
飛んでくるなら、あの案内板の下へ潜って迎え撃つ方がいい。
「リン、上の二匹を見てて。俺は低く降りてきたやつを狙う」
「……私の魔法、出るか分からないよ?」
「さっきも言ったけど、見ててくれるだけで助かる。それに……」
「それに?」
「出せたら、ちょっと格好いい」
「……今それを言う?」
一匹が突然、羽を水平に広げた。
「伏せて!」
リンと同時に身体を沈める。
銀色の翼が頭上を通り、背後の案内板をまっすぐ切り裂いた。
金属の破片が床に落ちる。
「……本当に切れるのね」
「安全基準がまるでないな」
蛾は奥で大きく弧を描き、向きを変えた。
次は低い。
俺は看板の端から半歩だけ出て、相手の通り道を空ける。
蛾が突っ込んでくる。
身をひねって翼をかわし、通り過ぎる腹へ銃剣を突き上げた。
柔らかな胴が裂け、青白い光が散った。
一匹目。
その瞬間、頭上の二匹が同時に羽を震わせた。
銀色の粉が落ちてくる。
いや、粉じゃない。
細い金属片だ。
「リン、看板の下へ!」
シャッターに、針のような破片が次々と突き刺さる。
かろうじて看板の陰へ入ったが、逃げ道の右側にはもう一匹が降りてきていた。
上に一匹。低い位置に一匹。
どちらかを見失えば、背後を取られる。
「リン! 上のやつ、狙えそう?」
「……やってみる!」
低く飛ぶ蛾が迫ってきた。
俺は銃口を向ける。
「炎弾!」
火弾を羽の前に撃ち込み、進路を変えさせる。
倒すためじゃない。
リンが狙う時間を作るためだ。
「……あそこ!」
リンの杖先に、青い光が集まる。
さっきよりも細く、まっすぐに。
「氷針!」
氷の針が、天井近くの蛾の右羽を貫いた。
羽の縁から霜が広がり、身体が大きく傾く。
「タツヤ、落ちる!」
「見えてる!」
落下位置を確かめてから、銃口を合わせる。
「――炎弾!」
赤い光が凍った羽を撃ち抜き、氷片と火の粉が空中へ散った。
二匹目も消えた。
「……当たった!」
「ナイス、リン!」
喜ぶのは、まだ早い。
残る一匹が、低い位置から急に向きを変えた。
狙いは俺じゃない。
「リン、後ろ!」
彼女が振り向いた拍子に、足元の金属片を踏んだ。
靴が滑る。
蛾が翼を広げた。
あの刃が胸元を通れば、ただでは済まない。
俺は横から踏み込んだ。
銃剣の平たい側面で翼を叩く。
ギィンッ!
金属を殴ったような反動が腕へ返った。
痛みで指が開きかける。
けれど、羽の向きは変えられた。
「リン、左へ!」
リンが身体を転がす。
蛾は勢いを殺せず、壁へ衝突した。
翼の先がタイルの隙間に食い込む。
動きが止まったのは、ほんの一瞬。
俺はそこへ踏み込んだ。
「……今度は逃がさない!」
炎をまとわせた刃を、翼の付け根へ振り下ろす。
光が弾け、最後の一匹が消えた。
羽音が止む。
急に、自分の呼吸が大きく聞こえた。
膝が笑っている。
目の前のシャッターへ手をつかなければ、立っているのも少しつらかった。
「……タツヤ、生きてる?」
「今のところ」
「その答え、やめて」
「じゃあ……ちゃんと生きてる」
「……よろしい」
二人で壁に背を預けた。
しばらく、何も話せなかった。
魔物を倒した数は、これで八匹。
五匹のネズミと、三匹の蛾。
普通のゲームなら、初戦闘の勝利を喜ぶところだ。
でも、ここでは身体の重さが残るだけだった。
まだ、帰れない。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、さっきの」
息が整ってきたころ、リンが口を開いた。
「氷が当たったあと、すぐ炎を撃ったでしょ」
「うん。落ちる場所が分かったから」
「……私の魔法を、ちゃんと見てたんだね」
「そりゃ、相棒だからね」
言ってから、少し照れくさくなった。
リンは、しばらく俺を見ていた。
「……相棒、か」
「嫌だった?」
「……別に。悪くないと思う」
銀白色の髪が頬にかかる。
いつもなら軽口を返すところだけど、今は少しだけ黙っていたくなった。
先ほどまで、リンは魔法が使えないことを気にしていた。
それでも俺の背中を見て、危ないときには助けてくれた。
今度は俺が彼女の魔法に合わせて攻撃した。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
「……そういえば」
俺が口を開く。
「今の連携、名前があってもよくない?」
「何で?」
「せっかく魔法がある世界だし、必殺技っぽく」
「名前をつけたら強くなるの?」
「気分は強くなる」
「気分だけ?」
「そこは今後の研究課題」
リンが呆れたように息を吐いた。
「……じゃあ、何て名前?」
「氷炎連撃」
「今、考えたでしょ」
「よく分かったね」
「真面目に考えた私が馬鹿みたい」
「いや、結構気に入ってるんだけど」
「技名の認定は保留ね」
ふっと笑いが漏れた。
リンも笑った。
危険な場所にいるのに、笑える時間があった。
昨日は、名前を知ったばかりだった。
今日は一緒に戦って、背中を任せた。
何もかも分からない世界で、それは小さくない変化だと思う。
「次も、一人で全部やろうとしないでね」
リンが言った。
「分かってる。ちゃんと二人で勝とう」
「……うん」
立ち上がると、足が少しふらついた。
リンが俺の腕を支えようとする。
「大丈夫?」
「大丈夫。……いや、ちょっと疲れてる」
「正直でよろしい」
「採点、上がった?」
「少しだけ」
俺は笑い、焔銃剣を握り直した。
通路の奥には、まだ闇が続いている。
帰り道は閉ざされたまま。
それでも、最初に扉が閉まったときよりは前を向けていた。
二人なら、できることがある。
「行こうか、リン」
「うん。今度も背中は任せて」
俺たちは並んで歩き出した。
足音が、二つ。
白いタイルに、規則正しく響く。
その少しあと。
背後の暗がりで、もう一度だけ、靴底が床を打つような音がした。
振り向いたときには、何も見えなかった。
……気のせい、だろうか。
俺はしばらく通路の奥を見つめ、それからリンの隣へ戻った。
初めてのダンジョンは、まだ終わっていない。
――第2話 完――
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