第1話 現実からのログアウト
はじめまして。
数ある作品の中から『REALITY LOGOUT』を見つけていただき、ありがとうございます。
本作は、現実から逃げたいと願った人々が、突然ゲームのような世界に送り込まれ、仲間との出会いや戦いを通じて、自分自身の過去と向き合っていく物語です。
バトルあり、笑いあり、そして時には切ない展開も。
登場人物たちの冒険を、一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは、第1話をお楽しみください!
ゲームの世界に行ってみたい。
子どもの頃から、何度もそう思った。
剣を手に冒険して、仲間と笑い合って。現実じゃできないことを、何でもできる世界。
大人になってからは、その願いの意味が少し変わった。
――ここじゃない、どこかへ行きたい。
ただ、それだけになった。
まさか願いが叶ったその日に、俺が他人の命を一つ奪うことになるなんて。
あのときは、想像もしていなかった。
◇ ◇ ◇
十月二十日、午後一時五十八分。
大阪・梅田。地上二十階のビルの屋上で、俺は室外機の基板とにらめっこしていた。
「ミヤジマ。まだ終わらないのか」
「原因は分かりました。あとは確認だけです」
「さっきも同じことを言ってただろう」
「さっきは原因を調べてたんです。今は直ったか確認してるんですよ」
「口だけは達者だな。次の現場に遅れるぞ」
「それは困りますね。では、俺の代わりに次の現場へ――」
「行くわけないだろ」
「ですよね」
今日も平常運転だ。
俺はミヤジマ タツヤ。二十八歳。仕事は空調や建物設備の点検と修理。
現場を回り、見積書を作り、部下の教育、人の段取りをつける。空いた時間に休もうとすると、その空いた時間へ別の仕事が入ってくる。
予定表だけが、俺よりずっと元気だった。
腰の工具差しから、使い慣れた充電式のペンインパクトドライバーを抜く。
黒いグリップには細かな傷がある。何年も握ってきたせいで、重さも、スイッチの感触も、確かめなくても分かる。
これは、三年前に亡くなった人の形見だった。
俺が「おやっさん」と呼んでいた、あるビルの常駐員。
仕事をしていると、ときどき今でも、あの人に背中を見られている気がする。
「……よし」
最後のビスを締め、手元の記録を確認する。
室外機のファンが回る低い音。車の走行音。遠くの工事現場から聞こえる金属音。
腕時計の数字が、午後二時に変わった。
そのすべてが、同時に止まった。
「……え?」
顔を上げた。
屋上の端にとまろうとしていた一羽の鳥が、空中で静止している。
風でめくれかけた点検表も、俺のすぐ隣で動かない。
「所長?」
返事はない。
肩に触れてみても、相手は瞬き一つしなかった。
故障したのは、どうやら換気ファンだけじゃないらしい。
……いや、笑ってる場合じゃないな。
視界の中央に、青白い文字が現れた。
《SYSTEM MESSAGE》
《対象者:ミヤジマ タツヤ》
《参加条件に適合しました》
《現実逃避願望を確認》
「……現実逃避?」
ずいぶん失礼な診断だ。
でも、否定しきれない自分がいる。
《属性:炎》
《最も手に馴染む道具の記憶を照合中》
《固有装備を生成します》
視線が、手の中のペンインパクトへ落ちた。
黒い樹脂が赤い粒子になってほどける。
指に馴染んだグリップの輪郭だけを残して、金属の芯が伸び、細い刃へ変わっていった。
「……ちょっと待て」
刀身の下には銃身。柄には引き金。
剣なのか銃なのか、どっちかにしてほしい形だ。
《固有装備:焔銃剣》
「…………」
……かっこいい。
いや。
かっこいいけど。
「説明の順番、おかしくない?」
俺の作業着が黒と赤の戦闘服へ変わる。
手袋の感触まで別物になった。安全靴が、見覚えのないブーツへ姿を変える。
そのとき、耳元で声がした。
『……ミヤジマ』
低く、少しかすれた声。
聞き間違えるはずがない。
「……おやっさん?」
振り返る。
誰もいない。
所長は動かないまま。鳥も空に貼りついたまま。
あの声だけが、ひどく懐かしかった。
《転送を開始します》
《観測優先対象を確認》
《対象意識の転送処理を開始》
《ようこそ、あなたの望んだ世界へ》
「いや、望んだって、そんな簡単に――」
視界が白く染まった。
足元の感触が消える。
落ちているのか、浮いているのかも分からない。
耳の奥で、細い電子音が鳴り続けていた。
何かが頭の中を覗き込んでいるような、嫌な感覚。
……おいおい。今度は何だよ。
白い光の向こうに、人影が立っていた。
人間に見える。けれど、妙に現実味がない。
銀白色の髪が揺れ、白と黒の衣装が光に溶けている。
背中には、翼にも輪にも見える光が幾重にも浮かんでいた。
顔を確かめようとした瞬間、影が乱れる。
ただ、こちらを見つめる金色の瞳だけが、不自然なほど鮮明だった。
瞳の奥で、細かな幾何学模様が静かに回っている。
……誰だ?
『観測を開始します』
声がした。
男とも女ともつかない、静かな声。
耳から聞こえたのではない。言葉だけが頭の内側に直接落ちてきた。
「……観測? 何を――」
人影が、かすかに微笑んだ。
笑っているはずなのに、なぜか少しも安心できない。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
◇ ◇ ◇
靴底がコンクリートを踏んだ。
「……っ!」
身体が前へ傾く。俺は慌てて焔銃剣の切っ先を下げた。
立っていたのは、さっきと同じ屋上だった。
ただし、所長がいない。
工具箱も、点検表もない。
遠くに見える梅田のビル群は、何も変わっていなかった。
なのに、道路には車が一台も走っていない。
見慣れた歩道を、鎧やローブをまとった人影がぽつぽつ歩いている。
「……イベント会場にしては、ずいぶん広いな」
乾いた冗談が、やけに大きく響いた。
空に巨大な文字が浮かぶ。
《REALITY LOGOUT》
《ゲームフィールド:日本》
《参加者数:60,000》
六万人。
つまり、この状況に放り込まれたのは俺だけじゃない。
「……ログアウト」
反射的に言ってみた。
返事はない。
「メニュー」
半透明の画面が開く。
《所持品/マップ/パーティー》
《残機:2》
《ログアウト:利用不可》
……残機?
説明に指を触れる。
《死亡時、残機を1消費して安全区域で復活します》
《残機が0になった場合、復活できません》
《残機の回復手段は存在しません》
喉の奥が、ひやりとした。
二回死んだら終わり。
ゲームのように見えても、やり直しのきかない命がある。
普通なら、ここで必死に帰り道を探すんだろう。
実際、ログアウトという言葉には手が伸びた。
けれど。
俺は、さっきの屋上へ戻りたいとは思わなかった。
それが自分でも少し、気味が悪かった。
六年前、職場でうつむいていた一人の男がいた。
俺は、その人の苦しさに気づいていた。
それなのに、何もしなかった。
明日、声をかけよう。
そう思っているうちに、その明日はなくなった。
今でも、ときどき思い出す。
おやっさんのことも。
あの職場のことも。
逃げたいと思っていたのは、仕事だけじゃなかったのかもしれない。
「……考えるのは、あとにしよう」
俺は画面を閉じた。
手に残った銃剣の重さを確かめ、階段へ向かう。
まずは、この世界が本当にゲームなのか。
それを確かめないと。
◇ ◇ ◇
地上の梅田は、妙な静けさに包まれていた。
店の看板も信号も、見慣れた街並みもそのまま。
なのに、あちこちで剣や杖を持った人間が立ち尽くしている。
泣いている人がいる。
笑いながら武器を振り回している人もいる。
どちらの気持ちも、分からなくはなかった。
俺は焔銃剣を持ち上げる。
刃の奥を赤い光が流れていた。
「炎属性、か」
燃えるところを想像する。
ぱち、と刃の根元に火花が散った。
「……出た」
ちょっと嬉しい。
いや、かなり嬉しい。
もう一度試そうとした、そのときだった。
「やめてください!」
女性の声が聞こえた。
「お願いです、近づかないで!」
「だったら、その杖を渡せよ!」
足が止まった。
建物の隙間に、幅三メートルほどの細い路地がある。
奥は行き止まり。壁際に銀白色の髪の女性。その手前に、大きな斧を持った男。
女性は白と濃紺の衣装を着ていた。
長い銀髪。澄んだ青い瞳。
こんな状況でなければ、たぶんしばらく見とれていたと思う。
抱えている杖の先端は、どこか電話の受話器に似ていた。
「使えないんだろ、その杖。俺がもらってやるよ」
「使えないなんて言ってません!」
「じゃあ魔法を使ってみろ!」
男が斧を振り上げた。
俺は路地へ足を踏み入れていた。
「おい。そこまでにしとこうか」
男が振り返った。
「ああ? 誰だ、お前」
「ただの通りすがり。ついでに、その人の逃げ道をふさいでるのが気になってね」
「関係ねえだろ。失せろ!」
「それはそうなんだけど」
俺は女性を見た。
杖を抱える手が震えている。
「……嫌がってるみたいだからさ」
男が斧をこちらへ向けた。
まずい。
俺は剣道経験者でもなければ、銃を撃ったこともない。
さっき火花を出して喜んでいた初心者だ。
それでも、目をそらすことだけはできなかった。
「邪魔するなら、お前から殺してやる!」
男が踏み込んだ。
斧が斜め上から落ちてくる。
「……っ!」
銃剣を横にして受ける。
金属がぶつかり、腕の骨まで響くような衝撃が走った。
重い。
ゲームのコントローラーを握っていたときとは、まるで違う。
俺は壁側へ一歩ずれた。
斧が地面を叩く。火花が飛び散った。
「逃げてばっかりか!」
「一回も当たりたくないんでね」
口は動く。
でも、手は震えていた。
男は大きく振りかぶってから斧を戻す。
右肩が先に動く。次に左足が踏み込む。
……動きは速い。でも、次にどこを狙うかは見える。
俺は斧の外側へ回った。
空振りした男の脇腹を、銃剣の柄で突く。
「ぐっ……!」
男がよろめいた。
俺もすぐに距離を取る。
できれば、これで引いてくれ。
「ふざけるな!」
無理か。
再び斧が迫る。
俺は刃に意識を集中させた。
――燃えろ。
ぼうっ、と刀身が炎に包まれた。
赤い光が壁を照らす。
「何だ、その武器……!」
「俺もさっき知ったところなんだよ」
そのまま斧の刃を受け流す。
熱を帯びた金属に、男が顔をしかめた。
押せる。
そう思った瞬間、息が詰まった。
力を込めるほど、身体の奥から何かが抜けていく。
炎が揺らぎ、膝が折れかけた。
「隙だらけだ!」
斧が横薙ぎに走る。
避けきれず、左腕を浅く裂かれた。
「……っ!」
熱い。
いや、痛い。
血が流れている。
……これ、本当に痛いんだな。
男が笑った。
「どうした? 怖くなったか!」
「……最初から怖いよ」
俺は銃剣を握り直す。
「怖くない奴がいたら、紹介してほしいくらいだ」
すると、男が突然こちらに背を向けた。
奥へ走る。
狙いは、あの女性だ。
「お前がさっさと杖を寄こせばよかったんだ!」
「……まずい!」
俺も追う。
でも、間に合わない。
女性が杖を突き出した。
受話器の形をした先端に青い光が集まる。
次の瞬間、それは霧のようにほどけた。
「……どうして……!」
男が斧を振り上げる。
六年前の光景が、頭をよぎった。
うつむいていた背中。
何も言えなかった俺。
――今度も、明日にするのか。
俺は足を止め、銃剣の銃口を男へ向けた。
「伏せて!」
女性が身をかがめる。
男の背中が、俺の正面に残った。
引き金に指をかける。
ここで外せば、彼女が斧で斬られる。
撃つ。
選ぶ時間なんて、なかった。
バシュッ!
真紅の炎弾が路地を駆け抜けた。
男の背にぶつかり、赤い光が弾ける。
「……あ?」
斧が落ちた。
男は二歩よろめき、こちらを振り返る。
「……おい。何だ、これ」
指先が、光の粒子になった。
腕。肩。胸。
身体が、少しずつ崩れていく。
「待て……! やめろ……!」
男の声が途切れた。
路地に静けさが戻った。
《対象プレイヤーが死亡しました》
《対象プレイヤーの残機:2 → 1》
《安全区域で復活します》
「…………」
復活する。
そう書いてある。
でも、さっきの声が耳から離れなかった。
俺が撃った。
俺の判断で、人の残機を一つ減らした。
手の中の銃剣が、急に重く感じられた。
「……あの」
後ろから声がした。
振り返る。
銀髪の女性が、壁に手をついて立っていた。
「怪我、していますよね」
「……ああ。少しだけ」
「少しだけ、の量じゃないと思いますけど」
「ごめん。今、痛みの単位が分からなくなってて」
自分でも妙な返事だと思った。
女性は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく息を吐いた。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
「……無事でよかった」
しばらく沈黙が続いた。
俺が銃剣の切っ先を下げると、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
「……ところで」
「はい?」
「今後の予定って、決まってます?」
「……今後?」
「この世界での、です」
女性は困った顔をした。
「……決まっていません」
「じゃあ、俺と一緒に安全な場所を探しませんか」
「……いいんですか?」
「一人じゃ、また誰かに絡まれそうで。俺が」
「……あなたが?」
「今日だけでもう十分です」
彼女は、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
路地を抜けると、街の向こうから人の声が聞こえた。
誰かが怒鳴り、誰かが泣いている。
「そういえば、名前を聞いてませんでしたね」
「……私もです」
「ミヤジマ タツヤです。二十八歳。」
「キリシマ リンです。二十四歳です」
「……あれ。年齢まで聞きましたっけ」
「今、ミヤジマさんも言いましたよね」
「……そうだった。失礼」
リンが呆れた顔で笑う。
銀白色の長い髪。
青い瞳。
さっきは気づく余裕がなかったけれど、やっぱり綺麗な人だ。
「……何ですか?」
「いや、綺麗だなと思って」
「……っ!」
「その杖の形が」
「……杖?」
「……ええ」
嘘ではない。
どっちも綺麗だった。
リンが受話器のような先端を見下ろす。
「私、事務員で働いていたんです。電話とか書類の作成をしていて……受話器とペンをよく使っていました」
「なるほど。手が覚えていた道具、ってことか」
「ミヤジマさんは?」
「俺は設備屋。さっきの銃剣、元はペンインパクトなんです」
「……あれが電動ドライバー?」
「本人も驚いてます」
少しだけ、笑い合った。
「そうだ。武器、しまえないかな」
「……確かに、そのままだと危ないですね」
試しに口にする。
「武器収納」
焔銃剣が赤い光へほどけ、手から消えた。
《固有装備を収納しました》
「おお。成功」
「……すごい」
「もう一回出してみようかな」
「やめてください。まず傷をどうにかしましょう」
「……はい」
また怒られた。
……いや、当然だな。
リンは俺の左腕を見た。
「さっき、魔法が出なかったんです」
「見てました。青い光は集まってましたよ」
「でも、役に立たなかった」
「最初から使えたら苦労しないですよ。俺だって最初は火花でしたし」
「……そういうものですか」
「少なくとも、一回目でできないことを責めるのは早いと思います」
リンが少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
「いえ。ところで、安全な場所はどこでしょうね」
「マップ、見てみませんか?」
「……マップ?」
「ゲームなんですよね。地図くらい、あると思うんです」
「……そうか。剣の方ばかり気にしてた」
「ずいぶん楽しそうでしたね」
「反省してます。半分くらい」
「残り半分は?」
「やっぱり、かっこよくて」
「……もう」
リンが呆れたように笑った。
メニューからマップを開く。
地図の中、駅と地下街の一角だけが青く光っている。
《安全区域:駅・駅直結地下街》
《区域内でのプレイヤー間攻撃は無効》
「……ここです」
「近いですね。案内、お願いできます?」
「私がですか?」
「俺、仕事ではこの辺を歩くのに、地下街ではよく迷うんです」
「……それ、方向音痴ってことですか」
「地上限定で生きてます」
リンが、小さく笑った。
◇ ◇ ◇
地下街へ続く階段を下りた途端、人の声が増えた。
泣いている人。
スマートフォンが使えないと怒鳴っている人。
知らない者同士で、装備や街の情報を話している人。
青白い境界を越えた瞬間、左腕の痛みが消えた。
「……あれ?」
傷が、みるみるふさがっていく。
「治ってる……」
「本当ですか?」
「はい。すごい」
ただ、疲れは抜けなかった。
息は重く、斧を受けた右腕もだるい。
安全区域は万能じゃないらしい。
少し先には、黒い石造りの扉が立っていた。
駅の地下にあるはずのない、大きな門。
《ダンジョン:梅田地下迷宮》
《難易度:初級》
《入場後、クリアするまで退出できません》
何人かが門の前で足を止めている。
「途中で出られないって、本当かよ」
「魔物がいるらしいぞ」
「誰か一緒に行かないか?」
俺の足も、わずかに止まった。
……ダンジョン。
ずっと画面の向こうで見てきたものが、目の前にある。
「……行きたいんですか?」
リンが尋ねる。
「……興味はあります」
「だったら」
「でも、今は入りません」
リンが少し驚いた顔をした。
「どうして?」
「俺たち、魔法もまともに使えないでしょう。今入ったら、今度は自分たちの残機が減るかもしれない」
もう、そんなのは御免だった。
リンが、静かに頷いた。
「……そうですね」
そこへ、聞き覚えのある声が割り込んだ。
「おい! そいつだ!」
振り返る。
革鎧。大きな斧。
路地で光になって消えた男が、広場の入口に立っていた。
「……生きてたんですね」
「お前に殺されたんだろうが!」
周囲の視線が集まる。
「こいつ、俺を炎で撃ったんだ! 残機を一つ奪いやがった!」
ざわめきが、波のように広がった。
「もう人を殺した奴がいるのか……?」
「怖いな」
「そいつとは組まない方がいい」
俺は、言葉を探した。
助けようとした。
斧で襲われた。
先に攻撃された。
どれも事実だ。
でも、あいつの残機を一つ減らしたのも事実だった。
男がもう一度、声を張り上げる。
「人殺しだ! そいつに近づくな!」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
……まただ。
六年前。
人が追い詰められているのに、俺は黙っていた。
今日は止めようとした。
なのに、今度は自分が人を傷つけた。
……何をすれば、正しかったんだろう。
「……違います!」
声が響いた。
リンだった。
俺の一歩前に立ち、男をまっすぐ見ている。
「この人は、私を助けてくれたんです」
「口裏を合わせてるだけだろ!」
「違います。あなたが私の杖を奪おうとして、斧を向けました。先に攻撃したのも、あなたです」
リンは一歩も引かなかった。
「それを見ていたのは、私です」
男が舌打ちする。
周囲からの視線は、まだ冷たい。
誰が正しいかなんて、そこにいなかった人間には判断できない。
男は俺たちを睨み、雑踏へ消えた。
残ったのは、妙な静けさだった。
俺は、近くで仲間を募集していた二人組に声をかけてみた。
「……すみません。二人、加えてもらえませんか」
一人が俺を見て、もう一人へ目配せした。
「……悪い。今はちょっと」
「……分かりました」
断られるのは、仕方ない。
そう思えるほど、胸の中が整理できているわけじゃなかった。
俺は壁際のベンチへ戻った。
「……いやあ。初日から評判最悪ですね」
笑ってみた。
自分でも、うまく笑えていないと分かった。
リンが隣に立つ。
「……ミヤジマさん」
「……はい」
「さっき、後悔してますか?」
俺はしばらく黙った。
斧の男が消える瞬間の声は、まだ耳に残っている。
「……怖かったです」
リンは黙って聞いていた。
「今も、怖いです。でも……助けなければよかったとは、思ってません」
彼女が小さく頷く。
「ただ、俺と一緒にいると、キリシマさんまで疑われるかもしれない」
「……だから?」
「別の仲間を探した方が――」
「嫌です」
即答だった。
リンは俺を見上げる。
「誰と一緒にいるか、私が決めてもいいでしょう?」
「……もちろん」
「だったら、勝手に決めないでください」
強い言葉だった。
なのに、さっきの斧よりずっと胸に響いた。
「……私、あの路地で何もできなかったんです」
彼女が視線を落とす。
「怖くて、魔法も出せなくて。でも、ミヤジマさんは逃げなかった」
「……俺だって怖かったですよ」
「知ってます」
リンが小さく笑った。
「手、震えてましたから」
「……見られてました?」
「目の前でしたから」
最初に交わした会話と、同じ返事だった。
俺も、つられて笑う。
「……それでも、助けてくれたでしょう?」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
「私は、あなたを信じます」
「…………」
何か返したかった。
冗談の一つくらい、すぐに出てくるはずだった。
でも、何も出てこなかった。
リンが、そっと右手を差し出す。
「一緒に、行きませんか」
俺は、その手を見つめた。
屋上では、現実から逃げたいと思っていた。
この街で、初めて人の命を一つ奪った。
知らない人には、人殺しと呼ばれた。
それでも。
こんな俺を、信じると言ってくれる人がいる。
「……よろしくお願いします。キリシマさん」
「こちらこそ、ミヤジマさん」
手を握る。
指先はひんやりとしていた。
リンが、初めて安心したように笑った。
さっきまで黒い扉しか見えていなかった場所で、俺はその笑顔を見つめていた。
……変だな。
あの屋上へ戻りたいとは、今も思わない。
でも、この世界でどう生きたいかなら――少しだけ、分かった気がした。
まずは、隣のこの人を置いていかないこと。
そして、今度こそ。
誰かが苦しんでいるとき、見なかったふりをしないこと。
地下街の向こうで、見知らぬ黒い扉が静かに光っていた。
あの奥に何があるのかは分からない。
ただ一つ。
この世界に来て初めて、明日が少しだけ楽しみになった。
――第1話 完――
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
タツヤとリンの冒険は、まだ始まったばかり。
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木曜日、日曜日の週2回投稿を予定してます。
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