ep.98 誰の言葉
次の休日、真琴がACROSSへ来たのは午前十時を少し過ぎた頃だった。前回、『継続――確認』と『終了――確認』が同じ日に続けて現れてから一週間ほど経っていたが、その間に優也が一人で何かを試すことはなく、仕事帰りにガレージへ寄った日も、必要な荷物を取り出して車内を軽く確認しただけで帰っている。画面が勝手に光ることも、白い文字が現れることもなかった。真琴も到着してすぐ実験の話を始めることはなく、いつものように靴を脱いで車内へ上がり、ソファの端へバッグを置いた。今日は夕方から別の予定があるらしく、五時半頃には帰りたいと言う。その一方で優也は、最近なかなか進んでいなかった無線の問題集を少し片付けたいので、真琴を見送ったあとも一時間ほどACROSSに残るつもりだった。
「じゃあ今日は途中で別行動ですね。私は五時半くらいに出ますけど、優也さんはそのあとも残るんですよね?」
「うん。最近、家帰ったら結局やらんからな。ここやったら逃げ道少ないし、真琴帰ったあと一時間くらい問題集やって、片付けしてから帰るわ」
「逃げ道って、自分の車なのに」
「冷蔵庫とソファは敵やけどな。寝ようと思ったら普通に寝られるし」
真琴は笑いながら「それは自制してください」と返し、そのままキッチンへ向かった。午前中は買い物へ出るほどの用事もなく、冷蔵庫の中に残っているものだけで昼食を作れそうだったので、二人は車内で過ごすことにした。前回の表示については、コーヒーを飲みながら短く確認しただけだった。継続しているときに『継続――確認』、帰宅準備を終えて本当に一日を終えるときに『終了――確認』が出たこと。その二つは発話内容と実際の状態が同じ方向を向いていたため、言葉を拾ったのか状況を拾ったのかは分けられない。それでも、何もかも同じ『受領――確認』として処理されているわけではなく、少なくとも状態に応じて表示を変えている可能性は高くなった。
「今日は、そこから先を試す予定はなしでええんやな?」
優也が確認すると、真琴は迷うことなく頷いた。ここ数回の変化が大きかったからこそ、何かを確かめるためだけの一日にしないという方針は、もう二人の間で説明し直す必要もないほど自然になっていた。
「はい。今日は私と優也さんで帰る時間が違うので、普通に過ごしているだけで前回とは違う条件になります。もし何も起きなければ、それで終わり。何か出たとしても、まずそのまま見ます。こちらから条件を作る必要はないです」
「了解。ほな今日はほんまに普通の日やな」
「その普通の日が一番使えます。作った条件より、実際の使い方の中で起きたほうが、あとで余計な説明をしなくて済みますから」
優也は「研究者らしい言い方やな」と笑ったが、自分でもその考え方には慣れてきていた。以前なら、せっかく帰る時間が違うなら「片方が帰ると言った時にどうなるか」を最初から試していたはずだ。今は、そういう状況が本当に来るまで待てばいいと思える。 ACROSSの変化は、追いかけた回数に比例して進むわけではない。むしろ、生活の中で必要になった時や、二人が普通に使っている時ほど予想外の形で現れることが多かった。その積み重ねを思えば、今日も何かを起こす日ではなく、起きたなら見逃さない日くらいでちょうどよかった。
◇
昼は、冷蔵庫に残っていた鶏肉と野菜を使って簡単な丼にした。優也がフライパンを使い、真琴は味噌汁と小さなサラダを用意する。料理をしながら話したのは、次に泊まりで出るならどこへ行くかということだった。真琴は紅葉が見られる山側を候補に挙げ、優也は温泉があることを条件に追加する。距離は片道三時間以内、できれば大型車でも入りやすい場所、近くに買い物できる店があればなおいい。以前なら目的地を決めるだけでかなり時間を使っていたが、最近は二人とも「全部満たす場所がなければ別に次でもいい」という感覚になっており、候補をいくつか残すだけで話がまとまった。
「前やったら、一個決めるまでずっと検索してたな」
優也が丼を盛り付けながら言うと、真琴は味噌汁を運びながら少し笑った。予定を詰め込み過ぎず、その場で変えられる余地を残しておくほうが二人には合っていると分かってきたのも、ACROSSで何度も出掛けた結果だった。
「最初の頃は、せっかく出掛けるなら失敗したくなかったですからね。でも最近は、途中で予定を変えてもACROSSなら何とかなるって分かってきましたし、泊まる場所だけ決まっていれば、観光はその場で考えてもいいかなと思えるようになりました」
「それやな。飯も作れるし、疲れたら中で休めるし。前より旅の予定が雑になったのに、逆に楽になったわ」
「雑じゃなくて余裕ができたって言ってください」
二人は笑いながら向かい合って食べた。食後は真琴が洗い物をし、優也がキッチン周りを拭いて片付ける。どちらが何を担当するか決めているわけではないが、最近は自然に手が空いているほうが動くようになっており、そうした小さな変化も優也には居心地がよかった。片付けが終わると、真琴はノートパソコンを出して一時間ほど仕事をすることになった。優也も向かい側で問題集を開き、同じテーブルを使う。リビングにはページをめくる音と、真琴が時々キーボードを打つ音だけが続いた。その静けさの中で、スマートフォンも運転席のモニターも何も変わらなかった。
◇
午後三時を過ぎた頃、真琴が先に作業を終えた。優也はまだ一つの問題に引っかかっており、解説を何度読んでも納得できず、紙の端へ自分なりの図を書いている。真琴が横から覗き込んだものの、無線の専門的な内容までは分からないので、文章の条件を整理する程度しか手伝えない。
「これ、また西村さんに聞いたほうが早いんちゃうかな」
優也が鉛筆を置くと、真琴は問題文をもう一度読みながら頷いた。内容そのものを教えることはできなくても、どこで読み違えているのかを整理するくらいなら手伝えるので、最近はこうして横から文章だけ見てもらうことも増えていた。
「聞ける人がいるなら、そのほうがいいと思います。分からないまま一時間考えても、前提を勘違いしてたら全部ずれますし」
「せやな。今日ここまでにしようかな」
「私はまだ帰りませんよ。五時半です」
「分かってる。勉強のここまで。俺はそのあと別のとこ進める」
その会話の途中で、テーブルの端に置いていた優也のスマートフォンがゆっくり暗くなった。二人とも言葉を止めたが、以前のように身構えることはなく、触らずにそのまま待つ。数秒後、画面中央へ白い文字が一行だけ現れた。
『確認――待機』
優也は時計を見る。真琴が帰るまで二時間以上あり、自分もまだ車内に残る予定だ。前回の『継続――確認』と似た状況ではあるが、今回は二人の予定が同じではない。真琴もその違いを意識したらしく、画面から目を離さずに静かに言った。
「今は、二人ともまだここにいます。でも帰る時間は違いますね」
「せやな。俺は残るけど、真琴は五時半で帰る」
「無理に何か言わず、このままにしましょう。もし前回と同じように状態だけ拾うなら、今は二人とも継続中ですから」
「了解」
二人はそれ以上何も言わず、それぞれの作業へ戻った。『確認――待機』はしばらく画面に残っていたが、十秒ほどすると何も追加されないまま薄くなり、通常のホーム画面へ戻った。
「何もなしやな」
「はい。それも記録しておきます。二人の状態がまだ同じだから、区別する必要がなかった可能性もありますし、そもそも今回は何の意味もない待機表示だった可能性もあります」
「結局、分からん時は分からんやな」
「そうです。それでいいんです」
真琴は短く時刻だけを書き留め、それ以上追わなかった。何も起きなかった時間も、後で条件を比べる時には意味がある。だからこそ、反応がないからといってすぐ次の刺激を足さないことを、二人とも以前より大事にしていた。
◇
四時を過ぎると、二人は少し早めの軽食を取ることにした。真琴は帰宅後にも用事があるので、ここで重い夕食を食べるつもりはなく、パンとスープだけで済ませる。優也は真琴を見送ったあとにもう少し残るため、足りなければ後で何か食べればいいと考えていた。食べながら、真琴は帰る時間を確認した。
「五時十五分くらいから片付け始めます。五時半には出たいので、私はその時点で今日は終わりです」
「俺はそのあと問題集もうちょいやって、六時半か七時くらいに帰るかな。最近ほんまサボってるから、今日は一時間だけでもやっとく」
「一時間でいいと思います。帰る時間を決めておかないと、そのまま寝そうですし」
「それはある。上のベッド降ろしたら終わりや」
「絶対降ろさないでください」
二人は笑った。その時点では画面に何も起きていない。さっき一度『確認――待機』が出ただけで、追加表示はなかった。五時を過ぎる頃、真琴は仕事用の端末をバッグへ戻し、充電器やノートを確認し始めた。優也はまだ問題集を開いているが、玄関近くに置いていた真琴の上着を取って渡す。
「忘れ物ない?」
「たぶん大丈夫です。充電器も入れましたし、ノートもあります。優也さんは本当にまだ残るんですよね?」
「残るで。真琴帰ったあと一時間くらい。だから照明もそのままやし、キッチンもまだ使うかもしれん」
「じゃあ私はここで終わりですね。今日はありがとうございました」
「何の礼やねん。普通に来てただけやろ」
「それでもです」
真琴は笑いながら玄関へ向かい、靴を履き始めた。その時、リビングのスマートフォンが暗くなった。二人とも動きを止めた。前回の『終了――確認』を思い出さないほうが無理だったが、今回は条件が違う。真琴は帰るが、優也は残る。ACROSSそのものの使用は終わらない。白い線が現れ、数秒かけて文字へ変わる。
『終了――真琴』
優也は息を止め、真琴も片方の靴を履いたまま、画面を見て動かなかった。表示は一行だけだったが、そこに自分たちが普段呼び合っている名前が付いたことで、これまでの短い状態表示とは受ける印象がまるで違っていた。
『終了――真琴』
前回は『終了――確認』だった。今回は、その後ろに真琴の名前がある。数秒後、さらに下へ細い線が現れた。
『継続――優也』
車内の空気が変わった。二人のどちらも、すぐには声を出せなかった。真琴は帰る。優也は残る。その二つの違いが、名前付きで二行に分かれている。
『終了――真琴』
『継続――優也』
表示は十秒ほど残ったあと、ゆっくり薄くなって消えた。スマートフォンが通常のホーム画面へ戻っても、真琴は靴を履き直そうとせず、その場で優也を見る。優也もリビングから動かず、何を言えばいいのか迷った。
「……名前、出たな」
ようやく優也が声を出すと、真琴は小さく頷いた。驚いているのは同じでも、そこで勢いのまま意味を決めないようにしているのが、彼女の表情からも分かった。
「はい。しかも、私と優也さんで状態を分けています」
「俺ら、名前言うてへんよな?」
「今の会話では言ってません。少なくとも、帰る準備を始めてからは呼び合ってないです」
真琴は落ち着いて答えようとしていたが、声にはいつもより明らかな緊張が混じっていた。単に名前を表示しただけなら情報源はいくらでも考えられるものの、その名前を現在の二人へ正しく割り当てたように見える点は、これまでの変化より一段踏み込んでいる。
「これ、どう見る?」
優也が聞くと、真琴はすぐに結論を出さず、玄関に座るような形で少し考えた。靴を履いたままなのも、今ここで車内へ戻ってしまえば『終了――真琴』という状態そのものを二人で壊すことになるからだった。
「まず、名前そのものはACROSSの中で何度も使っています。私たちが会話の中で呼び合っていますし、スマートフォンや端末の連絡先、記録にも入っている。だから、“名前を知っている”だけなら説明はできます。ただ、今重要なのは、その名前を現在の二人へ正しく割り当てて、それぞれ違う状態として表示したように見えることです」
「真琴は終了、俺は継続」
「はい。前回までなら、車内全体が継続なのか終了なのかという見方もできました。でも今回は同時に二つ出た。少なくとも表示上は、状態を人ごとに分けています」
優也は画面が消えたスマートフォンを見た。さっきまでそこに自分と真琴の名前が並んでいたことが、何も残っていないホーム画面を見るほど逆に現実味を増してくる。
「これは、さすがにでかいな」
「大きいです。でも、今ここで再現しないでください。私が靴を脱いで戻ったら“終了”の条件が崩れますし、優也さんまで帰るふりをしたら完全に作った条件になります」
「分かってる。今日は真琴ほんまに帰る。俺はほんまに残る。それが今の条件やもんな」
「はい。そのままにしましょう」
真琴はバッグから自分のスマートフォンを取り出し、立ったまま最低限のメモだけを残した。時刻、帰宅準備中、真琴は帰宅予定、優也は残留予定、表示『終了――真琴』『継続――優也』。解釈は書かず、事実だけを並べる。
「動画ないの惜しいな」
優也が言うと、真琴は少し悔しそうにしながらも首を横へ振った。映像として残せなかったことより、普通の一日の中で自然に起きたという条件を崩さないほうが、今は大事だと考えているらしい。
「普通に過ごしている中で出たからこそ意味があります。毎回録画していたら、私たち自身がずっと実験している状態になりますし、今日は二人とも見ています。次に似たことが起きた時に、そこで記録を重ねればいいです」
「了解」
真琴はメモを終え、今度こそ靴を履いた。詳しい整理は次に会った時でいい。今は、帰る人と残る人が本当にその予定どおり動くことのほうを優先する。
「私は本当に帰ります。優也さんは本当に残ってくださいね」
「なんか変な確認やな」
「今は大事です。表示に合わせるんじゃなくて、最初から決めていた予定をそのまま続ける。そこを変えたくないです」
「分かってる。俺は問題集やってから帰る」
「じゃあ、また連絡します」
「うん。気をつけてな」
真琴はACROSSを降り、扉を閉めた。優也は玄関からその背中を見送り、いつもならそこで手を振って終わるところを、今日は自分だけが車内へ残るという事実を少しだけ意識した。
◇
一人になった車内で、優也はすぐスマートフォンを確認しに行かなかった。画面はすでに普通に戻っているし、履歴に何か残るとは思っていない。それより、真琴と決めたとおり、自分は残ることのほうが今は大事だった。リビングへ座り直し、問題集を開く。しかし、さっきの二行が頭から離れず、同じ問題を三回読んでもほとんど内容が入ってこない。
『終了――真琴』
『継続――優也』
名前を表示しただけなら、どこかから拾ったと考えられる。ACROSSの中では二人の名前を何度も呼んでいるし、真琴の端末にも優也の名前がある。優也のスマートフォンにも真琴の連絡先は入っている。けれど、それぞれを現在の人物と結びつけて、片方を終了、片方を継続として分けた。そこが違う。優也は一度問題集を閉じ、スマートフォンへ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。今《鑑定》を使っても、結局さっきの表示を追い掛けるだけになる。真琴が帰り、自分が残っているという条件はすでに成立しているのだから、そのまま過ごすほうがいい。
「集中できへんけどな」
小さく笑い、もう一度問題集を開いた。十分ほどすると、少しずつ文字が頭へ入るようになった。分からない問題は飛ばし、理解できるところだけ進める。途中でコーヒーを淹れ、冷蔵庫から小さな菓子を一つ出したが、画面は何も変わらない。真琴が帰ってから四十分ほど経った頃、優也のスマートフォンにメッセージが届いた。
『駅に着きました。表示はその後何かありましたか?』
優也は少し考えてから、『何もなし。ちゃんと勉強してる』と返した。すぐに真琴から『それならそのまま続けてください。今日は追加で試さないでくださいね』と返ってくる。離れたあとまで念押しされることに苦笑しながらも、優也自身も今日はそのつもりだった。
「分かってるっちゅうねん」
優也は笑ってスマートフォンを伏せ、残りの時間を問題集に使った。さっきの表示を考え続けるより、最初に決めた予定を崩さず一時間を過ごすことが、今は一番きれいな記録になる。
◇
六時半を過ぎ、決めていた一時間が終わったところで、優也は問題集を閉じた。進んだ量は思ったほど多くなかったが、分からないところに印を付け、西村に聞きたい項目もまとめられたので、今日はこれで十分だった。カップを洗い、使ったテーブルを片付ける。真琴が帰ったときにはまだ点けていたリビングの照明も落とし、冷蔵庫と電源を確認した。今度は優也自身が本当に一日を終える番だった。
「よし、俺も帰るか」
誰かへ向けた言葉ではなく、自分の動作を区切るための独り言だった。そのまま玄関へ向かい、靴を履く。スマートフォンはリビングのテーブルに置いたままで、画面は暗い。優也は扉へ手を掛けた。背後で、画面が明るくなる。振り返ると、白い文字が一行だけ表示されていた。
『終了――優也』
今度は驚いても、すぐに近づかなかった。真琴が帰った時には『終了――真琴』『継続――優也』と二つに分かれていた。そして、優也も本当に帰る準備を終えた今、表示されたのは『終了――優也』だけだった。数秒残ったあと、文字はゆっくり薄くなった。優也は玄関に立ったまま、その消えるところまで見届けた。
「……そら、そうなるか」
思わず出た言葉に、自分で少し笑う。筋は通っている。真琴が帰る時、真琴は終了し、優也は継続した。優也が帰る時、優也も終了する。ただ、それを誰がどこまで見ているのかは分からない。声を拾ったのか、位置や動作を見ているのか、スマートフォンの利用状況まで含めて判断しているのか、それとも《鑑定》とACROSSの奥にある何かが、もっと別の形で状態を整理しているのか。それでも、名前と状態の組み合わせが二度続いたことは大きかった。優也はスマートフォンを手に取らず、その場で真琴へメッセージを送るのもやめた。外へ出てからでいい。今は本当に終える。
「ほな、帰るわ」
もう一度だけ自然に言い、優也はACROSSを降りた。表示が出たから帰るのではなく、最初から決めていた一時間が終わったから帰る。その順番だけは最後まで変えなかった。
◇
ガレージの外へ出てから、優也は真琴へ短いメッセージを送った。中に戻って詳しく確かめたくなる気持ちが全くないわけではなかったが、今夜は事実だけを共有して終えることにした。
『俺が帰る時に「終了――優也」出た。ほかは何もしてない』
少しして、真琴から返事が届いた。内容は予想どおり、追加の確認はせずそのまま終えることを肯定するものだった。
『分かりました。今日はそのまま終わりで正解だと思います。次に会った時、二つ並べて整理しましょう』
優也はスマートフォンをポケットへ戻し、シャッターを閉める前にACROSSを一度だけ見た。中は暗く、今は何も表示されていない。今日の出来事を、会話と呼ぶことはできない。ACROSSが二人の名前を理解している、と断言することもまだできない。名前の情報自体は、車内の会話や端末からいくらでも拾える可能性があるし、人を識別する方法も現代の機器だけで考えれば顔、声、端末、位置情報などいくつもある。ただ、今回の表示は、それまでより明らかに細かかった。真琴が帰り、優也が残る。その違いを一つの「終了」や「継続」でまとめず、二人の名前を付けて分けた。そして優也が帰る時には、今度は優也を終了として表示した。発話内容を種類ごとに分けているように見えた前回から、今度は状態を人ごとに分けているように見えるところまで進んだことになる。優也はシャッターへ手を掛けたまま、少しだけ考えた。これまで《鑑定》は、対象を見れば情報を返してきた。対象が車なら車、設備なら設備、空間なら空間。その範囲が少しずつ広がり、今では使われ方や共有の状態まで表示されている。もし、その延長で人間も一人ずつ区別しているだけなら、今日の表示も「会話」とは別のところで説明できる。真琴なら、たぶんまずそう考える。優也も今は、それでいいと思えた。声が返ってくるかどうかより先に、ACROSSが何を一つの対象として見ているのか、その輪郭が少しずつはっきりしてきている。二人をただ「利用者」としてまとめるのではなく、少なくとも表示の上では優也と真琴を別々に扱った。それだけで、今日の変化は十分に大きかった。
◇
翌日、真琴から届いたメッセージには、昨夜の二つの表示を並べた簡単な整理が書かれていた。二人でノートを開けない代わりに、忘れないうちに最低限の比較だけしておこうと考えたらしく、まず実際に表示された内容がそのまま並び、その続きには解釈を広げすぎないための注意点まで真琴らしい言葉で付け加えられていた。
『真琴帰宅時:終了――真琴/継続――優也』
『優也帰宅時:終了――優也』
『人物ごとの状態区別が行われている可能性』
『名前情報の取得元――不明』
『人物識別方法――不明』
『発話内容の理解と直接結びつけない』
『現時点では状態表示の細分化として扱う』
最後まで徹底して慎重な書き方を崩していないのを見て、優也は思わず笑った。その直後には、もう何度目か分からないほど繰り返している一文まで添えられている。変化のたびに急がないと確認し合ってきたからこそ、今のペースを保てているのだと分かっていても、さすがに見慣れた言葉だった。
『次も普通に使いましょう』
優也は『了解。もう言われんでも分かってる』と返したが、真琴からは間を置かずに、まだ完全には信用していないような返事が届いた。
『言われなくても本当にやるようになったら言いません』
以前なら冗談として流していたかもしれないが、最近の優也は実際に一人で余計な確認をしなくなっているので、完全に信用されていないわけでもなさそうだった。
「信用あるんかないんか分からんな」
優也は笑いながらスマートフォンを置いた。けれど、真琴が慎重になる理由は分かっている。名前が出たからといって、人を理解したとは限らない。状態を分けたからといって、意思を持ったとも限らない。それでも、前回までとは違う。ACROSSの中で起きている何かは、優也と真琴を同じ一つの「受け手」として処理するだけではなくなっていた。誰が残り、誰が帰るのか。少なくとも、その違いは表示の中へ現れた。優也は仕事へ出る準備をしながら、昨夜の二行をもう一度思い出した。
『終了――真琴』
『継続――優也』
ただの名前が、初めて状態と結びついた。そのことが、白い文字そのものよりも長く頭に残っていた。これまでは「誰かへ届く」という曖昧な方向だけだったものが、優也と真琴という二人の輪郭を持ち始めたようにも見える。まだそれを理解や認識と呼ぶには早い。それでも、次に何かが変わるなら、もう画面の場所だけを見ていればいい段階ではなくなっているのかもしれなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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