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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
92/266

ep.92 届く場所


 運転席のモニターへ《鑑定》結果の三行が表示されてから数日、優也と真琴は、その出来事を新しい機能として扱わないまま、いつもどおりACROSSを使っていた。


 一度だけ起きた現象を「できること」に数えないという考えは、もう二人の間で何度も確認してきた。スマートフォンへの共有は安定しているが、運転席のモニターはそうではない。前々回には『共有――』という途中表示が一度出ただけで、前回になってようやく通常の《鑑定》結果が三行まで現れた。それだけで「別の画面でも共有できるようになった」と決めるには、まだ早い。


 だからその週末も、二人は実験から始めなかった。


 真琴がガレージへ来た頃、優也はキッチンでコーヒーを淹れていた。冷蔵庫には前回買った飲み物が残っており、昼食に使えそうな食材も少しある。わざわざ買い出しへ行くほどではないので、午前中は車内で過ごし、昼から近場へ出ることにした。


「今日は、モニター見る?」


 真琴が前回の記録を開きながら聞く。


「気にはなるけど、最初からやる気はないかな。普通に使って、タイミングあったら一回見るくらいでええやろ」


「そのくらいがいいと思います。前回の三行も、出そうとして出たわけじゃありませんし」


「でも六行全部出るとこは見たいで」


「それは私も見たいです。ただ、見たいものを先に決めると、それ以外を見落としやすくなるので」


「はいはい。三行の次は六行、その次は声、みたいに勝手に順番作らんようにする」


「そうしてください」


 優也がカップを二つテーブルへ置くと、真琴は小さく笑った。


 以前なら、こういう話をしているだけで少し空気が張っていた。何か新しい現象が起きるたびに、二人とも意味を掴もうとし、早く次を知りたくなった。今は、分からないものを分からないまま置くことに、少しずつ慣れている。


 それは興味を失ったということではない。むしろ逆だった。


 気になるからこそ、急いで名前を付けない。その距離感が、ようやく二人の中で形になり始めていた。


          ◇


 昼前、二人はACROSSで四十分ほど走り、大きな河川公園へ向かった。


 大型車でも入りやすい駐車場があり、道幅にも余裕がある。到着すると、優也は端の区画へACROSSを停め、車体の周囲を一度確認してからエンジンを落とした。


 天気は薄曇りで、風は少しあるものの寒くはない。


 二人は車内で簡単に昼食を済ませ、そのまま川沿いの遊歩道へ出た。真琴は途中で何枚か写真を撮り、優也は対岸の山を眺めながら、次にあの方面へ行くなら道幅を先に調べておこうと話す。


「最近、行けるかどうかより、停められるかどうかを先に見るようになりましたね」


「そら、このサイズやからな。走れても停められへんかったら意味ないし」


「前より現実的です」


「昔はもっと雑やったみたいに言うな」


「雑というより、“大きいなら何とかなる”に少し寄ってた気がします」


「まあ……否定はしにくいな。中広いし、装備も多いし、最初は何でもできそうに見えたから」


 優也は笑いながら、歩道の端へ少し寄った。


 向こうから自転車が来ていたためだ。


 真琴も自然に横へ寄る。


「実際は、大きいから困ることもありましたね」


「狭い町とか、入口とか。車椅子の人の件は今も残ってるしな」


「はい。だから今くらいの考え方のほうがいいと思います。ACROSSが変わるかもしれないからって、今できないことを期待で埋めない」


「できないことを、できることに数えない」


「そこは変わらないです」


 二人はそのまま歩いた。


 少し前までなら、ACROSSの話をすれば、すぐ《鑑定》や追加空間の話へ寄っていた。今日は違う。どこへ行けば楽か、どのくらい歩くと疲れないか、次に両親を連れていくなら段差の少ない場所がいいかもしれない、そんな普通の旅の話が続く。


 四十分ほどして、川沿いのベンチへ座った。


「こういうの、だいぶ好きになったな」


 優也が飲み物の蓋を開けながら言う。


「観光地じゃなくても?」


「うん。昔は遠出するなら何か見に行かな勿体ないって思ってたけど、今はACROSSで来て、飯食って、歩いて帰るだけでもええわ」


「旅の目的が変わったんでしょうね」


「何を見るかより、どこで過ごすかになってきた?」


「それに近いと思います」


 真琴は少し考えてから続けた。


「私も、前はACROSSに乗る日は“何かする日”って感じがありました。研究だったり、旅行だったり。でも今は、仕事を少し持ち込んで、途中でお茶して、そのまま帰る日も普通になりました」


「家っぽくなってるやん」


「前からでしょう?」


「俺の中ではまだ車のつもりもあるんやけどな」


「両方でいいんじゃないですか。車でもあるし、帰ってくる場所でもある」


 優也は返事の代わりに少し笑った。


 その言葉に、もう以前ほど照れなくなっている自分がいた。


          ◇


 ACROSSへ戻ると、真琴は予備室で三十分ほど資料を読むことにした。


 優也はリビングへ戻り、無線の問題集を開く。最初の二ページは順調だったが、三ページ目で前に理解したつもりの項目が分からなくなり、しばらく同じ段落を読み返した末、諦めてスマートフォンへメモを残した。


「また西村さんに聞くか」


 独り言を漏らし、問題集を閉じる。


 そこへ真琴が予備室から戻ってきた。


「終わりました。優也さんは?」


「二ページ進んで一ページ戻った」


「前よりいいじゃないですか。前は三ページ読んで全部怪しかったでしょう?」


「記憶力まで管理されてる気するわ」


「見てれば分かります」


 真琴は笑い、冷蔵庫から水を取った。


 時刻は午後二時を少し過ぎている。


「そろそろ帰る?」


「そうですね。帰りにスーパー寄ってもいいですか?」


「ええよ。俺も家の冷蔵庫ほぼ空やし」


 二人は運転席と助手席へ移り、出発前の確認を始めた。


 電力、水、タイヤ、車両警告。問題はない。


 優也はスマートフォンを手に取ろうとして、リビングのテーブルへ置いたままだったことに気付いた。


「スマホ置いてきたわ」


「取ってきます?」


「いや、別にええか。帰り道は車側のナビで足りるし」


 真琴も気に留めなかった。


 そのまま出発しようとして、優也は少しだけ迷ったあと、運転席のモニターへ目を向けた。


「今日、まだ一回も見てへんな」


「《鑑定》ですか?」


「うん。状態確認だけ一回やっとく? 何か出そうとしてじゃなくて」


 真琴は数秒考えた。


「それならいいと思います。私もここにいますし、いつもの共有だけ意識してください。画面は指定しないで」


「了解」


 優也はACROSS全体へ意識を向けた。


 今の状態を知る。


 そして、隣にいる真琴にも同じものが見えればいい。


 それだけを思う。


『鑑定』


『対象――ACROSS』

『空間状態――安定』

『追加空間――維持』

『外部寸法――変化なし』

『接続状態――安定』

『魔素反応――微弱』


 いつもの六行が、優也の内側へ現れた。


 真琴はスマートフォンを持っていない。


 二人の視線が自然に運転席のモニターへ向く。


 最初は何も起きなかった。


 通常の車両情報が表示されているだけで、白い線も出ない。


 優也が「今日はなしかな」と言いかけた、そのときだった。


『対象――ACROSS』


 白い一行が画面中央へ現れた。


 前回より、文字の輪郭がはっきりしている。


 数秒後、その下へ二行目。


『空間状態――安定』


 続いて、


『追加空間――維持』


 三行目。


 ここまでは前回と同じだった。


 二人とも動かず、続きを待つ。


 少し間があった。


 それから四行目が現れる。


『外部寸法――変化なし』


 優也は何も言わなかった。


 真琴も、視線を外さない。


 さらに、


『接続状態――安定』


 五行目。


 最後の一行だけ、少し遅れた。


『魔素反応――微弱』


 六行すべてが揃った。


 優也の内側へ出た順番と同じだった。


 表示はそのまま数秒残り、やがてまとめて薄くなって通常の車両画面へ戻る。


 車内には、短くない沈黙が残った。


「……全部出たな」


 優也がようやく口を開く。


「はい。今回は六行全部です。順番も内部結果と一致しています」


「スマホ、向こうに置いたまま」


「私も見ていません」


「前回は三行で止まったけど、今回は最後まで来た」


「そうですね。ただ、これで“いつでも出る”とはまだ言いません。一度、完全表示ができた。今言えるのはそこまでです」


「分かってる。新機能扱いはまだなし」


 真琴は頷いた。


 慎重な言い方ではあったが、表情には前回より明らかな手応えがあった。


          ◇


 二人はすぐに出発せず、リビングへ戻って記録を残すことにした。


 今回は映像を撮っていない。


 最初から実験するつもりではなかったため、録画の準備もしていなかった。それでも二人とも同じ表示を見ているし、内容も優也の内部結果と完全に一致していた。


 真琴は前回のページを開き、三行で止まった記録の下へ今日の内容を書き足す。


『運転席モニター』

『通常車両表示中』

『真琴――助手席』

『スマートフォン――リビングに置いたまま』

『《鑑定》――ACROSS全体』

『外部表示――通常鑑定六項目すべて』

『順番――内部結果と一致』

『追加表示なし』


「これで“運転席モニターも共有先になり得る”までは言ってええ?」


 優也が聞くと、真琴は少し考えてから頷いた。


「はい。少なくとも一度、完全な共有が成立したことは事実です。ただし、安定運用できるかは別です」


「そこはもう分かってるって」


「分かってても、毎回確認します」


「研究者つよいな」


 二人は笑った。


 空気が少し緩んだところで、真琴はノートを閉じずにもう一つのページを開いた。


「今日、私が気になるのは、表示された内容そのものより、どうしてそこへ出たかです。スマートフォンで共有できるようになった頃は、“優也さんの端末だから”とか、“表示装置として扱いやすいから”とか、いくつか候補がありました。でも今日の結果を見ると、端末の種類だけでは説明しにくいです」


「運転席のモニター、スマホとは全然ちゃうもんな」


「はい。しかも私たちは何も接続していません。ミラーリングもしていないし、アプリを入れたわけでもない。普通の意味で端末同士が情報を送っているなら、何らかの経路が必要です」


「でも俺がやったんは《鑑定》して、真琴にも見せたいって思っただけ」


「そうです。だから機械同士の接続より、“共有する状態そのもの”を中心に見たほうが自然かもしれません」


 優也は、さっきの画面を思い返した。


 自分の中に六行が出たあと、真琴の目の前にあるモニターへ同じ六行が現れた。もしスマートフォン自体が特別な装置として変化したのなら、別の画面へ同じ内容が出る理由がない。


「じゃあ、最初からスマホが能力の一部になったんやなくて、たまたま一番最初に使えた出口やっただけ?」


「今は、その考え方がかなり近いと思います。ただ、出口なら何でもいいのか、ACROSSの中にある画面だから使えたのか、私が実際に見ていたから使えたのかは、まだ分かりません」


「全部いっぺんに試したくなるな」


「なると思ってました」


「今日はやらへんで」


 優也が先に言うと、真琴は少し意外そうに笑った。


「成長しましたね」


「子ども扱いすんな」


「前なら、今の話の途中で『じゃあ後ろのモニターでもやってみよう』って言ってたと思います」


「……それは否定できへん」


 そこまで話してから、二人はいったん記録を離れた。


 真琴はキッチンで残っていたスープを温め直し、優也は外へ出て車体の周囲を一周する。タイヤや足元を確認し、異常がないことを見て戻ると、リビングにはさっきまでの白い文字などどこにも残っていなかった。


 テーブルへ座り直してスープを飲みながら、優也は少し考える。


「こういうの見てるとさ、ACROSSって便利になってるというより、俺らの使い方に合わせて道が増えてる感じするな」


「道?」


「通路が広がったときは物理的な道やったやろ。予備室とか玄関の余白も、人や物の動きに合わせて増えた。今度は情報が俺の頭から真琴へ行く道が、スマホ一本だけじゃなくなってきた、みたいな」


 真琴はすぐに否定せず、その言葉を少し考えた。


「面白い見方ですね。空間の変化と情報共有を同じ仕組みだと決めることはできませんけど、“必要になった経路が後から増える”という点では似ています」


「俺らが困ったら何でも生える、ではないけどな」


「そこは絶対に違います。実際、車椅子の問題は残ったままですし、入口そのものは変わっていません」


「せやな。必要があるだけでは足りん。何か条件がある」


「たぶん、何度も使うことや、実際に困ること、優也さんがどうしたいか、ACROSS側の状態。その全部が関係しているのかもしれません」


「分からんこと増えたな」


「でも、前より雑に“願えば変わる”とは思わなくなったでしょう?」


「それはそうやな」


 優也はスープを飲み切り、カップをテーブルへ戻した。


 ACROSSが何を基準に変わっているのかは、まだ分からない。それでも、二人が使ってきた時間と変化が無関係ではないことだけは、少しずつ見えてきていた。


 通路も、予備室も、玄関の余白も、共有表示も、机の上で考えただけでは生まれていない。


 使って、困って、考えて、それでもすぐには変わらず、しばらく経ってから少しだけ何かが増える。


 その遅さを、以前ほどもどかしいとは思わなくなっていた。


          ◇


 帰り道は何も起きなかった。


 優也は運転へ集中し、真琴は助手席で外を眺めたり、次の休みに行けそうな場所を調べたりしている。運転席のモニターは、通常の車両情報を表示するだけだった。


 途中、スーパーへ寄った。


 優也の夕食用の食材と、ACROSSへ置いておく飲み物を少し買い、戻ってきた袋を玄関内側の余白へ一度置く。必要なものだけ家へ持ち帰れるように分けながら、優也が笑った。


「ここも、もう完全に一時置き場やな」


「でも固定しないまま使えてますね。前に出た『一時保管・受渡』そのままです」


「今日も《鑑定》する?」


「しません」


「即答やん」


「十分見たでしょう」


「はいはい」


 優也は笑い、荷物をまとめた。


 ガレージへ戻ったのは夕方だった。


 車体を停めてから荷物を片付け、真琴は少し休憩してから帰ることにする。リビングは静かで、真琴はソファへ座って本を読み、優也はキッチンで簡単な夕食の下ごしらえを始めた。


 しばらくして、優也が包丁を置く。


「なあ。今日もう一回だけ確認する?」


 真琴が本から顔を上げた。


「運転席モニターですか?」


「うん。さっきはスマホをリビングに置いたままやった。今度は俺のポケットに入れたままで、真琴は助手席。画面は指定せず、同じように“真琴にも見えたらええ”だけでやる」


 真琴は少し考えた。


「条件を一つ変える意味はありますね。二回目までなら確認してもいいと思います。ただ、それで出ても今日は終わりです」


「了解」


 二人は運転席へ移った。


 優也のスマートフォンはポケットに入れたままにする。取り出さない。真琴は助手席へ座り、モニターを自然に見られる位置にいる。


「画面は指定せん。真琴にも同じの見えたらええ、だけ」


「お願いします」


 優也はACROSS全体を《鑑定》した。


 内部には、いつもの六行が出る。


 二人はモニターを見る。


 最初の一行が出た。


『対象――ACROSS』


 続いて、


『空間状態――安定』

『追加空間――維持』

『外部寸法――変化なし』


 四行目まで、ほとんど止まらず表示される。


 そのあと少し間があり、


『接続状態――安定』

『魔素反応――微弱』


 六行すべてが揃った。


 今度は昼間より明らかに速い。


 表示も途中で揺らがず、文字の輪郭も安定していた。


 真琴は画面が消えるまで待ち、静かに息を吐く。


「二回目。しかも今度はスマートフォンが優也さんの手元にあります」


「でも、こっちに出た」


「はい。少なくとも“スマートフォンが遠くにあったから代わりにモニターへ出た”だけでは説明できなくなりました」


「真琴が見てる画面のほうが条件として強い?」


「その可能性が上がりました」


「今日はこれで終わりやな」


「はい。異議なしです」


 優也も、さすがに三回目をやろうとは思わなかった。


          ◇


 二人はリビングへ戻り、今日の記録を更新した。


 同じ日に二度、運転席モニターへ六行すべてが表示された。一度目はスマートフォンがリビングに置かれた状態、二度目は優也のポケットにある状態で、どちらも真琴は助手席からモニターを見ていた。


 真琴は最初の成功だけなら偶然に近い条件の重なりとも考えられたが、二度目まで同じ順番で六行が揃った以上、少なくとも「一度だけ画面が乱れた」という説明はかなり弱くなった、と整理した。


「これで、運転席のモニターは共有先になり得る。そこまでは言ってよさそうです」


「やっと一個、確定に近づいたな」


「“なり得る”です。“いつでも使える”ではありません」


「分かってるって。でも前より進んだんは確かやろ?」


「それは否定しません。今日は二回とも成立しています」


 優也は嬉しそうに頷き、ノートへ視線を落とした。


「たださ、俺のスマホより真琴の目の前の画面に出たってことは、装置より相手のほうが大事なんやろな」


「私もそう思います。最初にスマートフォンへ出そうとしたときも、単に画面を指定しただけでは反応が弱かったでしょう。私が優也さんのスマートフォンを持って、実際に見る状態になったときのほうが強かった。今日の二回目まで合わせると、“どの機械へ出すか”より“誰へ届けるか”が先にある、と考えたほうが整合します」


「最初からスマホに出したかったんやなくて、真琴に見せたかった」


「はい。スマートフォンは、そのために最初に選んだ道具だっただけかもしれません」


 真琴はノートへ、


『共有条件――装置指定より、受け手が実際に視認できる状態が優位?』

『外部共有経路――固定端末依存ではない可能性』


 と書いた。


 そのあと、ペンを置かずに少し考える。


「もう一つ。今日の二回目、表示が速くなってましたよね」


「うん。昼は一行ずつ間あったけど、今は四行目までほぼ続けて出た」


「同じ経路が一度成立したあと、二度目のほうが安定したようにも見えます。ただし、これもまだ一日だけ。次回はまた三行で止まるかもしれません」


「それでも、慣れてるみたいに見えるな」


「そう見えます。でも“慣れる”も生き物みたいな言葉なので、今は“安定度が上がった可能性”にしておきます」


「ほんま徹底してるなあ」


「優也さんがすぐ人間っぽく言うからです」


「しゃあないやん。言葉にしたらそうなるって」


 二人は笑ったが、そのあと少しだけ静かになった。


 ノートのページには、ここ数週間の記録が並んでいる。


『共有――成立』

『使用――継続』

『可変性――維持』

『可変運用――継続』

『利用――休息・作業』

『利用――一時保管・受渡』

『記録――継続』

『直近利用――休息』

『直近利用――受渡』

『共有――』

 そして、運転席モニターへの三行表示、六行表示。


 最初はスマートフォンへ文字を出したいだけだった。


 そこから少しずつ、出力される情報の種類と、届く場所が変わってきている。


 それでも二人は、まだ「ACROSSが話している」とは書いていない。


 質問に答えたわけではない。


 呼び掛けに反応したわけでもない。


 人格を感じさせる言葉もない。


 今あるのは、共有と整理と、少しずつ広がる出力だけだった。


          ◇


 夜になる前に、真琴は帰る準備を始めた。


 予備室へ置いていた本をバッグへ戻し、キッチンのカップを洗う。優也は玄関内側の余白へ置いた買い物袋から、自宅へ持って帰る分を分けていた。


 作業を終えた真琴が玄関へ向かう途中、ふと後部の主寝室へ視線を向ける。


「そういえば、後ろのモニターはどうなんでしょうね」


 優也も同じ方向を見る。


 主寝室には、必要なときだけ展開して使う大型モニターがある。運転席とは用途が違い、普段は映像を見るためのものだ。


「試す?」


 優也が聞くと、真琴は数秒だけ迷ったあと、自分で笑って首を振った。


「今日はやめます。運転席で二回出たからって、次の画面を順番に試すのは違うでしょう」


「さっき俺に言うてたやつやな」


「はい。私も同じです」


「真琴も結構見たいんやん」


「見たいですよ。だから止めるんです」


「なるほどな」


 優也は笑った。


 少し前なら、真琴は研究者として確かめるほうへ寄ったかもしれない。今は、ACROSSを研究対象としてだけ扱わず、二人が実際に使っている場所として守ることも同じくらい大事にしている。


 その変化に気付いても、優也は言葉にはしなかった。


 代わりに、玄関まで見送る。


「次も普通に使って、何かあったら見る。それでええな」


「はい。今日の結果だけでも十分進んでますから。次を急がなくて大丈夫です」


「分かった。後ろのモニターは触らん」


「一人になってから試さないでくださいね」


「信用ないなあ」


「ありますけど、念のためです」


「はいはい」


 真琴は笑って手を上げ、そのまま帰っていった。


          ◇


 一人になった優也は、すぐ運転席へ向かわなかった。


 まずリビングへ戻り、二人分のカップを片付ける。キッチンに残っていた皿をしまい、予備室の折りたたみテーブルが壁際へ戻っていることを確認し、玄関内側の余白に残っていた買い物袋も整理した。


 その一つ一つは、今日の《鑑定》とは何の関係もない。


 けれど、最近の優也には、こういう普通の使い方のほうが先にあるべきだと思えるようになっていた。


 ACROSSは研究室ではない。


 何かが起きるのを待つ装置でもない。


 真琴と飯を食べ、仕事をしたり、本を読んだり、旅行の途中で休んだりする場所で、その積み重ねの中から、ときどき説明のつかない変化が現れる。


 今日も同じだった。


 最初から六行を出そうとして乗ったわけではない。


 普通に出掛け、歩き、食事をし、帰る前に状態を確認した。そのとき、真琴へ見せたいといういつもの意図だけを持った結果、スマートフォンではなく運転席のモニターへ情報が届いた。


 優也はそこまで考えながら、最後にノートを開いた。


 真琴が書いた記録の下へ、自分の言葉で一行だけ足す。


『画面が増えた、というより、届けるための道が増えた?』


 疑問符は残した。


 まだ答えではないからだ。


 ノートを閉じてから、優也はようやく運転席へ向かった。


 モニターを点ける。


 通常の車両情報が表示される。


 真琴はいない。


 《鑑定》も使わない。


 だから、当然のように何も起きなかった。


 以前の優也なら、そのまま一度だけ試したかもしれない。真琴がいない状態で表示が出るのか、受け手がいなければどうなるのか、その違いを知りたくなっただろう。


 今も知りたい。


 ただ、今日それを知る必要はない。


 優也はモニターを見ながら、昼間の六行を思い返した。頭の中にしかなかったものが、隣にいる真琴へ届くために、別の画面へ出た。もしその考えが合っているなら、次に重要なのは画面の数ではなく、情報が誰へ向かっているのかということになる。


 スマートフォン。


 運転席のモニター。


 その次に何があるのかを、今ここで決める必要はなかった。


 むしろ、順番をこちらで作らないほうがいい。


 ACROSSがこれまで変わってきたときも、完成形が先にあったわけではない。狭い通路が少し広がり、用途未設定の部屋が増え、玄関の内側へ小さな余白ができた。どれも、必要に対して少しだけ足りる形で現れ、その使い方を二人があとから決めてきた。


 なら、情報の共有も同じでいい。


 最初はスマートフォン一台。


 次に、運転席のモニター。


 まだそれだけ。


 それでも、一人の頭の中に閉じていた《鑑定》は、確実に「二人で見るもの」へ変わり始めている。


 優也は画面を消し、運転席を立った。


 玄関へ向かう途中、主寝室の扉が目に入る。中には、まだ試していないモニターがある。


 気にはなる。


 けれど今日は触らない。


 そのまま通り過ぎ、車内の照明を落とした。


「ほな、またな」


 いつものように声を掛ける。


 返事はない。


 それでも、以前ほどその沈黙を空っぽだとは思わなくなっていた。


 声がないことと、何も届いていないことは、もう同じではない。


 今日、優也の中にあった六つの情報は、真琴が見ている別の画面へ二度届いた。質問への返事でもなければ、自分から話し掛けてきたわけでもない。それでも、誰かへ伝えるための道が一つ増えたという事実だけは残っている。


 優也は玄関を降り、扉を閉めた。


 次に何が起きるかは、まだ分からない。


 声になるのか。


 別の画面へ広がるのか。


 あるいは、しばらく何も起きないのか。


 どれでもよかった。


 少なくとも今は、六行が届いたという一歩だけで十分だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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