ep.89 何も起きない日
運転席のモニターへ、ほんの数秒だけ『共有――』と表示された翌週、優也と真琴は、あえて何もしないことにした。
正確には、何も調べないと決めたわけではない。ただ、前回と同じ表示をもう一度出すためだけにACROSSへ乗り込み、条件を変えながら何度も《鑑定》を繰り返すのはやめよう、という話になった。スマートフォンへ鑑定結果を共有できるようになってから、二人は少しずつ「次は何が起きるのか」を待つようになっていたし、運転席のモニターにまで文字の一部が現れたことで、その気持ちはさらに強くなっている。
だからこそ、一度そこから離れたほうがいい。
もともとACROSSは、能力を調べるためだけに買った車ではない。旅をするために選び、実際に暮らしてみて不便が見つかり、それを今ある方法でやり過ごしながら使ううちに少しずつ今の形になった。通路が広がったときも、予備室ができたときも、玄関内側に余白が生まれたときも、変化そのものを目的にしていたわけではない。
もし今回の追加表示も同じ流れの上にあるなら、実験だけを繰り返すより、普通に使う時間を戻したほうが自然だった。
◇
その前の平日、優也は道路工事の現場で、いつもどおり交通誘導に立っていた。
午前の作業が一区切りつき、工事車両の出入りが落ち着いたところで昼休憩に入る。詰所へ戻った優也は弁当を食べながら、鞄の中から無線関係の問題集を取り出した。毎日必ず開くわけではないが、分からなかったところへ付箋を挟んでおき、時間のある日に少しずつ進めている。
向かいに座った久保田が、その本と優也の顔を交互に見たあと、可笑しそうに笑った。
「まだやっとるんか、それ。福山がそんな長いこと勉強続けるとは思わんかったわ」
「どういう意味やねん。始めたからには、一応取るとこまではやるわ」
「前のお前なら三日で本が枕になってたやろ」
「人を何やと思ってんねん」
「面倒くさがり」
「否定しにくいとこ突くなあ」
周りにいた警備員も笑い、優也は苦笑しながら問題集を閉じた。
資格を取ったところで、ACROSSに載せた通信設備を何でも自由に使えるようになるわけではない。それでも山や海へ出ることが増えれば、携帯電話が当たり前につながる場所ばかりではないし、設備があるのに何も分からないより、何ができて何ができないのかくらいは理解しておきたい。その程度の気持ちから始めた勉強だった。
少し離れた席にいた西村が、付箋だらけになったページを見て声を掛けてくる。
「分からんとこ、増えたか?」
「増えたっていうか、前に分からんかったとこが、別の章読んだら余計ややこしくなった」
「それでええ。最初から全部つながって見えるほうがおかしい。設備の名前だけ覚えて分かった気になるより、何ができて何ができんかを順番に覚えたほうが後で困らん」
「前にも似たようなこと言われた気するわ」
「お前、放っといたら機械あるだけで何でもできる気になりそうやからな」
「そこまで単純ちゃうわ」
久保田が横から「二億超えの車買った時点で、ちょっと説得力ないぞ」と混ぜ返し、また笑いが起きた。
優也も笑ったが、以前ほどその言葉を軽く流さなくなっていた。ACROSSには実際、使い切れていない設備がいくつもある。しかも今では、装備以前に説明のつかない空間や表示まで増えている。分からないものを、便利そうだからという理由だけで「使えるもの」に数えない。その感覚は、無線の勉強でも、旅先での出来事でも、少しずつ身についてきた。
「そういや福山、今度その車でまたどっか行くんか?」
久保田に聞かれ、優也は弁当の蓋を閉じながら肩をすくめた。
「今週は近場。場所もまだ決めてへん。真琴と適当に走るくらい」
「ほんまよう乗ってるな。買って飾っとくよりええけど、慣れた頃にぶつけんなよ」
「それ真琴にも言われたわ」
「ほな二人に言われてんねんから聞け」
何気ない会話の中で真琴の名前が自然に出たが、久保田も西村もそこへ変な反応はしなかった。以前なら、優也のほうが少し意識していたかもしれない。今は、休日に真琴とACROSSで出掛けることも、彼らにとってはもう珍しい話題ではなくなっている。
休憩が終わる合図が入り、優也は問題集を鞄へ戻した。外へ出れば、工事車両の動きと一般車の流れを見ながら、またいつもの仕事が始まる。
ACROSSの文字も、《鑑定》の追加表示も、ここには何の関係もない。
それでも優也の知らないところで、周囲の人間は以前とは少し違う彼の姿を、それぞれ勝手に覚えていた。
◇
土曜の朝、優也はガレージで真琴を待ちながら、珍しく運転席のモニターをほとんど見なかった。
もちろん出発前の確認はする。車両状態も見るし、電力や水の残量、周囲の安全もいつもどおり確認する。ただ、それ以上に画面を凝視して何か出てこないか待つことはしなかった。
真琴がやって来たのは九時を少し過ぎた頃だった。
玄関を開け、いつものように靴を脱いで上がってくる。手には小さな保冷バッグと、コンビニの紙袋が一つあった。
「おはようございます。朝ごはん、まだなら買ってきました」
「おはよう。ちょうどコーヒーだけ飲んでた。何?」
「サンドイッチとおにぎり。どっちでも選べるように」
「両方食う選択肢は?」
「最初からあると思ってました」
「分かってきたなあ」
真琴は笑いながら紙袋をテーブルへ置いた。
今日は目的地を決めていない。正確には候補だけいくつかある。郊外の道の駅へ行き、気が向けばその先の公園へ寄る。人が多ければ別の場所へ変える。天気が崩れそうなら早めに戻る。そんな曖昧な予定だった。
「前までなら、せっかく出るならどっか行かな勿体ないって思ってたけどな」
優也がサンドイッチの袋を開けながら言うと、真琴はおにぎりを手にしたまま頷いた。
「今はACROSSに乗ること自体が、そんなに特別じゃなくなったからじゃないですか?」
「そうかもな。最初は二億超えの車動かすだけで緊張してたし」
「今も緊張はしてください。慣れた頃が危ないです」
「はいはい。そこは西村さんにも久保田さんにも言われる」
「二人に言われてるなら、ちゃんと聞いてください」
「聞いてるって。慣れたつもりにならんように、毎回確認してるやろ」
最近、真琴とこういう話をするとき、自分でも少し変わったと思うことがある。
以前なら、高い車を買ったことそのものが一番大きかった。乗ること、装備を使うこと、どこへ行くかを考えること、その全部が「こんな物を持っている」という喜びにつながっていた。今はそれより、どう使えば無理がないか、何ができて何ができないか、誰かと一緒ならどこまで動けるかを考える時間のほうが増えている。
ACROSSが変わっただけではなく、自分の使い方も変わったのだろう。
◇
目的地は、結局、少し離れた郊外の道の駅になった。
週末ではあったが、午前の早い時間だったこともあり、駐車場にはまだ余裕がある。優也は大型車両用の区画へACROSSを入れ、周囲との間隔を十分に取って停めた。
エンジンを落とし、いつもの確認を済ませてから二人で外へ出る。
道の駅そのものは、それほど大きくない。地元野菜の売り場、食堂、小さな土産物コーナーがあり、建物の横には芝生の広場が続いていた。真琴は野菜を見始め、優也はその横で「冷蔵庫入る分だけな」と言いながら、結局自分も惣菜や菓子を籠へ入れていく。
「優也さんのほうが増えてますけど」
「これは今日食う分。野菜とは別枠や」
「その理屈、便利ですね」
「使える理屈は使う」
買い物を終えて建物を出たところで、駐車場の端からACROSSを眺めていた中年の男性に声を掛けられた。近くに小型のキャンピングカーが停まっており、その隣には同年代と思われる女性が立っている。
「すみません、あの大きいの、海外の車ですか?」
優也は一瞬だけ身構えたが、聞かれたのはごく普通の車の話だった。
「海外メーカーの車を元に、日本で走れるように特注してもらったやつです」
「八輪ですよね。すごいなあ。中も相当広そうだ」
「広いのは広いですけど、その分どこでも入れるわけちゃうんで。狭い町とか、駐車場が小さいとこは無理ですね」
「やっぱりそうですよね。うちのでも細い道は怖くて」
男性が苦笑すると、隣の女性も「大きいほうが全部便利ってわけじゃないんですね」と言った。
「そうですね。広いのは楽ですけど、大きいまま入ったら迷惑な場所もありますし。近くまで行って、あとは歩いたり自転車使ったりしてます」
優也がそう答えると、男性は納得したように頷き、しばらく外観を見てから礼を言って自分たちの車へ戻っていった。
真琴はその背中を見送りながら、少し笑っている。
「優也さん、前より説明が現実的になりましたね」
「何が?」
「昔なら『でかいから快適ですよ』が最初に来てたと思います。今は『入れない場所もあります』が先でした」
「そら実際困ったからな。でかい車のまま細い町入って、自転車の便利さ知ったし」
「そういうところも、使ってきた結果なんでしょうね」
「俺まで学習履歴残ってんのか」
「それは普通に人間の経験です」
二人は笑い、そのまま広場へ向かった。
ACROSSの能力を知らない人間にとっては、あれは少し珍しくて、かなり大きなキャンピングカーにしか見えない。それで十分だった。
広場の端にあるベンチへ座り、買ったばかりの小さな焼き菓子を真琴が開ける。半分を優也へ渡し、二人で食べながら芝生を眺めた。
「今日は、本当に何も調べないんですか?」
「気になる?」
「気にはなります。でも、調べたいというより、優也さんが我慢できるのかなと思って」
「俺を何やと思ってんねん」
「運転席のモニターに文字が出た翌日に、一人でガレージへ見に行きそうな人」
「……仕事帰りに一回寄った」
「やっぱり」
「充電器取りに行ったついでやって。モニターも見たけど、何も出えへんかった」
真琴は笑いながら焼き菓子を食べた。
「それなら今日は、普通にしましょう。何か起きたら記録する。起きなかったら、それもそれでいいです」
「何も起きん日も必要か」
「必要というより、普通はそっちのほうが多いと思います。今までだって、毎回ACROSSが変わっていたわけじゃないでしょう?」
「せやな。狭いまま何日も使って、困ること重なってから広がったしな」
優也は広場の向こうへ視線を向けた。
今なら、その頃の自分が少し焦っていたことも分かる。最初の空間拡張が起きたあと、もう一度同じことができるのではないか、思えば変わるのではないかと何度も試した。けれど、意識して願ったからといって都合よく変化するわけではなかった。
結果的に、必要が積み重なったときだけ、ACROSSは少し変わった。
今の表示も同じなのかもしれない。
「声も、まだ先でええか」
優也が何となく言うと、真琴は少しだけ驚いたように見た。
「珍しいですね。優也さんなら早く聞きたいって言うと思ってました」
「聞きたいで。でも、いきなり喋り出したら、それはそれで怖いやろ。昨日まで文字も途中やったのに、急に『おはようございます、優也さん』とか言われたら」
「私はたぶん、一回黙ります」
「俺も一回車降りるかもしれん」
「それはそれで失礼ですけど」
「誰にやねん」
二人は笑った。
まだ、そこに「誰か」がいるとは決めていない。だからこそ、こういう冗談も言えた。
◇
昼前、二人はACROSSへ戻った。
買った野菜や惣菜を玄関内側の余白へ一度置き、靴を脱いでから冷蔵庫や収納へ移す。今ではすっかり当たり前になった流れだった。
優也が荷物を片付けていると、真琴が玄関の余白を見ながら言う。
「ここ、本当に普通に使うようになりましたね」
「前回『利用――一時保管・受渡』って出たの、そらそうなるわなって感じやな」
「そうですね。でも、今日は見ませんよ」
「分かってるって」
昼食は道の駅で買った惣菜を温めるだけにした。二人で向かい合って食べながら話したのは、次の旅行先や真琴の仕事、優也の無線の勉強、最近久保田に「でかい車持ってても仕事には持ってくんなよ」と冗談を言われたことなど、ACROSSの能力とは関係のないものばかりだった。
「久保田さん、まだ乗せてないんですよね?」
「乗せてへん。写真は見せたけどな。『家やんけ』って言われた」
「それは言われますよ」
「西村さんは通信設備のほう気にしてたけど、見せたら質問止まらんくなりそうやから、まだ詳しく言うてへん」
「そのほうがいいと思います。説明できない部分もありますし」
「せやな。普通の設備だけならええけど、空間の話までいったら終わりや」
優也は笑ったあと、少しだけ考えた。
ACROSSのことを知っている人は、今のところ限られている。家族には車としての姿を見せているし、旅先では雨宿りの家族や停電したキャンプ場のスタッフなど、一時的に助けた人もいる。
けれど、その人たちは今、ACROSSをどう覚えているのだろう。
そんなことを考えたが、口には出さなかった。
◇
午後は、少し離れた公園まで移動することにした。
広い駐車場のある場所を選び、優也は端の区画へACROSSを停める。そこから二人で三十分ほど歩いた。
公園内は平坦で、池の周りに遊歩道が続いている。途中、ベビーカーを押した家族とすれ違い、少し先では杖を使った高齢の男性がベンチで休んでいた。
優也は無意識に、車椅子の人をACROSSへ入れられなかった日のことを思い出した。
外から見れば、あれだけ大きな車なのに、人一人を安全に入れることができなかった。内部が広がっても、入口そのものは変わらない。今でもそこは解決していない。
「何か考えてます?」
隣を歩く真琴が聞いた。
「前の車椅子の人のこと。中はどんどん便利になってるけど、入口はそのままやなって」
「そうですね。でも、今はそれでいいと思います。できないことを、できることに数えないって決めたでしょう」
「分かってる。何か起きたら勝手に解決する、って期待するのも違うしな」
「はい。むしろ、今までACROSSが変わったからこそ、変わっていない部分を忘れないほうがいいです」
優也は頷いた。
最近、モニターや追加表示のことばかり考えていたせいで、少し視線が内側へ寄っていたのかもしれない。
ACROSSがどれだけ不思議になっても、現実の道路幅は広がらない。駐車できない場所はあるし、安全に乗れない人もいる。車両としての制約や、外の社会とのつながりまで消えるわけではない。
「なんか、文字出たからって浮かれてたかもな」
「少しだけ」
「そこ否定してくれへんの?」
「でも、普通だと思います。あんなもの見たら気になりますよ」
「真琴もやろ?」
「もちろん。だから一緒に止めてるんです」
その言葉に、優也は少し笑った。
二人でちょうどいい。
前にも似たようなことを言った気がする。
帰り道、池の近くにある小さな売店で温かい飲み物を買い、二人は別のベンチへ座った。真琴は紙カップを両手で持ちながら、しばらく水面を眺めていた。
「優也さん、ACROSSが何も変わらなかったら、それはそれで困ります?」
突然の問いに、優也は少し考えた。
「もう二度と何も変わらんってこと?」
「例えば。今の状態で止まったとして」
「んー……不便はあるけど、元々買った時より十分すぎるくらい便利になってるしな。旅するだけなら、今でも贅沢やと思う。車椅子の問題みたいに、何とかしたいことは残ってるけど、それをACROSSが解決せなあかんとは思ってへん」
「じゃあ、変化そのものが目的ではない?」
「面白いから気にはなるで。でも、変わらんかったら乗らん、とはならんな。真琴と旅できるだけでも十分やし」
言ってから、優也は自分で少し照れたようにカップへ口を付けた。
真琴も一瞬だけ黙ったが、茶化さずに頷く。
「私も、たぶん同じです。研究としては気になりますけど、ACROSSが変わらなくても、ここで過ごす時間までなくなるわけじゃないですから」
「そう考えたら、余計焦らんでええな」
「はい。分からないことは逃げません」
優也はそこで、思わず笑った。
「いや、ACROSSの場合、たまに勝手に増えるから逃げる可能性あるで」
「そのときは、そのとき考えましょう」
結局、二人はしばらくベンチに座ったまま、能力の話をやめて次に食べたいものや、真琴が最近気になっている映画の話へ移った。
◇
ガレージへ戻ったのは夕方だった。
外出としては、本当に何も起きていない。事故もなく、誰かを助けることもなく、ACROSSの空間が変わることもなかった。スマートフォンに追加表示は出ず、運転席モニターにも白い線一つ現れていない。
荷物を降ろし終えたあと、真琴がリビングのソファへ座り、少し伸びをした。
「今日は、本当に何もなかったですね」
「言い方によっては、めっちゃ平和やな」
「平和でいいんです。むしろ、何も起きない日に普通に使えることのほうが大事ですよ。車としても、生活する場所としても」
優也は冷蔵庫から水を取り出し、真琴の分もテーブルへ置いた。
「じゃあ今日の記録、『特になし』で終わり?」
「それでいいと思います。無理に意味を探さないほうがいいです」
「了解。今日のACROSS、普通のキャンピングカーでした」
「二億超えで普通って言うには大きすぎますけど」
「そこは言うな」
二人は笑った。
真琴が帰る時間になり、荷物をまとめて玄関へ向かう。靴を履きながら、彼女はふと運転席のほうを振り返った。
「次も、同じくらいでいいと思います」
「何も起こらんくらい?」
「はい。起きるなら、こっちが急がなくても起きます」
「焦らしてくるなあ」
「誰がですか?」
「ACROSSが」
真琴は一瞬だけ考え、それから笑った。
「そういう言い方をすると、相手がいる前提になりますよ」
「分かってるって。冗談や」
「ならいいです」
真琴を見送ったあと、優也は一人で車内へ戻った。
今日は本当に何もない。
それが少し物足りなく感じる自分に気付いて、苦笑する。
◇
優也はそのまま帰ろうとしたが、運転席の横を通ったところで足を止めた。
モニターは消えている。
普段なら、ここで一度だけ確認してしまうところだった。
迷った末に運転席へ座り、電源を入れる。通常の車両情報が表示され、それだけで終わった。
何も出ない。
白い線も、『共有――』の文字もない。
「まあ、そらそうか」
呟いて、優也は画面を消そうとした。
そのとき、一瞬だけ前回の表示が脳裏に浮かぶ。
『共有――』
あれは何だったのか。
スマートフォン以外にも外部表示が広がりかけているのか、それとも一度きりの現象なのか。そもそも《鑑定》とACROSSの情報が本当に結びつき始めているのか、それすらまだ確定していない。
考えれば、いくらでも試す方法は浮かぶ。
真琴を助手席へ座らせて、同じ条件を何度も繰り返す。予備室や玄関の履歴を意識しながら、運転席の画面へ出せないか試す。スマートフォンとの距離を変える。真琴が画面を見る場合と見ない場合を比べる。
けれど、それを始めたら、またACROSSに乗る目的が実験になる。
「やめとこ」
優也は画面を消した。
今日は何も起きなかった。
それなら、そのまま何も起きなかった日にしておけばいい。
運転席を離れ、リビングへ戻る。テーブルの上には、真琴が飲み切った水のボトルと、道の駅でもらった小さなレシートが残っていた。
優也はそれを片付けながら、ふと笑う。
不思議な表示より、こういうもののほうが、今のACROSSには多い。
真琴の本。置いてある充電ケーブル。二人分の飲み物。両親が泊まったときに使った寝具。旅先でもらったパンフレット。雨の日に濡れた物を置いた玄関の余白。
どれも派手ではないが、使ってきた時間だけは確実に残っている。
もし『記録――継続』という言葉に意味があるのなら、こういうものまで含まれているのかもしれない。
優也はそこまで考えて、首を振った。
「また勝手に意味付けしてるわ」
今日は何も起きない日にする、と決めたばかりだった。
ノートを開き、短く一行だけ書く。
『本日――変化なし。通常使用のみ』
それ以上は書かなかった。
照明を落とし、玄関へ向かう。扉を開ける前に、優也はいつもの癖で車内を振り返った。リビングも、予備室も、キッチンも、何も変わっていない。音もない。
「ほな、またな」
返事はなかった。
優也はそのまま外へ出て扉を閉めた。
ガレージの照明が消え、ACROSSは暗がりの中へ残る。その夜、運転席のモニターにも、スマートフォンにも、新しい文字は一つも現れなかった。
何も起きなかった一日は、何も起きなかったまま終わった。
けれど、優也と真琴が知らない場所では、あの大きな車と二人のことを、思い出す人間が少しずつ増えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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