ep.8 三度目は偶然じゃない
真琴に教えてもらった方法で記録を取り始めてから、優也の実験は、それまでよりずっと落ち着いたものへ変わっていた。
思いついたことを片っ端から試し、成功すればスマートフォンへ結果だけを書き込んでいた頃とは違い、今は対象物、距離、接触の有無、何を知ろうとしたのか、得られた情報、それが後から確認できたかどうかまで残している。同じ条件で何度か繰り返すようにもなったため、一晩に試せる数そのものは減ったが、その代わり「一度だけ出来たこと」と「何度やっても同じ結果になること」を少しずつ分けて考えられるようになっていた。
例えば非接触の鑑定は、対象が見えていればある程度使える。しかし単純に距離だけで精度が決まるわけではなく、仕事帰りで疲れている時には目の前のスプーンですら情報が曖昧になる一方、風呂へ入って少し休んだ後なら、一メートル以上離れていても材質くらいはすぐ分かることがあった。
金曜日の夜、優也はテーブルへ肘をつきながら、その日の記録を眺めていた。
「距離だけじゃなくて、こっちの状態も関係してるんかな」
自分の疲労や集中力まで条件へ加えた方がいいのかもしれない。そう思って記録欄へ『睡眠時間』『疲労感』という項目を追加すると、数日前まで『収納?』『鑑定?』としか書いていなかったメモが、妙に本格的な実験記録へ変わり始めていることに気づく。
「中卒のおっさんが何してんねやろな」
思わず笑ったものの、不思議と嫌な気分にはならなかった。
優也は中学校を卒業してから、勉強らしい勉強とは長く縁のない生活をしてきた。両親から進学を強く求められたこともなく、本人も当時は机へ向かうことに興味を持てなかったため、そのまま働き始めた。今さら学歴をどうこう言うつもりはないが、まさか四十四歳になってから材料科学の入門書を読み、家で実験記録を付けるようになるとは、少し前まで想像したこともなかった。
先日買った本を開き、ステンレスについて書かれたページを読み返してみる。鉄を主成分としてクロムなどを加えた合金だという程度なら理解できるようになったものの、その先に出てくる組成や結晶構造となると、一度読んだだけではさっぱり頭に入ってこない。
「まあ、分からんかったら分からんでええか。試験受けるわけちゃうし」
そういうところは昔から変わらなかった。必要なら覚えるが、必要でなければ無理に頑張らない。ただし、自分が面白いと思ったものには妙に集中することがあり、今の収納と鑑定は完全にその側へ入っていた。
スマートフォンが震えたため確認すると、母から短いメッセージが届いていた。
『明日休み? お父さんと買い物行くけど、何かいる?』
両親とは別に暮らしているものの、関係は悪くない。父も母も年金を受け取りながら今も働いていて、実家の賃貸マンションで二人暮らしを続けている。時々こうして連絡が来るし、優也から顔を出すこともある。
『休み。特にいらんで。また今度行くわ』
そう返すと、間もなく『了解』のスタンプが送られてきた。
友人と呼べる相手も何人かはいるが、最近はほとんど会っていない。警備の仕事仲間と飲みに行くことはたまにあるものの、道路工事の交通誘導という仕事柄、翌日から別々の現場へ振り分けられることも多く、毎日のようにつるむ相手がいるわけでもなかった。
だから休日は、一人で過ごすことの方が圧倒的に多い。
それを寂しいと思う日がまったくないわけではないが、元々好き勝手に動く方が性に合っている。誰かと予定を合わせず、行きたい時に出掛け、面倒なら家から出ない。そんな生活を長く続けてきた。
にもかかわらず、その夜はふと、先週の書店で会った女性の顔が浮かんだ。
「……また会ったりしてな」
口にしてから、優也は自分で苦笑した。
◇
翌日の土曜日、優也は再び大阪市内の大型書店へ向かっていた。
理由は、前回買った本と同じシリーズの続きを探すためである。少なくとも、本人はそういうことにしていた。
「別に三浦さんに会いに来たわけちゃうからな」
エスカレーターに乗りながら小さく呟き、すぐに自分で眉を寄せる。
「……誰に言い訳してんねん」
先週、真琴と会った時間に近いことくらいは自覚している。それでも医学部六年生で国家試験を控えていると言っていたのだから、毎週同じ時間に書店へ来るほど暇ではないだろうし、そもそも大阪に住んでいるからといって同じ場所へ何度も通う理由も分からない。
科学書の売り場へ着いて辺りを見回してみるが、案の定、真琴の姿はなかった。
「そら、そうやわな」
少しだけ感じた落胆には気づかないことにして、材料科学の棚から前回買った本の続巻を探す。金属とセラミックスを扱った入門書を見つけて読み始めると、十数分もしないうちに目的そのものを忘れ、本の内容へ意識が向いていた。
結局その一冊を購入し、せっかく街まで出てきたのだからコーヒーでも飲んで帰ろうと、同じ建物に入っているカフェへ向かう。
週末ということもあって店内は混雑していたが、奥の方に一人分くらいなら座れそうな席が見えた。優也はコーヒーと買ったばかりの本を持って歩き始めたところで、横から聞き覚えのある声がした。
「あれ?」
思わず足を止める。
窓際の二人掛け席に、三浦真琴がいた。
今日は白いニットに落ち着いた色のロングスカートを合わせ、前回着ていた白いコートは椅子の背へ掛けてある。テーブルの上にはノートパソコンと何冊もの医学書、それに研究方法や統計関係らしい本まで広げられており、半分ほど残ったコーヒーの横には細かな文字で埋まったノートが置かれていた。
真琴もこちらへ気づき、驚いたように目を瞬かせる。
「福山さん?」
「……ほんまにおった」
「え?」
「あ、いや。何でもないです」
心の声がそのまま漏れたことに気づき、優也は慌てて誤魔化した。
真琴は少し不思議そうにしながら、優也が持っている本へ視線を向ける。
「また材料の本ですか?」
「そう。前に教えてもらったやつ、思ってたより面白くて」
「ちゃんと読んだんですね」
「その言い方、俺が途中で投げると思ってた?」
「ちょっとだけ」
「ひどいな」
優也が笑うと、真琴も楽しそうに笑った。
前回よりも明らかに会話が自然になっている。それが少し嬉しかった。
ちょうど優也が向かおうとしていた一人席へ別の客が座ったのを見て、真琴が向かいの椅子へ視線を向けた。
「よかったら、ここ座ります?」
「いいんですか? 勉強中でしょ」
「そろそろ休憩しようと思ってたところです。それに、先週の“秘密の実験”がどうなったのか、ちょっと気になってたので」
「そこ覚えてたんや……」
「かなり怪しかったですから」
「そんな印象残さんでも」
断る理由もなく、優也は向かいの椅子へ腰を下ろした。
改めてテーブルを見ると、真琴のノートには医学関係の内容だけでなく、統計や実験条件について細かく書き込まれている。
「すごいな……これ全部やるんですか?」
「全部は無理ですよ。国家試験の勉強が中心ですけど、研究のことも好きなので、息抜きで読んでるだけです」
「息抜きが研究の本なん?」
「福山さんも休みの日に材料科学の本買ってるじゃないですか」
「……それ言われたら何も返されへんな」
真琴がくすっと笑う。
優也もコーヒーを一口飲み、少し迷ってから先週教えてもらったことへの礼を伝えることにした。
「そうそう。実験のやり方、めちゃくちゃ参考になりましたよ」
「本当ですか?」
「同じ条件で何回か試したり、距離をちゃんと測ったりしたら、一回だけ出来たことと何度やっても出来ることが結構違ってて。今までは成功した時だけ『出来た』って書いてたから、だいぶ雑やったんやなって」
「それなら良かったです」
「あと、仕事で疲れてる日は近くても結果が曖昧になることがあって。風呂入って休んだら戻ったんですよ」
「それなら、疲労とか睡眠時間も記録すると面白いかもしれませんね。あと、実験する順番も変えた方がいいと思います」
「順番?」
「近い距離から順番に遠くしていく実験ばかりだと、後になるほど疲れるじゃないですか。そうすると、本当に距離の影響なのか、単に集中力が落ちたのか分からなくなりますよね」
「……あ」
優也は思わずスマートフォンを取り出した。
「近いのと遠いのをバラバラにしてやるとか?」
「そうです。全部を完全にランダムにしなくても、順番を変えて何回かやれば見やすくなると思いますよ」
「なるほどなぁ……」
本気でメモを取る優也を見て、真琴が少しだけ笑う。
「福山さん、思ってたよりちゃんと実験してますね」
「思ってたよりって何」
「もっと『なんとなくこうだった』くらいで終わる人かと」
「最初はそうでしたよ。でも三浦さんに聞いてから、ちゃんとやった方がおもろいなって」
「おもろい?」
「あ、面白いって意味です」
「それは分かります」
真琴が笑い、優也もつられて笑った。
会話が一段落したところで、真琴が不意に尋ねた。
「福山さんって、こういう勉強は昔から好きだったんですか?」
「いや、全然。俺、中卒なんですよ」
特に隠すつもりもなく答えると、真琴は驚きはしたものの、気まずそうな顔をすることもなかった。
「そうなんですね」
「高校も行ってないし、勉強なんてほとんどしてこなかった。だから専門書見ても全然分からんし、今も入門書でいっぱいいっぱいですよ」
「でも、分からないから調べてるんですよね?」
「まあ、そうやけど」
「それなら学歴はあまり関係なくないですか?」
さらりと言われて、優也は一瞬返事に詰まった。
慰めるような口調でもなければ、気を遣った様子もない。本当にそう思っているらしい。
「三浦さん、そういうの気にせんのや」
「学歴ですか?」
「うん」
「その人がどういう人かとは別じゃないですか?」
「……そういうもん?」
「うちは割とそういう家なので」
そこで初めて、真琴が自分の家族について少し話した。
関東の出身で、実家は田園調布にある。父は個人病院を経営している医師で、母は雑誌の編集長。さらに四歳上の姉がおり、芸名で俳優の仕事をしているという。
優也は途中からカップを持ったまま固まっていた。
「……ちょっと待って。情報量多ない?」
「そうですか?」
「お父さん医者で病院経営、お母さん有名雑誌の編集長、お姉さん俳優?」
「はい」
「三浦さん医学部?」
「はい」
「……俺、交通誘導警備員」
真琴が一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。
「なんでそこで並べるんですか」
「いや、急に世界違いすぎへん?」
「別に世界は一緒ですよ」
「田園調布やろ?」
「住所だけでそんな反応されても」
「俺の実家、賃貸マンションやで」
「それが何か問題なんですか?」
あまりにも普通に聞き返されたため、今度は優也が笑ってしまった。
「いや、問題はないけどさ」
「うち、そういうの本当に気にしないんです。父も母も姉も、人の職業とか家とかで態度変えるタイプじゃないので」
「珍しい家族やな」
「私もそう思います」
真琴は少し誇らしそうに笑った。
その表情を見て、家族仲が良いのだろうと自然に分かる。
「福山さんは、ご家族は?」
「両親は元気ですよ。二人ともまだ働いてる。年金も貰ってるけど、じっとしてるの嫌みたいで」
「仲いいんですか?」
「まあ、いい方やと思います。俺一人っ子やし、たまに連絡来るし、顔も出すし」
「いいですね」
「三浦さんとこも仲良さそうやん」
「はい。姉とは四歳離れてますけど、今でも普通に連絡しますよ。姉の方が忙しくて、なかなか会えないですけど」
そこから話は自然に家族のことへ広がっていった。
優也は、自分には友人と呼べる相手がひと握りいるものの、ここ最近はほとんど会っておらず、休日は一人で過ごすことが多いと話した。職場の人間と飲みに行くことはあっても、現場が変われば顔を合わせなくなることが多く、誰かと毎日のようにつるむ生活はしていない。
「寂しくないんですか?」
「たまには。でも、俺かなり自由人やから、一人は一人で楽なんですよ。予定合わせんでいいし、急に出掛けても誰にも文句言われへんし」
「それ、ちょっと羨ましいです」
「三浦さんは?」
「私は一人の時間も好きですけど、家族が賑やかだったので、ずっと一人だと多分寂しくなると思います」
「そこは全然違うな」
「でも、違う方が話してて面白いですよ」
その一言に、優也は少しだけ照れたようにコーヒーへ視線を落とした。
◇
気づけば、休憩のつもりだった会話は三十分を大きく超えていた。
先に時間へ気づいた真琴が腕時計を確認し、小さく目を見開く。
「あ、結構しゃべってましたね」
「ごめん。勉強の邪魔したな」
「私が座ってくださいって言ったんですよ。それに、ずっと勉強してても集中切れるので、ちょうどよかったです」
真琴はノートパソコンを閉じ、広げていた本を一冊ずつまとめ始めた。
優也もそろそろ帰ろうと腰を浮かせかけたところで、少しだけ迷う。
このまま別れれば、次に会える保証はない。
これまで三度偶然会ったとはいえ、さすがに四度目まで偶然任せというのも妙な話だった。
「あの、三浦さん」
「はい?」
「もし迷惑じゃなかったらなんですけど……連絡先、交換しません?」
真琴が少しだけ目を瞬かせる。
その反応を見て、優也はすぐに続けた。
「実験のことでまた聞きたいこと出てくるかもしれないし。もちろん嫌なら全然いいです。四十四のおっさんが急に連絡先聞いたら警戒するやろうし」
「自分でそこまで言わなくても」
「いや、そこは大事やろ」
真琴はしばらく優也を見たあと、くすっと笑ってスマートフォンを取り出した。
「大丈夫ですよ。私も実験の続き、ちょっと気になってますし」
「ほんまに?」
「はい。ただし、国家試験前なので返信遅くても怒らないでくださいね」
「それは当然。むしろ勉強優先してください」
「じゃあ、決まりですね」
連絡先の交換自体は一分も掛からなかった。
優也の画面へ『三浦真琴』という名前が追加され、その下に新しい連絡先が表示される。
「何か面白い結果が出たら教えてください」
「了解。でも夜中に送ったりはせんので安心してください」
「そこは普通にお願いします」
二人で笑いながら店を出た。
建物の入口で別れ、優也は一人で駅へ向かう。
歩きながら、何となくスマートフォンを開いてしまった。
そこには確かに三浦真琴という名前がある。
ここ最近、休日は一人でいるのが当たり前だった。誰かへ連絡する用事があること自体、仕事以外ではそれほど多くない。
だからなのか、ただ連絡先が一つ増えただけなのに、妙に新鮮だった。
「三回目は、偶然だけで終わらんかったな」
優也は小さく笑い、スマートフォンをポケットへ戻した。
この時点では、真琴へ収納や鑑定の正体を明かすつもりなどなかった。実験の相談に乗ってもらい、少し話しやすい知り合いが一人増えただけだと、本気でそう思っていた。
けれど、一人で過ごすことに慣れきっていた優也の生活へ誰かが入り始めたことで、秘密を抱える意味も少しずつ変わっていく。
それを本人が自覚するまでには、もう少しだけ時間が必要だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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