ep.7 二度目の偶然
数日後の土曜日、福山優也は大阪市内の大型書店にいた。
休日だからといって特別な予定があるわけではない。午前中に洗濯と掃除を済ませ、昼を適当に食べたところで、このまま家にいればまたスプーンや家電を相手に一日中実験してしまいそうな気がしたため、半ば気分転換のつもりで外へ出てきた。
もっとも、向かった先が書店だった時点で、能力のことから完全に離れる気など最初からなかったのかもしれない。
「異空間とか書いてある本買ったら、いよいよ怪しい人やな……」
科学書の棚を眺めながら、優也は周囲へ聞こえない程度の声で呟いた。
収納、時間停止、鑑定。自分の身に起きている現象を説明できそうな言葉を検索してみても、出てくるのはゲームや小説、都市伝説めいた話ばかりで、当然ながら現実の答えなど見つからない。それなら少しくらい物理学や材料について知れば、何か考える手掛かりになるのではないかと思ったのだが、棚に並んだ専門書を前にすると、早くも自分の考えが甘かったことに気づかされた。
量子力学、熱力学、物性物理、材料工学。
題名だけなら何となく読めそうでも、ページを開けば数式と専門用語が並んでいる。
「……無理やな」
優也は開いた本を静かに閉じた。
中学を卒業してから、学問らしい学問と縁のない生活を長く続けてきた。もちろん知らないことを調べるのは嫌いではないが、だからといって専門書をいきなり理解できるほど世の中は甘くない。
もう少し初心者向けの本を探そうと棚を移動していると、『身近な素材から知る材料科学』という題名が目に入った。
「これくらいなら読めるかな」
手を伸ばしたところで、ほぼ同時に別の手も同じ本へ伸びてきた。
「あっ」
「あ、すみません」
二人の手が止まる。
優也が一歩引いて相手を見ると、白いコートを着た若い女性がこちらを見上げていた。
どこかで見たことがある。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
肩より長い黒髪に、整った顔立ち。派手に着飾っているわけではないのに、人混みの中にいれば自然と目を引きそうな綺麗な女性だった。背丈は百六十センチほどだろうか。すらりとした体型で、肩には落ち着いた色のバッグを掛けている。
そして胸元には、数日前の横断歩道で見かけた時と同じように、分厚い本が一冊抱えられていた。
「……あ」
向こうも何かに気づいたらしく、女性の目がわずかに大きくなる。
「この前、工事現場にいた方ですよね?」
「え?」
「横断歩道のところで。誘導されてませんでした?」
言われて、優也もようやく確信した。
「ああ、やっぱり。白いコート着て本持ってた人」
「覚えてたんですか?」
「まあ、なんとなく。……って、これ言い方によってはちょっと怖いな」
優也が苦笑すると、女性は一瞬きょとんとしたあと、口元を押さえて笑った。
「大丈夫です。私も覚えてたので、お互い様ですね」
「それならよかった」
思いがけず空気が和らぐ。
優也は棚へ視線を戻し、二人が同時に取ろうとしていた本を指差した。
「これ、どうぞ。俺は別に急いでないんで」
「いえ、私も見るだけなので。……というか、この本を探してたんですか?」
「探してたというか、なんとなく気になって。材料とか、物の性質とか、ちょっと知りたくて」
「お仕事でですか?」
そこで優也は一瞬だけ答えに詰まった。
まさか『最近、触った物の材質や故障箇所が頭の中へ浮かぶようになったので、その確認用です』と言えるはずもない。
「いや、趣味……かな?」
「疑問形なんですね」
「自分でも最近始めたばっかりで、趣味なのか分からなくて」
我ながら怪しい説明だったが、女性は深く追及せず、棚からその本を抜き取って何ページかめくった。
「これならかなり読みやすいと思いますよ。専門書というより入門書に近いですし」
「詳しいんですか?」
「少しだけです。大学で関連する分野も扱うので」
「材料系?」
「医学です。ただ、最近は生体材料とか医療機器の方も興味があって、そっちの本も読むんです」
医学と聞いて、優也は女性が抱えている分厚い本へ改めて目を向けた。背表紙には医学関係らしい文字が並んでいる。
「医者なんですか?」
「まだです。六年生なので、今は国家試験の前ですね」
「六年生……」
優也は思わず感心したように女性を見る。
「大変そうですね」
「大変です」
返事があまりにも即答だったので、優也は笑ってしまった。
女性も少し困ったように笑いながら、本を抱え直す。
「でも、好きで選んだので。しんどいですけど、嫌ではないですよ」
「それ、ちょっと分かるかも」
「警備のお仕事ですか?」
「そう。夏は暑いし冬は寒いし、ずっと立ってるし。でも仕事終わったら終わりやから、俺には合ってるんですよ」
「なるほど……」
女性は何か納得したように頷いた。
そこで会話が途切れ、優也は再び棚へ目を向けた。本来ならそのまま軽く会釈をして別れてもおかしくない場面だったが、せっかく材料の知識がある人間と偶然話せたことで、昨夜まで考えていた疑問が頭をよぎった。
もちろん能力そのものを話すつもりはない。
ただ、確かめ方についてなら聞けるかもしれない。
「あの、変なこと聞いていいです?」
「内容によりますけど」
「そこは即答で『どうぞ』ちゃうんや」
「変なことって先に言われたので、一応警戒します」
真顔で返されたあと、少しだけ笑われる。
優也も苦笑しながら、できるだけ怪しくならないよう言葉を選んだ。
「例えばですよ。物を見たり触ったりした時に、『これはこういう材質だ』とか『ここが壊れてる』って、なんとなく分かる人がいたとするじゃないですか。それが本当に当たってるのか確かめるなら、どうするのがいいと思います?」
女性はすぐには答えず、少しだけ首を傾げた。
「直感が当たるかどうかを調べたい、みたいな話ですか?」
「そんな感じです」
「だったら、その人が答えを知らない物を使って、先に予想を記録してから、あとで別の方法で正解を確認するのが一番分かりやすいと思います。できれば一回じゃなくて何回も。それと、本人が結果を知っている物ばかり使うと、記憶や思い込みの影響を消せないので、第三者に用意してもらった方がいいですね」
「……なるほど」
まさに自分がやろうとしていたことを、もっと整理された形で言われた気がした。
女性は手にしていた材料科学の本を棚へ戻しながら続ける。
「あと、『当たった』だけじゃなくて『外れた』結果もちゃんと残した方がいいですよ。人って当たった時の方を覚えやすいので、十回中二回だけ当たっても、その二回が印象に残って『自分は分かる』って思いやすいんです」
「耳が痛いな……」
「何か心当たりあるんですか?」
「いや、最近ちょっと色々試してて」
「何を?」
「それは……まだ秘密で」
優也がそう答えると、女性は少しだけ目を細めた。
「怪しいですね」
「やっぱり?」
「かなり」
「聞かなきゃよかった」
優也が頭を掻くと、女性は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、最初に感じた近寄りがたいほど整った印象が少し薄れ、年齢相応の柔らかさが見えてくる。
「でも、実験するなら条件はちゃんと揃えた方がいいですよ。温度とか距離とか、何を見て判断したかも記録しておけば、後から比較できますし」
「……めちゃくちゃ参考になる」
「そんな本格的な実験なんですか?」
「いや、そこまで大したもんじゃ……」
言いかけて、優也は黙った。
収納の中で時間が止まり、物の状態まで分かる能力を“大したものではない”と言い切るのは、さすがに自分でも無理がある。
「まあ、自分の中では結構気になってることです」
「じゃあ、ちゃんと記録した方がいいですね」
「そうします」
女性は腕時計へ視線を落とし、少しだけ表情を変えた。
「あ、私そろそろ行かないと」
「引き止めてすみません」
「いえ。ちょうど息抜きになったので」
一歩離れたところで、女性は何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、名前聞いてませんでしたね」
「福山です。福山優也」
「福山さん」
女性は一度確認するように繰り返してから、軽く頭を下げた。
「三浦真琴です」
「三浦さん」
「はい。それじゃあ」
「ありがとうございました」
真琴は笑顔を残して、そのまま医学書の棚がある方へ歩いていった。
優也は数秒ほどその後ろ姿を見送り、やがて自分も材料科学の本へ視線を戻す。
「三浦真琴、か……」
声に出してから、すぐに少し恥ずかしくなった。
「いや、何確認してんねん」
誰も聞いていないのに自分へ突っ込み、先ほど二人で見ていた入門書を棚から取り出す。
ぱらぱらとページをめくってみると、確かに最初に開いた専門書よりは遥かに読みやすい。金属、樹脂、ガラス、セラミックスといった身近な素材について、写真や図を交えながら説明されている。
優也は少し迷った末、その本を買うことにした。
◇
帰宅した優也は、買ってきた本をテーブルへ置き、夕食の準備を始める前にスマートフォンを開いた。
最初に確認したのは『鑑定?』のメモだった。
そこには、この数日で自分が試した結果がかなりの量で並んでいる。しかし、真琴に言われたことを思い返しながら読み直してみると、記録の仕方がかなり雑だと気づいた。
成功した結果ばかりで、何度試したのかが書かれていない。距離も『近い』『遠い』程度で、具体的な数字をほとんど残していない。触れた時と触れていない時の違いも、思いついた順に書いているだけだった。
「確かに、これやと後で分からんな」
優也は新しく表のような形で記録を作ることにした。
対象物、距離、接触の有無、質問した内容、得られた情報、あとから確認できた正解。
そこまで項目を作ったところで、少しだけ笑う。
「ほんまに自由研究みたいになってきたな」
ただ、以前よりずっと整理しやすい。
試しにACアダプターの結果から入力し直してみると、自分でも気づいていなかったことが見えてきた。接触している時は数字や細かな状態まで分かるのに対し、離れると種類や材質のような大雑把な情報しか取れない。
それなら、距離を五十センチ、一メートル、二メートルと変えながら同じ質問をしてみれば、能力がどのように弱くなるのか比較できる。
「なるほどな……こうやって調べるんか」
誰かに正式に研究方法を教わったわけではない。それでも、ほんの数分の会話だけで、今まで手探りだった実験が少し形になった気がした。
優也は夕食を後回しにしてスプーンをテーブルへ置き、床へメジャーを伸ばした。
五十センチ。
一メートル。
二メートル。
それぞれの位置から材質、状態、細かな傷について鑑定を試し、結果を記録していく。
予想通り、距離が離れるほど得られる情報は曖昧になったものの、一度だけ二メートルからでも細かな傷まで分かったことがあった。
以前なら「できた」と喜んで終わっていただろう。
ところが今日は違う。
「一回だけなら、たまたまかもしれんよな」
自分でそう言って、もう一度同じ条件で試す。
今度は分からない。
さらに数回繰り返してみても、二メートルから細かな傷を把握できたのは最初の一度だけだった。
「なるほど……こういうのも残しとかんとあかんのか」
優也は失敗した回数まで記録へ追加した。
すると、鑑定は単純に距離だけで決まるわけではなく、集中の程度や対象をどれだけはっきり認識しているかによっても結果が変わる可能性が出てきた。
答えが一つ出たのではない。
むしろ新しい疑問が増えた。
それでも、今までとは少し違う楽しさがあった。
適当に試すのではなく、条件を揃え、結果を残し、違いを比べる。一つずつ確認していけば、いつかこの力がどういうものなのか見えてくるかもしれない。
「……三浦さん、頭ええんやろな」
何気なく口にしてから、優也は手を止めた。
医学部の六年生だと言っていた。
年齢は聞かなかったが、普通に進んでいれば二十四歳前後だろう。自分とは二十歳近く離れていることになる。
「……いやいや、何考えてんねん」
別に何も考えていない。
たまたま二度会って、少し話しただけの女性だ。
それなのに、そう自分へ言い訳していること自体が少し可笑しくなり、優也は苦笑しながらスマートフォンへ視線を戻した。
画面には実験記録が並んでいる。
最後に新しく作った欄へ、今日分かったことを書き加えた。
『鑑定結果にはばらつきあり。一度成功しても再現できるとは限らない。条件を揃えて複数回確認すること。』
そこまで入力したところで、優也はようやく満足してスマートフォンを置いた。
「よし。飯にしよ」
時計を見ると、思っていたより一時間近く経っている。
また夢中になってしまったらしい。
キッチンへ向かいながら、優也はふと考えた。
もし、もう一度あの女性――三浦真琴と会うことがあったなら。
今日の結果くらいは話してもいいかもしれない。
もちろん、収納や鑑定の正体まで話すつもりはない。ただ、「教えてもらった方法で試したら役に立った」と、それくらいなら伝えてもいいだろう。
そんなことを考えながら冷蔵庫を開けた優也は、自分が三度目の偶然を少し期待していることには、まだ気づかないふりをしていた。
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