ep.6 触れなくても
週明けの仕事を終えて自宅へ戻った福山優也は、玄関の扉を閉めるなり、肩から力を抜いた。
「ただいまー……さむ」
誰もいない部屋へいつもの挨拶を投げ、靴を脱いで防寒着をハンガーへ掛ける。暖房のスイッチを入れると、冷え切った室内へようやく温風が流れ始めた。
着替えを済ませる間も、朝からずっと頭の片隅に引っ掛かっていたことが離れない。
現場で肩を痛めていた同僚を見送った時、触れてもいない相手に対して『鑑定?』が反応しかけたような感覚があった。実際に情報を読み取ったわけではなく、昨日まで能力について考え続けていたせいで、似た感覚を勝手に作り出した可能性も十分にある。
それでも、何も確かめずに忘れてしまうには気になりすぎた。
「でも、人で試すんは違うよな」
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しながら、優也は小さく呟いた。
自分で決めた『他人には勝手に使わない』というルールを、翌日にいきなり破るつもりはない。そもそも、人間でなければ確かめられないことでもなく、昨日までの実験ですでにスプーンや充電器へ鑑定らしき力を使えているのだから、まずは物を相手に非接触でも反応するのか調べれば十分だった。
夕食と風呂を済ませた後、優也はいつものテーブルへ向かった。
数日前までは食事とスマートフォンくらいしか置いていなかった場所が、今では温度計や古いケーブル、メモ用の筆記具まで並ぶようになり、すっかり簡易的な実験机へ変わりつつある。
「このままやと、そのうち顕微鏡とか買いそうやな……」
冗談半分で口にしたものの、自分なら本当に買いかねないと思い、苦笑しながら椅子へ腰を下ろした。
テーブルの中央へ置いたのは、何度も実験に使っているステンレス製のスプーンだ。
まずは手を伸ばせば届く程度の距離から、その形をじっと見つめる。収納については、どれだけ強く意識しても触れずに使えたことがない。鑑定も同じなのか、それとも朝の感覚が勘違いではなかったのか。
優也はスプーンへ意識を向け、その材質を知りたいと考えた。
最初の数秒は何も起こらなかったが、集中を途切れさせずにいると、頭の奥へごく薄い感覚が浮かび始める。
『……ステンレス……』
「お?」
昨日、直接触れた時ほど明瞭ではない。それでも、自分の記憶から答えを思い出しただけとは少し違う感覚があった。
念のため一度視線を外し、改めてスプーンを見てから同じことを試してみる。結果は変わらず、ぼんやりとしているものの、材質がステンレスであるという情報だけは自然に理解できた。
「触らんでも、いけるっぽいな」
優也はスマートフォンを手に取り、『鑑定?』のメモへ『非接触でも反応あり?』と追記した。ただし、まだ確定とまでは書かない。
次は状態について知ろうとしてみる。
昨日は触れた状態であれば、表面に細かな傷があり、使用には問題がないところまで理解できた。ところが離れたまま同じことを意識してみると、返ってきた情報は『使用済み』『大きな異常なし』という程度で、昨日より明らかに曖昧だった。
「なるほど……触った方が詳しいんかな?」
確かめるためにスプーンを手へ取ると、ほとんど待たずに『表面に微細な傷あり。機能上の問題なし』という、より細かな内容が伝わってくる。
優也はスプーンを戻し、腕を組んだ。
「見てるだけでも使えるけど、触った方が精度が上がる……今のところは、そんな感じか」
少なくとも収納とは条件が違うらしい。
それなら、次に気になるのは距離だった。
椅子を少し後ろへ引き、一メートルほど離れて試してみると、多少時間は掛かったものの材質がステンレスだという情報は得られた。さらに部屋の端近くまで下がり、三メートルほど距離を取って同じことを試すと、今度は何かが浮かびかけるものの内容までは掴めない。
そこで一歩近づいてみると、『金属製』という大まかな情報だけが返ってきた。
「距離が離れるほど雑になるんか」
ゲームのように『鑑定レベル一』などと表示されるわけでもない以上、こうして一つずつ試しながら性質を探るしかない。
優也はさらに条件を変えてみることにした。
スプーンを半透明のビニール袋へ入れてみる。形が見えている状態なら、『金属製の食器』という程度の情報は得られたが、不透明な紙袋へ入れて姿が見えなくなると、どこに置いたか分かっていても何も返ってこなかった。
「見えてることも大事なんかな」
昨日使った段ボール箱でも試してみる。
箱へ直接触れれば、中に複数の物があることまで大まかに把握できた。しかし、少し離れた場所から見るだけでは『段ボール箱』という外側の情報しか分からず、中身へ意識を向けても反応はほとんどない。
いくつか試した結果を並べてみると、傾向は少しずつ見えてきた。
対象へ触れていれば比較的詳しい情報が分かり、触れていなくても目で確認できる物なら、距離が近いほど基本的な情報を得やすい。ただし、離れるほど内容は曖昧になり、箱や袋の中に隠れた物については、今のところ非接触ではほとんど分からない。
「これなら……朝のあれも、あり得るんか」
同僚の姿ははっきり見えていたし、本人から肩が痛いと聞いた直後だったため、意識も自然にそこへ向いていた。能力が反応しかけたとしても、今の実験結果だけを見れば不自然ではない。
優也はスマートフォンの画面を眺めながら、しばらく考え込んだ。
物ならまだいい。
しかし、人間相手となれば話は別だ。
見ただけで身体の状態が分かるようになれば、本人の許可もなく健康状態を知ってしまう可能性がある。今は痛みや疲労のような情報しか分からないとしても、この力が今後どこまで広がるのかは分からず、病歴や本人が隠したい事情まで知るようになれば、単純に便利な能力として扱うわけにはいかないだろう。
「便利やけど……便利すぎるんも面倒やな」
口にしてみると、その言葉が妙にしっくりきた。
収納を見つけた時は、便利であればあるほど嬉しかった。買い物や旅行に使え、食料を長期間保存でき、重い物まで負担なく運べる。それなら自分の生活を楽にしてくれる力として素直に喜べる。
ところが鑑定は違う。
知ることができるからといって、知っていいとは限らない。
優也は『他人には勝手に使わない』と書いた一文を改めて確認し、その下へ『見ただけで反応する可能性あり。必要がない時は意識して使わない』と付け加えた。
「まあ、これで止まってくれる能力なんかは知らんけどな」
自分でルールを書いたからといって、力そのものが従ってくれる保証はない。それでも、少なくとも自分がどう扱うつもりなのかを決めておく意味はあるだろう。
そこで今日の実験を終えるつもりだったが、椅子から立ち上がったところで、視界の端にテレビが入った。
数年前に買った、ごく普通の液晶テレビだ。今でも問題なく使えているが、ときどき電源を入れた直後だけ、画面が一瞬ちらつくことがある。
「……これ、原因分かったりするんかな」
一度気になってしまうと、試さずに終えるのは難しい。
優也はテレビの前へ移動し、まず触れずに状態を調べてみた。
結果は『使用可能』『経年劣化あり』という大まかな内容だけで、故障箇所までは分からない。そこでテレビの背面へ回り、外装へ片手を触れながら、画面がちらつく原因を知りたいと意識する。
すぐに答えが返ってきたわけではなかったが、少し集中していると、やがて頭の中へ複数の情報がまとまって伝わってきた。
『電源基板――一部部品に劣化傾向。現時点で動作可能。症状進行の可能性あり』
「……そんなことまで分かるん?」
思わず手を離し、優也はテレビの背面を見つめた。
機械の仕組みに詳しいわけではないため、今の結果が本当に正しいかをすぐ確認することはできない。ただ、電源投入時だけちらつくという症状とは、何となく辻褄が合っているようにも思える。
もしこれが正しいのなら、壊れてから原因を探すのではなく、壊れる前に劣化している場所を見つけられる可能性がある。
「中古家電とか買う時、めっちゃ便利ちゃう?」
そこで初めて、能力のかなり現実的な使い道が頭に浮かんだ。
外から見えない不具合や劣化を事前に把握できれば、買い物で失敗する可能性を減らせる。車に使えるなら、事故歴そのものが分からなくても部品の状態や故障箇所を調べられるかもしれないし、古い家具や道具なら材質や傷み具合を判断する役にも立つ。
そこからさらに考え始めれば、壊れた機械の原因調査や古い物の真贋判定など、いくらでも用途が広がっていく。
「……また話でかくしてるわ」
優也は自分で自分へ突っ込み、テレビの電源を入れた。
画面には何事もなかったように番組が映り始める。
まだ古い充電器とテレビを調べただけなのに、そのたびに頭の中では能力の使い道が何倍にも膨らんでいく。この数日、それを何度繰り返したか分からない。
今日はもう終わりにしよう。
ソファへ腰を下ろしてテレビを眺め始めると、ようやく頭も少し休まった。
ところが十分もしないうちに、夕食の残りを入れた容器が目に入り、別の疑問が浮かんでしまう。
「……食べ物も状態分かったりするんかな」
少し考えたあと、優也は天井を見上げた。
「ほんま、終わらんな」
◇
翌日の昼休み、優也は現場近くのコンビニで弁当売り場の前に立っていた。
棚にはおにぎり、サンドイッチ、麺類、弁当がいつも通り並んでいるだけで、特別変わった物があるわけではない。それなのに昨夜あんなことを考えてしまったせいで、商品を見るたび「鑑定したら何が分かるのか」という疑問が勝手に浮かんでくる。
「……あかん。癖になってきてるわ」
周囲へ聞こえない程度に呟き、いつも買うような弁当を一つ手に取った。
店の商品へ必要もないのに能力を使うつもりはなかったが、手に持った瞬間、意識を向ければ情報が分かりそうな感覚だけはあった。
中身について考えれば、米、鶏肉、卵、野菜といった大まかな構成が理解できる。そこまでは透明な蓋越しに見えているため、能力による情報なのか判断しづらい。
そこで、ほんの少しだけ状態について意識してみた。
『可食。品質上の大きな異常なし』
「……おお」
思わず声が出そうになり、慌てて飲み込む。
怪しまれないよう何食わぬ顔でレジへ向かい、弁当とお茶の会計を済ませた。
店を出て現場へ戻りながら、優也は少しだけ笑っていた。
便利なのは間違いない。
食べ物の状態まで分かるなら、見た目では判断できない傷みを避けられる可能性もある。
ただ、何を見るにも能力を試す癖がつけば、そのうち人前で妙な反応をしてしまうだろう。今でも自分一人だから気兼ねなく実験できているだけで、この力について誰かに知られれば、同じようにはいかなくなる。
少なくとも、自分である程度理解できるまでは誰にも話さない。
優也はそんなことを考えながら歩いていた。
その途中、信号待ちで足を止めた時だった。
横断歩道の向こう側に、一人の女性が立っている。
二十代前半くらいだろうか。白いコートの上から肩掛けバッグを下げ、胸元には分厚い本を抱えている。信号を待ちながら本の角へ指を添え、何か考え事をしているように少しだけ視線を落としていた。
優也は何気なくその姿を見たものの、すぐに前へ視線を戻した。
知らない人間を鑑定しない。
自分でそう決めたばかりだ。
やがて信号が青へ変わり、女性は人の流れに混じってこちら側へ歩いてくる。優也も信号を渡り、そのまま現場へ戻る方向へ進んだため、二人が言葉を交わすことはなかった。
名前も知らず、互いに相手のことなど気にも留めない。
そのままなら、ただ一度すれ違っただけの人間で終わるはずだった。
けれど数日後、福山優也はその女性と、まったく別の場所でもう一度顔を合わせることになる。
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