ep.5 名前のない力
スプーンを手にしたまま、福山優也はしばらく動けずにいた。
頭の中へ浮かんだ『材質――ステンレス鋼』という情報は、目の前に文字として表示されたわけでも、誰かの声として聞こえたわけでもない。それなのに、自分で推測した答えとは明らかに違う感覚が残っている。知らなかった情報を教えられたというより、最初から記憶のどこかにあった事実を突然思い出したような、不思議な理解の仕方だった。
「……いや、待て。ステンレスぐらい見たら分かるやろ」
驚きが少し収まったところで、優也は自分へ言い聞かせるように呟いた。
銀色のスプーンを見てステンレス製だと思うこと自体は、何も不思議ではない。以前パッケージに書かれていた材質を見ていて、それを無意識に思い出した可能性だってある。収納という説明のつかない力を見つけたばかりだから、普段なら気にも留めない感覚まで特別な能力のように感じているだけかもしれなかった。
「だったら、知らんことを当てられるか試せばええだけか」
方法はそれほど難しくない。自分が答えを知らず、それでいて後から正解を確認できる物を用意すればいい。
優也は部屋の中を見回してからテーブルを離れ、収納棚の引き出しを開けた。奥には、捨てるほどではないが普段ほとんど使わなくなった物がいくつも詰め込まれている。古い充電器、短いUSBケーブル、何に付属していたのかも分からない変換アダプター、使いかけの乾電池、それに昔使っていたスマートフォンのケースまで出てきた。
「こういう時だけ、物捨てへん性格が役に立つな」
普段なら片づけが悪いと言われそうなだけだが、今日に限っては立派な実験材料である。
その中から最初に選んだのは、以前から調子の悪かった充電ケーブルだった。見た目には目立った傷がないにもかかわらず、スマートフォンへ差し込んでも角度によって充電できたりできなかったりしたため、新しい物へ買い替えて、そのまま引き出しの奥へ放り込んでいた物だ。
椅子へ戻った優也はケーブルを手に取り、端から端まで眺めてみる。
「何が悪い?」
そう考えながら、昨夜スプーンへ向けた時と同じように、収納するのではなく、この物について知りたいと意識する。
最初の数秒は何も起こらなかったが、焦らずにケーブルそのものへ意識を集中させていると、頭の中でぼんやりしていた感覚が少しずつ形を取り始めた。
『充電・通信用ケーブル。状態――劣化』
優也の眉がわずかに動く。
「そこまでは知ってるんよな」
調子が悪いことを知っている以上、劣化しているという情報だけでは証明にはならない。そこで、どこが悪いのかを意識しながら、もう少し深く知ろうとしてみる。
すると今度は、先ほどより具体的な情報が返ってきた。
『端子付近――内部導線の一部断線』
「……マジ?」
優也はケーブルの端子付近を指で摘まみ、何度かゆっくり曲げてみた。
外から見る限り、被覆が破れているわけでも変色しているわけでもない。それでも以前、まさにこの辺りを曲げると一時的に充電が復活したことを思い出す。
「辻褄は合うけど……これも俺が無意識に覚えてただけかもしれんな」
一つ結果が合ったくらいで決めつける気はなかった。
次に優也が選んだのは、引き出しのさらに奥から出てきた小型のACアダプターだった。白いプラスチック製で、表面の印字はかなり薄くなっており、何の機器に付属していた物なのかすら思い出せない。
「これは、ほんまに分からんな」
手のひらへ載せ、知りたいと意識すると、先ほどよりも早く情報が浮かんできた。
『ACアダプター。出力――5V・2A』
「……え?」
優也はすぐにアダプターをひっくり返し、薄くなったラベルへ顔を近づける。肉眼では読みにくかったため、スマートフォンのライトを点けて文字を追っていくと、そこには確かに『OUTPUT 5V 2A』と記載されていた。
そのまま数秒、優也は黙り込んだ。
「いや……覚えてへんぞ、こんなん」
何の機器に使っていたかさえ忘れているアダプターの細かな出力を、偶然記憶していたとは考えにくい。
もう一度意識を向けると、今度は入力電圧や端子の種類についても何となく理解できた。ただし、一度触れただけで大量の情報が無差別に流れ込んでくるわけではなく、自分が何を知りたいと思うかによって、返ってくる内容が変化しているように感じる。
「収納の時と似てるな……何をしたいか決めんと動かん感じか」
優也はスマートフォンを手に取り、これまで使っていた『収納?』とは別に新しいメモを作ることにした。
ところが、タイトル欄を開いたところで指が止まる。
「……なんて書く?」
物に触れ、その情報を知る力。
ゲームや小説なら、それらしい名前はいくらでも思いつくが、いざ自分の身に起きている現象へ名前を付けようとすると妙に恥ずかしい。
「鑑定……?」
声に出した途端、自分で少し笑ってしまった。
四十四歳の男が一人暮らしの部屋で『鑑定スキル』などと言っているところを他人に見られたら、かなり説明に困る。それでも分かりやすさだけで考えれば、今のところこれ以上の呼び方も思いつかなかった。
結局、新しいメモのタイトルは『鑑定?』になった。
その下へ『触れた物について、知りたい情報が分かる可能性あり』と入力し、スプーン、充電ケーブル、ACアダプターで確認できた内容も続けて書き加えていく。
「収納と鑑定……ますますゲームみたいになってきたな」
苦笑しながらスマートフォンを置いたものの、気持ちの全部が軽いわけではなかった。
収納だけでも十分に常識から外れている。それに加えて、触れた物の情報まで分かるとなれば、自分に起きていることは最初に考えていたよりずっと大きなものなのかもしれない。
だからこそ、面白がるだけではなく、どこまで分かり、どこから先が分からないのかも確認しておく必要がある。
優也は食器棚から、最初に消えたものと同じ白い皿を一枚持ってきた。
「じゃあ、これは?」
手に取って材質を知りたいと考えると、ほとんど待つことなく『磁器』という情報が浮かんだ。続いて状態について意識すれば、『使用による微細な傷あり。機能上の問題なし』という内容まで自然に理解できる。
「そこまで分かるんか……」
皿を照明へかざして表面を斜めから見ると、普段なら気にも留めない程度の細かな擦り傷がいくつも確認できた。
そこで、今度は製造された時期を知ろうとしてみる。
ところが、こちらはいくら待っても答えが返ってこなかった。新しい、古いといった曖昧な感覚すらなく、ただ何も分からないという状態が続く。
「分からんこともあるんやな。……その方がちょっと安心するけど」
何でも分かる能力だったら、それはそれで恐ろしい。知りたいと思っただけで世界のあらゆる情報が頭へ流れ込んでくるようなものなら、自分で制御できる気がしなかった。
今のところ、物の種類や材質、状態、機械なら基本的な仕様の一部が分かる程度らしい。もちろん能力そのものが変化する可能性もあれば、自分がまだ上手く使えていないだけという可能性もあるため、現時点で限界を決めるつもりはなかった。
白い皿を戻そうとしたところで、昨日実験に使った段ボール箱が目に入る。中にはタオルや文庫本、充電ケーブルなどが入ったままになっていた。
「箱の中まで分かったりするんかな?」
蓋は開けず、側面へ手を触れてみる。
まず箱そのものについて知ろうとすると、『段ボール製収納箱』という当たり前の情報が浮かぶ。そこから意識を箱の内側へ向け、中に何が入っているのかを知ろうとしてみた。
少しだけ間があり、何も起こらないかと思い始めた頃になって、『内部に複数の物品あり』という情報がぼんやりと伝わってくる。
「そこまでは分かるんや」
さらに中身の種類を意識すると、タオル、書籍、樹脂製容器、ケーブルといった大まかな分類までは理解できた。ただ、本の題名やページ数、ケーブルの細かな規格まで一度に把握できるわけではないらしい。
箱を開ければ答え合わせは簡単だった。中に入っていた物は、今の感覚で得た内容と一致している。
「透視って感じではないな……中が見えてるわけちゃうし」
収納の中を認識する感覚にも少し似ているが、あちらは“何が入っているか”を何となく把握するのに対し、こちらは対象について問い掛けると、それに対応する情報が返ってくるような感覚だった。
収納と鑑定は別々の力に見える。
それでも、優也には妙な共通点があるように思えた。
「もしかして……同じ根っこなんかな」
何を収納するのか、自分で対象を決める。
何を知りたいのか、自分で対象と質問を決める。
どちらも、ただ念じれば勝手に何かが起こるわけではない。自分が“これ”と認識し、どうしたいのかを意識することが必要になる。
専門家でも研究者でもない優也に、それ以上の理屈を考えることはできなかったが、少なくとも同じような仕組みから生まれている可能性はありそうだった。
その結果をメモへ残し、一度実験を切り上げようとした時、ふと自分の右手が目に入った。
スプーンも、皿も、充電器も、触れた物について知ることができた。
それなら、自分自身はどうなるのだろう。
疑問が浮かんだ瞬間、優也は動きを止めた。
「……いや、生き物はやらんって決めたやろ」
口にしてから、少し考え直す。
生き物を試さないと決めたのは収納についてだ。収納した瞬間に何が起こるか分からない以上、安全性が確認できるまでは試さない。その方針を変えるつもりはない。
だが、今のところ鑑定によって対象そのものに変化が起きた様子はなかった。
もちろん、それだけで安全だと断定できるわけではない。それでも他人を実験台にするくらいなら、最初に自分で確かめる方がまだ納得できる。
優也は少し迷った末、左手で自分の右手首を握った。
「……自分のことを知りたい、でええんかな?」
興味と警戒を半分ずつ抱えながら意識を集中させる。
すぐには何も起こらなかったため、やはり物にしか使えないのかと思い始めた頃、頭の奥へ微かな違和感が生まれ、それがゆっくり情報の形を取り始めた。
『福山優也。年齢――44歳』
「……そこは、まあ知ってるわな」
あまりにも当たり前の内容に思わず笑ってしまったが、人間にも反応したという事実そのものは無視できない。
そこで優也は少し考え、身体の状態について知ろうと意識を向けた。
今度は先ほどより時間が掛かったものの、やがて『軽度の疲労』『右肩周辺――筋疲労』『その他、緊急性の高い異常は検出されず』という内容が、ゆっくりと理解できる形で伝わってくる。
「……そこまで分かるんか」
優也は右肩へ手を回し、軽く揉んでみた。
交通誘導で誘導灯を振り続けているせいか、肩が凝ることは珍しくない。今日も少し重いような気はしていたものの、言われるまで忘れていた程度のものだった。
とはいえ、この情報を医学的に正しい診断として信用するのは危険だろう。『緊急性の高い異常なし』という結果にしても、どこまで詳しく身体を調べているのか分からない以上、健康診断や病院の代わりにする気にはなれなかった。
それでも、物だけではなく自分自身にも使えるらしいという事実は大きい。
優也は『鑑定?』のメモを開き、『自分自身にも使用可能らしい。名前、年齢、簡単な身体状態を確認。情報の正確性や範囲は未確認』と入力した。
そこまで書いてから少し迷い、さらに一行付け足す。
『他人には勝手に使わない。』
スマートフォンをテーブルへ置き、優也は椅子の背もたれへ身体を預けた。
物の材質や故障箇所が分かるだけなら、かなり便利な能力で済む。しかし人間の身体の状態まで分かるとなれば、扱い方を少し考えなければならない。他人へ使えば、本人が知られたくないことまで知ってしまう可能性があるし、今は分からなくても、能力が変化すればさらに多くの情報を読み取れるようになるかもしれない。
だからといって、怖がって何も試さなくなれば、結局この力のことは何も分からないままだ。
自分で線を引きながら、少しずつ確かめていく。
今の優也には、それくらいがちょうどよかった。
◇
週明けの朝、優也はいつものように道路工事の現場へ立っていた。
収納が使えるようになっても、鑑定らしき力を見つけても、仕事の内容まで突然変わるわけではない。通勤する車の流れが途切れたところで歩行者を通し、工事車両が出る時には一般車を止める。寒さで指先が少し痛くなっても、周囲へ注意を向けながら誘導灯を振ることに変わりはなかった。
「福山さん、ちょっと交代お願いしていいですか?」
隣の配置についていた警備員が、右肩を押さえながら近づいてきた。
「どうしたんです?」
「昨日から肩が変に痛くて。ちょっと休めば大丈夫だと思うんですけど」
「無理せん方がいいですよ。俺、代わりますから」
「すみません」
男は申し訳なさそうに頭を下げ、肩をゆっくり回しながら休憩場所へ向かっていった。
優也はその背中を何気なく見送る。
肩が痛い。
昨日までなら、その言葉を聞いて「大丈夫かな」と思うだけで終わっていた。しかし鑑定らしき力を知ってしまった今は、別の疑問が自然と浮かんでしまう。
どこが悪いんだろう。
ほんの一瞬、そう思った。
すると次の瞬間、頭の奥で昨日と同じ感覚がわずかに動き始めた。
「……っ」
優也は反射的に意識を逸らし、前方から近づいてくる車へ視線を戻した。
「どうぞー!」
誘導灯を振ると、車がゆっくり規制区間へ入り、そのまま優也の横を通り過ぎていく。
仕事へ意識を戻しても、胸の奥に生まれた小さな引っ掛かりだけは消えなかった。
昨日、自分自身を調べた時は手首へ触れていたし、それまでの実験でも鑑定は必ず対象に触れて使っている。ところが今は、離れた場所にいる同僚を見ながら「どこが悪いのか」と考えただけで、情報が形になりかけたような感覚があった。
単なる思い込みかもしれないし、昨日の実験を意識しすぎて似た感覚を錯覚しただけかもしれない。
それでも、もし勘違いではないのなら。
収納とは違い、この新しい力には、まだ自分が知らない使い方や条件が存在することになる。
優也はそれ以上考えるのをやめ、目の前の仕事へ集中した。能力の確認なら、家へ帰ってからいくらでもできる。今ここで必要なのは、車と歩行者を安全に通すことだった。
それでも帰宅したら、『鑑定?』のメモには新しい疑問を一つ書き足すことになるだろう。
――触れなくても、使える?
白い皿が消えただけだったはずの出来事は、優也が自分で思っているより少し速い速度で、その先へ進み始めていた。
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